第二章 十年という名前の安心
健太と初めて会ったのは、大学三年の春だった。
ゼミの歓迎会で、桜が飲み物をこぼしたとき、黙ってティッシュを差し出してくれたのが健太だった。
派手な人ではなかった。話も上手ではない。それでも、誰かが困っていると自然に動ける人だった。
付き合い始めたのは、翌年の春、就職活動が始まったころだった。桜は、その静かな優しさが好きだった。
就職活動で自信を失ったときも、健太は励ますのではなく、ただ隣でコンビニのアイスを食べてくれた。桜が第一志望の会社に落ちた夜、「別に今日で人生決まるわけじゃないだろ」と言った。
その言葉に救われた。
二人とも社会人になると、忙しさの中で会う時間を作った。給料日前には安い居酒屋へ行き、ボーナスが出れば少し遠くへ旅行した。
二十五歳の誕生日、桜は健太から財布をもらった。
「これ、欲しいって言ってたやつ」
「覚えてたの?」
「まあな」
照れた顔が嬉しかった。
あの頃の桜は、結婚を急いでいなかった。
この人となら、そのうち自然に結婚するのだろうと思っていた。
二十七歳のころ、同棲の話をした。
「家賃ももったいないし、一緒に住まない?」
健太は少し考えてから、「まだいいんじゃない?」と言った。
そのときは、そういう考えもあると思った。
二十八歳、友人の結婚式から帰る途中で、「私たちもいつか」と言った。
健太は「そのうちな」と答えた。
二十九歳、父が入院した。命に別状はなかったが、桜は初めて両親の老いを意識した。
病院の廊下で、母が「健太くんにもよろしくね」と言った。
そのとき、桜は急に不安になった。
この先、親のことも、仕事のことも、自分の体のことも変わっていく。
いつまでも恋人のまま、楽しいところだけ共有していけるわけではない。
三十歳になる少し前、桜は健太に言った。
「三十歳までに、これからのことを決めたい」
健太は真剣な顔で頷いた。
「わかった。俺もちゃんと考える」
その言葉を信じた。
けれど、三十歳になっても、何も変わらなかった。
「仕事が落ち着いたら」
「もう少し貯金できたら」
「来年くらいには」
先延ばしの言葉だけが増えた。
桜も、彼を追い詰めたくなかった。
結婚を迫る女になりたくないという気持ちもあった。SNSやネットの記事で『結婚を迫ると男は逃げる』『余裕のある女性が選ばれる』という言葉を目にするたび、自分の希望を口にすることが、相手への圧力であるような気がしてきた。
だから我慢した。
我慢して、理解のある恋人でいようとした。
その結果、二年が過ぎた。
ある金曜日、桜は仕事を終えて健太の部屋に行った。
玄関を開けると、部屋には脱いだ服が散らばり、シンクには洗っていない皿が積まれていた。
「ごめん、今週忙しくて」
健太は悪びれずに言った。
桜は黙って上着を脱ぎ、皿を洗い始めた。
その背中に、健太が「助かる」と声をかける。
ふと手が止まった。
もし結婚したら。
もし子どもが生まれたら。
私は今と同じように、彼ができないことを引き受けるのだろうか。
「健太」
「ん?」
「結婚したら、家事ってどうすると思う?」
「そりゃ、できるほうがやればいいんじゃない?」
一見、平等な答えに聞こえた。
「できるほうって?」
「桜、料理も洗濯も俺より得意じゃん」
「私も仕事してるよ」
「わかってるよ。だから俺も手伝うって」
手伝う。
桜はその言葉を聞き逃さなかった。
自分の家のことなのに、なぜ彼は『手伝う』と言うのだろう。
それ以上は言わなかった。
喧嘩になるのが嫌だった。
けれど心の中に、以前はなかった違和感が残った。
翌朝、健太がまだ眠っている間に一人で帰った。
電車の中で、窓の外の住宅街を見た。
ベランダに洗濯物が揺れ、子どもを自転車に乗せる母親がいて、犬を散歩させる老人がいる。
