第五章 私の時間を生きる
桜と悠真が再び二人で食事をしたのは、別れから半年近く経ったころだった。
春の終わり。窓を開けると少し湿った風が入り始める季節だった。
「久しぶりですね」
悠真は以前と変わらない穏やかな笑顔だった。
「半年も経ってないですよ」
「でも、長かったです」
その一言に、桜は少しだけ胸が鳴った。
食事をしながら、仕事や家族の話をした。
悠真は桜の過去について必要以上に聞かなかった。
そのことがありがたかった。
店を出たあと、川沿いを歩いた。
「桜さん」
悠真が立ち止まった。
「はい」
「前に、僕、たぶん桜さんのことが好きだって顔に出てたと思うんです」
桜は笑ってしまった。
「少し」
「ですよね」
悠真も笑った。
それから真剣な顔になった。
「今も好きです。でも、桜さんが前の恋愛を終えたから、じゃあ僕と、とは思ってません」
桜は黙って聞いた。
「もし今、誰かと付き合う気がないなら、それでいい。ただ、僕はちゃんと伝えておきたいと思いました」
誠実な言葉だった。
けれど桜はすぐには答えなかった。
以前の自分なら、こんなふうに将来を考えてくれる男性が現れたら、それだけで飛びついたかもしれない。
相手がどう思うかより、自分がどう感じるかを確かめたかった。
「少し時間をください」
「もちろん」
それから一か月、二人は友人として会った。
悠真にも、理想的ではない部分があった。
仕事に集中すると連絡が極端に減る。部屋は意外と散らかっている。料理はほとんどできない。正論を言いすぎることもある。
桜が仕事の人間関係で悩んでいるとき、「それは相手に直接言ったほうがいい」と言われ、少し腹が立ったこともある。
「言えたら苦労しないよ」
桜が言うと、悠真は一瞬きょとんとしたあと、すぐに謝った。
「ごめん。解決策じゃなくて、まず聞くべきだった」
その言葉に、桜は笑った。
ある日、悠真の姉家族と偶然会う機会があった。
姉の子どもは三歳になっていた。
公園で走り回る甥を追いかけ、悠真は本気で息を切らしていた。
「無理、体力足りない」
ベンチに戻ってきた悠真を見て、桜は笑った。
「子ども好きなんじゃなかった?」
「好きと体力は別です」
悠真の姉が横で笑った。
その光景を見ながら、桜は不思議な安心を感じた。
家庭を持ちたいという言葉が、きれいな理想だけではないとわかったからだ。
泣く子を抱き、汚れた手を拭き、予定通りにいかない一日を笑う。
そういう現実の中に、悠真は自分から入っていこうとしている。
帰り道、桜は言った。
「私、子どもがほしいと思ってる。でも、絶対に授かれるわけじゃないし、仕事も辞めたくない」
「うん」
「家事も、得意なほうがやればいいっていうのは嫌」
悠真が少し笑った。
「それ、前に誰かに言われた?」
桜も笑った。
「まあね」
「僕は料理できないけど、覚えることはできます」
「ほんとに?」
「ただし最初の一年は、食べられないものが出ても怒らないでください」
「それは困る」
二人で笑った。
未来の話をしているのに、不思議と怖くなかった。
「悠真さん」
「はい」
「私も、あなたのことが好きです」
悠真は数秒、何も言わなかった。
「今、何か言ってください」
「すみません。嬉しすぎて」
その顔を見て、桜は笑った。
恋は、若いころのような激しさではなかった。
胸が焼けるほどの衝動より、隣で呼吸が合っていくような感覚に近い。
でも、それでいいと思った。
付き合い始めてから、桜は悠真と意識して『話し合う練習』をした。
大げさなルールを決めたわけではない。
ただ、不満を三日以上ためない。相手の意見を否定する前に理由を聞く。将来の話をするときは、正解を決めるのではなく、今どう思っているかを共有する。
それだけだった。
最初は妙にぎこちなかった。
「今週末、会えないかも」
悠真が言うと、以前の桜なら「大丈夫」と即答しただろう。
その日は少し考えた。
「大丈夫だけど、ちょっと寂しい」
言ってから、自分でも恥ずかしくなった。
悠真は笑わなかった。
「そっか。じゃあ日曜の朝だけでも会う?」
それで十分だった。
逆に、悠真が不満を言うこともあった。
「桜、仕事の相談されると全部引き受けるよね」
「だって、困ってたら放っておけないし」
「でもそのあと疲れて、俺との約束キャンセルした」
言われて、桜は腹が立った。
自分は仕事を頑張っているのに、と。
けれど、少し時間を置いて考えると、悠真の言っていることもわかった。
誰かの期待に応え続けて、自分の大切な人との時間を後回しにする。
それは以前からの癖だった。
「ごめん。次から気をつける」
「仕事減らせって意味じゃないよ」
「わかってる」
こういう小さな修正を繰り返しながら、二人の関係は育っていった。
悠真と付き合い始めて最初の冬、二人は小さなすれ違いを経験した。
クリスマスの週、桜は仕事が立て込み、予定していた夕食に一時間以上遅れた。連絡は入れたものの、悠真は店の前で待っていた。
「中で待っててくれたらよかったのに」
桜が言うと、悠真は「予約、桜の名前で取ってたから」と答えた。
些細なことだった。
それでも桜は、申し訳なさと疲れが重なり、少し苛立った。
「仕事なんだから仕方ないでしょ」
「責めてないよ」
「顔が責めてる」
悠真が黙った。
食事はぎこちなく進んだ。
帰り道、桜は自己嫌悪に襲われた。
以前なら、何も言わずに距離を置き、相手が機嫌を直すのを待ったかもしれない。
今は、駅の改札前で立ち止まった。
「ごめん。今日、私が悪かった」
悠真は少し驚いた。
「遅れたことじゃなくて、八つ当たりした」
「俺も、ちょっと不機嫌だった」
「責めてないって言ったのに?」
「責めたくなかったけど、寂しかった」
桜はその言葉を聞いて、胸の力が抜けた。
寂しいと、大人でも言っていいのだ。
「私も、待たせたって思うのが嫌で、先に怒った」
「じゃあ、二人とも子どもですね」
「そうかも」
二人で笑った。
完璧な関係ではない。
でも、壊れそうになったときに直せる関係だと思った。
付き合って半年ほどしたころ、桜は婦人科の検診を受けた。
三十代になってから、子どもを持つことについて現実的に考えるようになっていた。
結果に大きな問題はなかったが、医師から年齢と妊娠について一般的な説明を受けた。
帰り道、不安になった。
悠真に話すか迷った。
付き合い始めたばかりで、重いと思われるかもしれない。
でも、以前と同じことを繰り返したくなかった。
その夜、桜は話した。
「私、子ども欲しいって言ったけど、簡単にできるとは限らないんだよね」
悠真は頷いた。
「そうだね」
「もしできなかったら?」
少し間があった。
桜はその沈黙が怖かった。
悠真は言った。
「俺は子ども欲しい。でも、子どもができるから桜と付き合ってるわけじゃない」
その答えは完璧ではなかった。
『どっちでもいい』と言われても違うと思っただろう。
欲しいものは欲しいと言いながら、それでも二人の関係を別に考えてくれる。
桜はそれが嬉しかった。
春、桜は仕事で地方出張が増えた。二週間続けて週末が潰れ、悠真とほとんど会えない時期があった。
三度目の週末、桜はホテルの部屋で一人になり、急に不安になった。
仕事を大切にしたい。
でも、仕事を優先し続けたら、また誰かとの関係を後回しにしてしまうのではないか。
スマートフォンを見ると、悠真から写真が来ていた。スーパーで買ったらしい不格好なオムライス。
『料理練習中。見た目は事故です』
桜は笑った。