生活は、誰かと一緒にいるだけでは成り立たない。
毎日の小さな責任を引き受け続けることで成り立つ。
健太は悪い人ではない。
それどころか、優しい人だ。
けれど、優しい人が、自分にとってよいパートナーとは限らない。
そのことを考えるたび、桜は胸が痛んだ。
週明け、大学時代の友人・真紀と久しぶりに会った。
二人目の出産後、初めて二人だけで話す時間だった。
「寝不足すごいよ」
真紀は笑った。
「でも旦那さん、協力してくれるんでしょ?」
「するよ。でもね、協力っていうより、やって当然だと思ってるみたい」
「いいな」
桜が思わず言うと、真紀が顔を上げた。
「健太くんは?」
桜は少し迷ってから、これまでのことを話した。
真紀は途中で口を挟まず、最後まで聞いた。
「ねえ、桜」
「うん」
「十年付き合ったから、これからも付き合わなきゃいけないわけじゃないよ」
その言葉は、鋭かった。
「でも、十年だよ」
「だから何?」
「簡単に捨てられないよ」
「捨てるんじゃなくて、終わることもあるってこと」
桜は黙った。
真紀は続けた。
「私、健太くんのこと悪く言うつもりない。でも、桜が『どうしたいか』より、『十年を無駄にしたくない』って話ばっかりしてるのが気になる」
その夜、桜は眠れなかった。
十年を無駄にしたくない。
確かに、そう思っていた。
けれど過去を守るために、未来まで差し出していいのだろうか。
十年間が幸せだったなら、それで価値はあった。
その時間が終わることと、その時間が無駄になることは同じではない。
桜はようやく、その違いに気づき始めていた。
十年の間には、何度も別れかけたことがあった。
就職して二年目、健太が仕事のストレスから荒れていた時期がある。会えば愚痴ばかりで、桜の話を聞く余裕がなかった。ある夜、約束の時間を一時間過ぎても来ず、連絡もなかった。
「もう帰るね」
桜がメッセージを送ると、二時間後に『ごめん寝てた』と返ってきた。
そのとき本気で別れようと思った。
けれど翌日、健太は会社帰りに桜の家まで来て、コンビニの袋を下げたまま何度も謝った。
「最近、自分でもダメだと思ってる。桜に甘えてた」
その言葉を信じた。
健太は実際、その後しばらく変わった。遅れるときは連絡をし、桜の話を聞くようにした。
だから桜は知っている。
人は変われないわけではない。
問題は、変わる必要を本人が感じているかどうかだ。
結婚の話になると、健太にはその必要がなかった。
彼にとって現状は快適だった。
恋人はいる。週末には会える。孤独ではない。けれど家計を一緒にする必要も、親戚付き合いをする必要も、家事を分担する責任もない。
桜はそれを責めたいわけではなかった。
ただ、その快適さのために自分が待ち続けることはできないと思い始めていた。
真紀と会った数日後、大学時代の友人たちのグループチャットに、同窓会の連絡が入った。
参加者一覧には、既婚、未婚、子どもがいる人、離婚した人、海外へ移住した人、転職した人がいた。
十年前は、みんな似たような場所に立っていた。
それが今は、人生の形が驚くほど違う。
桜はそれを見て、少し安心した。
人生には本当にいろいろな道がある。
自分だけが遅れているわけではない。
同窓会当日、桜は久しぶりに大学時代の友人・理沙と会った。理沙は三年前に離婚していた。
「結婚したとき、私が一番早かったじゃん」
ワインを飲みながら理沙は笑った。
「だから勝手に、私が人生うまくいってると思ってた」
「そんなふうには思ってなかったよ」
「私は思ってたの。結婚したら一個ゴールしたみたいな気でいた」
理沙は少し遠くを見るような顔になった。
「でも、結婚って始まりなんだよね。当たり前だけど」
「離婚、後悔してる?」
桜が聞くと、理沙は首を傾げた。