電話をかけた。
「卵、破れてるね」
「そこは言わない約束で」
「誰と食べてるの?」
「一人。桜がいないから」
少し寂しそうな声だった。
桜は正直に言った。
「私、仕事も大事にしたい。でも、悠真との時間もなくしたくない」
「うん」
「両方って、無理なのかな」
電話の向こうで少し間があった。
「無理な週もあるんじゃない?」
「え?」
「毎週きれいに半分ずつ、は無理だと思う。今月は仕事が多い。来月は二人の時間を増やす。それでいいんじゃないかな」
桜はその考え方に救われた。
両立とは、毎日同じ比率で配分することではない。
そのときどきで偏りながら、長い時間で調整していくことなのかもしれない。
同居を始める前には、二人で家計について話し合った。
家賃。食費。貯蓄。保険。将来、どちらかが働けなくなった場合。
数字を並べると、恋愛とは遠い話に見える。
けれど桜には、むしろ愛情を感じた。
現実を一緒に見ることから逃げない。
悠真も万能ではなかった。
転職を考えていた時期、彼は将来の不安から苛立ちやすくなった。
「今、結婚とか考えられないかもしれない」
ある夜、悠真が言った。
桜の胸が強く縮んだ。
昔の記憶が蘇った。
また待つのか。
また先延ばしにされるのか。
けれど、今度は黙らなかった。
「その言葉、怖い」
悠真が顔を上げた。
「ごめん」
「謝ってほしいんじゃない。何が不安なのか知りたい」
悠真はしばらく黙り、仕事を辞めたいこと、収入が下がる可能性、結婚後に桜へ負担をかけるのが怖いことを話した。
桜は聞いた。
そして言った。
「私、全部養ってもらうつもりなんてないよ」
「でも」
「二人で生活するんでしょ」
結局、悠真は転職した。収入は少し下がったが、働く時間は短くなった。
その変化で、二人の生活はむしろ穏やかになった。
桜は学んだ。
未来の計画は、予定通りにいかない。
大切なのは、予定を守ることではなく、予定が変わったときに話せることだ。
付き合い始めてしばらくして、真紀と会ったとき、彼女が笑って言った。
「桜、前より顔やわらかくなったね」
「太った?」
「そういう意味じゃない」
「じゃあ何」
「前はいつも、間違えないように生きてる顔してた」
桜はしばらく黙った。
ある休日、桜は一人であの写真展の会場近くを歩いた。
展示はもう終わっていたが、駅のホームを撮った一枚を思い出した。
帰る場所ではなく、向かう場所。
今の桜には、帰る場所もあった。
そして、向かいたい場所もあった。
どちらも一つではない。
同居を決める前、桜は一人暮らしの部屋を手放すことに思った以上の抵抗を感じた。
十年近く、自分だけの場所だった。
健太と別れたあと、自分を取り戻した場所でもある。
「この部屋、解約するの寂しい」
そう言うと、悠真は「じゃあ、急がなくてもいいんじゃない」と言った。
「でも家賃もったいないし」
「それだけで決めることでもないでしょ」
桜は笑った。
結局、契約更新の時期まで三か月待った。
その三か月で、桜は少しずつ物を整理した。
古い服を捨て、本を選び、写真を箱にしまった。
健太との思い出も、無理に処分しなかった。
ある夜、悠真が手伝いに来た。
本棚の奥から、青い夜の街を描いたポストカードが出てきた。
「これ、きれいですね」
「三十二歳のとき、一人で美術館に行って買ったの」
「一人で?」
「うん。あのころ、一人で何かするの久しぶりだった」
悠真はカードをしばらく見ていた。
「新しい部屋に飾りません?」
桜は嬉しくなった。
同居後、そのカードは玄関に飾った。
出かけるたび、帰るたび、桜の目に入った。
自分の人生を自分で選ぶ、と決めたころの記憶だった。
悠真と付き合い始めてから一年後、二人は同居を始めた。
いきなり結婚を決めなかったのは、桜の希望だった。
以前なら、早く形にしたいと思っただろう。
今は、形を急ぐより、生活を一緒に作れるかを確かめたかった。
同居初日から、理想通りにはいかなかった。
悠真は洗濯物をたたむのが驚くほど下手だった。桜は調味料の置き場所に細かかった。食器の洗い方で言い争い、ゴミ出しを忘れた悠真に桜が怒ったこともある。
ある夜、仕事で疲れていた桜は、シンクに残った皿を見て苛立った。
「今日、悠真の当番だよね」
「ごめん、あとでやる」
「あとでって、いつ?」
声が強くなった。
悠真も疲れていたのだろう。
「そんな言い方しなくてもいいだろ」
空気が張った。
桜の胸に、古い記憶がよぎった。
言いたいことを飲み込み、喧嘩を避け、いつか相手が変わることを待っていた自分。
もう、そうはなりたくない。
「言い方は悪かった。ごめん。でも、私は我慢して引き受けるのは嫌」
悠真はしばらく黙ったあと、頷いた。
「わかった。俺も、疲れてることを言わずに後回しにした。ごめん」
それから二人で皿を洗った。
こんな小さなことが、桜には大きかった。
半年後、悠真からプロポーズされた。
高級レストランでも、夜景の見えるホテルでもなかった。
日曜日の朝、二人で洗濯物を干しているときだった。
「桜」
「なに?」
「この生活、ずっと続けたい」
「急にどうしたの」
「結婚しませんか」
桜は洗濯ばさみを持ったまま固まった。
「今?」
「うん」
「私、パジャマだけど」
「俺も」
二人で笑った。
桜はすぐには返事をしなかった。
ベランダから見える空を見上げた。
嬉しい。同時に、これまで二人で話してきた仕事や子ども、家計や親のことが浮かんだ。
わからないことはまだある。それでも、悠真とはその都度話せると思えた。
「はい」
そう答えると、悠真は笑った。
結婚が決まったことを母に伝えると、「よかったね」と言ったあと、母はこう付け加えた。
「幸せにしてもらいなさい、じゃなくて、二人で幸せになりなさいよ」
「うん」
結婚式の準備でも、二人は何度も意見がぶつかった。
悠真は式そのものにあまりこだわりがなく、桜は家族にきちんと感謝を伝えたかった。
「写真だけでもよくない?」
悠真が言ったとき、桜は少し傷ついた。
「私がやりたいって言ってるのに」
「やりたくないって言ってるわけじゃなくて、費用が」
「お金だけで決めたくない」
話し合いは二日続いた。
最終的に、大きな披露宴ではなく、家族と親しい友人だけの小さな式にした。
会場も、高級ホテルではなく、二人が好きなレストランを選んだ。
健太には知らせなかった。
知らせる必要はないと思った。
ただ、式の数日前、古い写真を整理していて、大学時代の一枚を見つけた。
若い桜と健太が笑っている。
あのころの自分は、あのころの自分なりに幸せだった。
桜は写真を捨てずに、箱の中へ戻した。
式の前日、母と二人で夕食を食べた。
「眠れそう?」
「たぶん無理」
「私はあなたの結婚式の前の日、全然寝られなかったわ」
「私の?」
「違う。自分の」
二人で笑った。
母はしばらくして言った。
「健太くんのこと、たまに思い出す?」
桜は驚いた。
「思い出すよ」
「そう」
「嫌?」
「どうして。十年いたんでしょう」
母は味噌汁を飲んだ。
「過去を全部捨てないと次へ行けないわけじゃないと思うよ」
桜は目頭が熱くなった。
当日は、予定どおり小さな式になった。
親しい家族と友人だけが集まった。
真紀は受付をしながら泣き、「やっとだね」と言った。
「やっとって言わないで」
桜も笑いながら泣いた。
結婚後、すぐに子どもができたわけではなかった。
半年、一年と過ぎるうち、桜は少し焦った。
病院へ行くかどうか、二人で何度も話した。