「結婚したことは後悔してない。離婚したことも、たぶん後悔してない。ただ、もっと早く自分の違和感を信じればよかったとは思う」
「違和感?」
「小さいやつ。話し合いができないとか、私の仕事を軽く見るとか。最初は、そんなことでって思ってた。でも小さいことって、毎日あるから大きくなるんだよ」
桜は言葉を失った。
家事を『手伝う』と言うこと。
将来の話を面倒そうにすること。
子どもの話をすると冗談で逃げること。
一つ一つは小さい。
でも、毎日の生活は小さいことの積み重ねだ。
帰宅後、桜は健太との写真をスマートフォンで遡った。
旅行。花火大会。クリスマス。何でもない居酒屋。病院の待合室。引っ越しを手伝った日。
どの写真も、確かに幸せそうだった。
それを見ているうちに涙が出た。
別れたいのではない。
変わってほしいのだ。
でも、相手が変わることを前提に未来を選ぶのは、違うのかもしれない。
今の健太を見て、選ばなければならない。
数日後、健太から「今度、母親が東京に来るらしい」と聞いた。
「会う?」
桜は少し期待して聞いた。
十年付き合っているが、健太は桜を家族に正式に紹介したことがなかった。電話越しに挨拶したことはある。写真も見せているという。それでも、食事をしたことは一度もない。桜の両親には、二年目の正月に紹介済みだというのに。
健太は「ああ」と曖昧に笑った。
「今回は姉貴のところに行くらしいから」
「そう」
「また今度でいいじゃん」
また今度。
その言葉が、桜の中に落ちた。
十年間、いくつの『また今度』を受け取ってきただろう。
同棲も、結婚も、家族への紹介も。
未来はいつも、今度だった。
桜はその夜、初めて健太に怒った。
「どうして私を家族に会わせたくないの?」
「別に会わせたくないわけじゃない」
「じゃあ、いつ?」
「だから、タイミングあるだろ」
「十年って、タイミングとして短い?」
健太が黙った。
桜は言い過ぎたと思った。
けれど、謝らなかった。
今まで謝りすぎていた。
空気を悪くした自分。結婚の話をした自分。不満を言った自分。
けれど、関係の中で希望を口にすることは、悪いことではない。
翌日、健太から『昨日はごめん』と来た。
桜も『私もきつく言った』と返した。
それで会話は終わった。
何も解決していないのに、仲直りだけはできる。
それが二人の得意なことだった。
問題を解決するのではなく、問題から離れて穏やかに戻る。
十年続いた理由の一つは、たぶんそこにあった。
大きな喧嘩をしない。
でも、大切な話も最後までしない。
桜はようやく、その穏やかさの代償を理解し始めていた。
健太にも、彼なりの事情があった。
居酒屋での告白のあと、健太は少しずつ家の話をするようになっていた。
健太の父は、彼が高校生のころに事業で失敗した。家には借金が残り、父は会社員に戻って働き詰めになり、母親もパートで長い間返済を支えた。健太は大学時代から奨学金を借り、就職後も返済を続けていた。
「だから家庭持つの怖いんだよ」
先日、酔った健太はそう漏らした。
「親父みたいになったらって思うと」
そのとき桜は、彼が結婚を避ける理由を少し理解した。
だから待った。
不安が消えるまで。
経済的に落ち着くまで。
自信がつくまで。
でもある日、桜は気づいた。
不安が完全になくなる日は、たぶん来ない。
自分にも不安はある。仕事を失うかもしれない。病気になるかもしれない。子どもができないかもしれない。親の介護が必要になるかもしれない。
人生は、安心してから始めるものではない。
不安を抱えながら、誰となら進めるかを考えるものなのではないか。
健太が悪いわけではない。
彼には彼の恐れがある。
ただ、その恐れを理由に立ち止まる人生に、桜まで付き合い続ける必要はない。
それを理解するまで、桜は長い時間がかかった。
ある晩、健太は珍しく自分から将来の話をした。
「もし結婚したらさ、桜って今の仕事続ける?」
桜は驚いて顔を上げた。
「続けたい」
「子どもできても?」
「できれば」
「大変じゃない?」
「だから二人でやるんじゃないの」
健太は少し困った顔をした。
「俺、そんな器用じゃないと思う」
「私だって器用じゃないよ」
「でも桜ならできるじゃん」
また、その言葉だった。
桜ならできる。
褒め言葉に聞こえるけれど、そこには『だから自分がやらなくても』という甘えが混じることがある。
桜は初めて、そのことをはっきり言った。
「私ができるかどうかじゃなくて、健太が一緒にやる気があるかを聞いてる」
健太は黙った。
その沈黙が、何より正直だった。
数日後、真紀から写真が送られてきた。上の子が熱を出し、下の子も泣いていて、食卓には途中まで作った夕食が並んでいる。『今日、地獄』という短いメッセージが添えられていた。
桜は思わず笑った。
幸せな家庭は、SNSに写る瞬間だけではない。
洗濯物がたまり、子どもが泣き、夫婦が喧嘩し、仕事に遅れそうになる。桜が欲しいと思っている結婚も、きっとそういう生活なのだ。
それでも欲しいのだろうか。
自分に問いかけ、桜は迷わず思った。
欲しい。
華やかな結婚式ではなく、生活を一緒に引き受ける関係が欲しい。
その週末、健太の母から久しぶりに電話があった。健太の母の誕生日に桜が贈った菓子のお礼だった。
「桜ちゃん、いつもありがとうね」
「いえ、こちらこそ」
「健太、ちゃんとしてる? あの子、本当に何もしないでしょう」
冗談めいた声だった。
桜は笑ったが、その言葉が引っかかった。
「家では昔から、何もしない子でね。結婚したら奥さんに怒られるわよって言ってるの」
悪意はない。
むしろ親しみのある会話だった。
でも、桜の中で何かが沈んだ。
結婚したら、奥さんに怒られる。
その前提には、誰かが健太の生活を整えるという役割が置かれている。
電話を切ったあと、桜は台所で長く立ち尽くした。
彼のお母さんが悪いわけではない。健太が悪い人なわけでもない。長い間、家庭の中で当たり前とされてきた役割が、そのまま次の世代へ手渡されることがある。
自分がそれを引き受けたいかどうかは、別の話だった。
翌週、会社で女性管理職向けの研修があった。参加者は三十代から五十代まで十数人。研修後の懇親会で、桜は四十五歳の営業部長・小川と同じテーブルになった。
小川には高校生の娘がいる。
「子育てしながら管理職って、やっぱり大変でしたか」
桜が聞くと、小川は笑った。
「大変だったよ。今も大変」
「ご主人は協力的ですか」
「協力的、って言葉、私は嫌いなの」
桜は驚いた。
小川はグラスを置いた。
「夫も親なんだから、協力じゃなくて当事者でしょう。でもね、最初からそうだったわけじゃない。私も何でも自分でやったほうが早いって思って、抱え込んでた。そしたら夫は、やらなくていい人になっちゃった」
その言葉は、桜の胸に刺さった。
「変わったんですか」
「喧嘩した。何度も。別れようと思ったこともある。でも、私は何が嫌なのか言ったし、夫も言った。話し合うのって、きれいじゃないよ」
小川は笑った。
「でも、黙って我慢してるよりはましだった」
帰りの電車で、桜は健太との十年を思い返した。
自分はどれだけ本音を言ってきただろう。
結婚したいと言った。
でも、なぜ結婚したいのか。どんな生活を望んでいるのか。仕事をどう続けたいのか。家事や育児をどう考えているのか。
そこまで具体的に話したことは、ほとんどなかった。
健太が逃げたのは事実だ。
けれど桜も、嫌われるのが怖くて、核心に触れる前に引き下がってきた。
「話し合えない関係」にしてきた責任が、自分にも少しはあるのかもしれない。
その考えは苦しかったが、不思議と気持ちは軽くなった。