悠真は「どっちでもいい」とは言わなかった。
「俺は子どもがほしい。でも、桜と二人で生きる未来もちゃんと考えてる」
その言葉を聞いて、桜は泣いた。
二人は、期限を決めた。一年だけ、できることをやってみる。それでも授からなければ、二人の暮らしをもう一度設計し直す。それは結論ではなく、話し合いを続けるための約束だった。
結婚してから一年ほど経ったころ、桜は仕事帰りの電車で、若い女性二人の会話を聞いた。
「もう二十九だよ。彼氏も結婚する気なさそうだし、詰んだかも」
一人が笑いながら言った。
隣の友人が「まだ二十九じゃん」と返した。
桜は窓に映る自分を見た。
三十二歳の誕生日、同じように時間に追われていた。
あの頃の自分に、何と言いたいだろう。
大丈夫、と言うのは違う気がした。
結婚できるよ、と未来を教えるのも違う。
たぶんこう言う。
焦ってもいい。
怖くてもいい。
結婚したいと思ってもいい。
一人でいたいと思ってもいい。
でも、誰かの答えを待つだけで、自分の希望をなかったことにしないで。
桜は小さく笑った。
駅に着き、人の流れに合わせてホームを歩いた。
悠真から『牛乳買ってきて』とメッセージが届いた。
『了解。ほかにいるものある?』
『プリン』
『自分で買って』
すぐに泣いている顔のスタンプが返ってきた。
何でもない会話だった。
この何でもなさが、今は愛しかった。
桜は改札を抜けた。
結婚して二年目、桜は大きな昇進の話を受けた。
部長職への打診だった。
嬉しいはずなのに、迷った。
責任が増えれば帰宅は遅くなる。子どもを望むなら、今まで以上に時間のやりくりが難しくなるかもしれない。
でも今は、まず悠真に話した。
「受けたい気持ちはある。でも怖い」
悠真は言った。
「受けたらいい、とは言わない。桜がどうしたいか、一緒に考えよう」
その一言が嬉しかった。
二人で紙に予定を書き出し、家事の分担を見直し、今後の生活費も計算した。
結論は一晩で出なかった。
三日話し、桜は昇進を受けることにした。
数か月後、仕事で失敗し、帰宅して泣いた。
「やっぱり断ればよかった」
そう言うと、悠真は隣に座った。
「今日そう思うなら、今日はそう思ってていいんじゃない」
桜は笑いながら泣いた。
ある日、母と買い物をしていると、母がふと聞いた。
「幸せ?」
桜は少し考えた。
以前なら、結婚したことや仕事が順調なことを理由に「幸せ」と答えただろう。
「うん。でも、幸せじゃない日もあるよ」
母は笑った。
「それでいいのよ」
桜も笑った。
数年後、美咲が別の会社へ移ることになり、送別会が開かれた。
かつて給湯室で婚約を報告してくれた後輩は、今では部署の中心メンバーになっていた。
送別会の帰り、美咲が桜に言った。
「桜さん、昔、私に『何を選んでも何かは失うかもしれない』って言ってくれたの、覚えてます?」
桜は驚いた。
自分では忘れていた。
「あの言葉、ずっと覚えてました。結婚するときも、今回転職を決めるときも」
桜は少し照れた。
桜は帰宅して、玄関に飾った青い夜のポストカードを見た。
ある朝、桜は出勤前に鏡の前で髪を整えていた。
三十代半ばになった顔には、以前より少しだけ疲れが見える。それでも、今の自分のほうが好きだった。
リビングから悠真の声がした。
「コーヒー淹れたよ」
「砂糖入れた?」
「入れた」
「二つ?」
「一つ半」
「なんで半分」
「健康を考えて」
「余計なお世話」
笑いながらリビングへ向かった。
窓の外には、朝の光が差していた。
桜はコーヒーを一口飲んだ。
少し苦かった。
「砂糖、やっぱり二つがいい」
悠真が笑った。
「はいはい」
その何気ない朝の中で、桜は思った。
私はもう、待っていない。
私は、私の時間を生きている。