相手だけが悪い物語なら、自分には何も変えられない。
自分にも選択があったと認めれば、次は違う選び方ができる。
その夜、桜は健太にメッセージを送った。
『今度、ちゃんと時間を取って話したい。結婚するかどうかだけじゃなくて、どんな生活をしたいか』
既読がつくまで十分ほどかかった。
『わかった』
短い返事だった。
約束の日、二人は健太の部屋ではなく、駅前の静かな喫茶店で会った。
桜がそう提案した。テレビもゲームもない場所で話したかった。
「何から話す?」
健太は落ち着かない様子で水を飲んだ。
桜は手帳を開いた。
「私、仕事は続けたい。結婚しても辞めるつもりない」
「それは別にいいんじゃない」
「子どもは、できれば欲しい」
健太は黙った。
「でも、絶対じゃない。できるかどうかもわからないし」
「うん」
「もし子どもができたら、育児は二人でやりたい。保育園の送り迎えも、病気のときも、私だけが休む前提は嫌」
健太の眉が少し寄った。
「俺の会社、急に休みにくいんだよ」
「私の会社だって同じだよ」
「でも、俺の部署、本当に人数少なくて」
桜は息を吐いた。
早くも会話が「できない理由」へ向かっている。
「じゃあ、どうするか考えたいって言ってるの」
「今からそんな細かいこと決めなくてもよくない?」
「決めたいんじゃない。考える姿勢があるか知りたいの」
健太は黙った。
長い沈黙だった。
桜は焦らなかった。
以前なら、気まずさに耐えられず「まあ、今すぐじゃなくていいけど」と逃げ道を作っていた。
今日は待った。
やがて健太が言った。
「正直、そこまで考えたことなかった」
「うん」
「桜が結婚したいって言うから、結婚するかしないかだけ考えてた」
「私は、結婚そのものが欲しいわけじゃないよ」
「じゃあ何が欲しいの?」
桜は少し考えた。
「一緒に決めていける相手」
言葉にした瞬間、自分でも腑に落ちた。
「何が起きるかわからないじゃない。仕事を辞めることもあるかもしれない。親の介護が必要になるかもしれない。子どもができるかもしれないし、できないかもしれない。そういうときに、片方だけが考えるんじゃなくて、一緒に考えられる人と暮らしたい」
健太は俯いた。
「俺、それできてないな」
桜は答えなかった。
責めるための会話ではない。
でも、慰めるための会話でもない。
「変わってほしいってこと?」
「わからない」
桜は正直に言った。
「変わってくれたら一緒にいられるのか、それとももう違うのか、私もわからない。でも、健太がどうしたいかは聞きたい」
健太はコーヒーを見つめたまま言った。
「俺は、今の生活が好きなんだと思う」
「うん」
「仕事して、休みの日に桜と会って。責任って言われると怖い」
「うん」
「結婚して失敗したら、逃げられない気がする」
桜は初めて、彼の言葉の奥にあるものを理解した。
健太は結婚したくないのではなく、失敗することが怖いのだ。
だから、始めなければ失敗もしないという場所に立ち続けている。
「でもね、健太」
桜は静かに言った。
「始めないことで失うものもあるよ」
健太が顔を上げた。
「私、ずっと待ってたんだよ」
その目に、初めて本当の痛みが浮かんだ。
「ごめん」
「謝ってほしいんじゃない」
「でも、俺……」
「今日、答えを出さなくていい。ただ、私もずっと待つとは言えない」
店を出たあと、二人は駅前で別れた。
いつもなら健太の部屋へ行く週末だった。
「今日は帰るね」
「そっか」
「うん」
健太は何か言いたそうだったが、結局「気をつけて」とだけ言った。
家に帰ると、部屋がやけに広く感じた。
桜は泣かなかった。
代わりに、冷蔵庫にあった野菜でスープを作った。
玉ねぎを切り、人参を煮て、塩を入れる。
誰かのためではなく、自分のために作る夕食。
湯気の向こうで、桜は思った。
十年という時間は、自分を縛る鎖ではない。
大切だった時間だからこそ、その先を誤魔化してはいけない。
話し合いから一週間、健太は少し変わった。
桜が部屋へ行くと、シンクの皿が洗われていた。洗濯物も畳まれている。
「珍しいね」
「やればできるんだよ」
健太は照れたように言った。
桜は嬉しかった。同時に、胸の奥に冷静な自分がいた。
一週間だけなら、誰でも変われる。
自分が確かめたいのは、家事をするかどうかだけではない。
二人で生活を作ろうとする意思があるかどうかだった。
その夜、二人で夕食を作った。健太が野菜を切り、桜が炒める。包丁の使い方が危なっかしくて、桜は何度も口を出しそうになった。
「そこ、もっと薄く」
言いかけてやめた。
代わりに聞いた。
「やりにくい?」
「めっちゃ」
「じゃあ、ゆっくりでいいよ」
完成した料理は少し火が通りすぎていた。
それでも健太は満足そうだった。
「こういうのなら、まあできるかも」
桜は笑った。
ほんの少し、希望が見えた。
でも翌週、健太は仕事が忙しくなると元に戻った。
部屋は散らかり、約束していた買い物も「疲れたからまた今度」と延期になった。
「ごめん。今週ほんと無理」
桜は責めなかった。
仕事が忙しいことはわかる。
ただ、自分が欲しいのは「余裕があるときだけできる関係」ではないと思った。
余裕がないときにこそ、どう支え合うか。
そこに生活の本当の形が出る。
別の日、健太が珍しく桜の部屋に来た。
夕食後、ソファでテレビを見ていたとき、桜のスマートフォンに母から着信が入った。
父の腰の痛みが悪化し、病院へ付き添ってほしいという連絡だった。
「明日、実家行ってくる」
「大丈夫?」
「たぶん。検査だけ」
健太は心配そうに眉を寄せた。
「何かあったら言って」
その言葉は優しかった。
桜は少し迷ってから聞いた。
「もし将来、親の介護が必要になったらどう思う?」
健太は固まった。
「急に重いな」
「ごめん。でも、そういうこともあるじゃない」
「まあ……そのとき考えればいいんじゃない?」
「そうだね」
桜はそれ以上言わなかった。
そのとき考える。
健太はいつもそう言う。
でも桜は、将来のすべてを今決めたいわけではない。ただ「そのとき一緒に考える」という姿勢を、今のうちに感じたいのだ。
翌日、父の検査は大きな問題なく終わった。
病院の帰り、母と喫茶店に寄った。
「健太くん、心配してた?」
「うん。何かあったら言ってって」
「優しい子ね」
母はそう言った。
桜も「うん」と答えた。
優しい。
本当にそうだ。
だからこそ、別れるかもしれない自分が冷たい人間に思える。
母は桜の顔を見て、何か察したようだった。
「優しい人と、暮らせる人は、同じじゃないこともあるわよ」
桜は驚いた。
「お母さん、エスパー?」
「あなたの母親を三十二年やってるの」
二人で笑った。
母はコーヒーを一口飲み、続けた。
「お父さんだって、結婚したころは家のこと何にもできなかった。でも私が怒って、喧嘩して、少しずつ変わったの。私も変わった」
「じゃあ、健太も変わるかもしれない?」
「変わるかもしれない。でもね」
母は桜をまっすぐ見た。
「変わるかもしれない人を待つかどうかは、あなたが決めることよ」
その言葉は厳しかった。
可能性は、約束ではない。
人は変わることがある。でも、変わらないこともある。
相手の未来の可能性に、自分の時間を預けるのか。
桜は帰りの電車で長く考えた。
その夜、健太から『お父さん大丈夫だった?』とメッセージが来た。
桜は『大丈夫。ありがとう』と返した。
その優しさに、また心が揺れた。
答えは簡単には出ない。
でも桜は、揺れること自体を悪いと思わなくなっていた。
揺れながらでも、自分で考え続ける。
それが今できることだった。




