第玖話 『ぶどう棚と異国の謎豆』
北組の組頭が乗り込んできた一件以降、どうやら原田の迫力に驚いたのか一切の干渉もなくなり、再び穏やかな勤番士生活を送って、一月経ち二月経ち、甲府盆地に吹きすさんでいた八ヶ岳颪が和らぎ、愛宕山の山肌が淡い桜色に染まり始めた頃。
冬の間、霜よけの藁を被せて休ませていた南組屋敷の裏庭は、春の暖かな日差しを浴びて劇的な変貌を遂げていた。
「……すさまじいな、これ」
新三郎は縁側から庭を見渡し、呆然と呟いた。
冬の間に桔梗屋から運び込まれた、大量の「当帰や苦参などの生薬の搾り粕」と「薬草乾燥かまどの薬草灰」。
苦参や当帰などの成分を含んだその有機残渣を、落ち葉や米ぬかと共に鋤き込み、じっくりと発酵させておいた土壌は、雪解け水を吸って今や真っ黒く、まるで上等なカステラのようにフカフカに仕上がっていた。
試しに足を踏み入れると、草鞋がふわりと沈み込む。
手に取れば、団粒構造が完璧に出来上がっており、握れば固まり、指先で突けばホロリと崩れた。化学肥料など影も形もないこの時代において、窒素、リン酸、カリウム、微量要素、そして天然の防虫成分が完璧に調和した、いわば「チート級の培養土」である。
「お早うございますだ、佐々木様!」
長屋門から元気な声を響かせてやってきたのは、すっかり新三郎の手足として馴染んだ下男の茂助である。その後ろにはもう一人、小柄な少年が背負い籠を担いでぺこぺこと頭を下げていた。
「佐々木様、桔梗屋の旦那様から言いつかりまして、本日もお手伝いに上がりました、丁稚の長吉にございます!」
市兵衛が「小者代わりに自由に使ってくれ」と送り込んできた店の小僧であった。茂助と長吉、二人の若い労働力が揃ったことで、新三郎の「隠居農園」はもはや個人菜園の規模を遥かに超えつつあった。
「よし、二人とも。今日は春の作付けだ。まずは『輪作』の割り振りを決めるぞ」
新三郎は竹べらを取り、縁側の板に簡単な見取り図を引いた。
「冬に大根と蕪を作った区画には、ナス科の野菜を植えちゃいけない。同じ科の作物を同じ場所に続けて植えると、土の中の特定の養分が偏り、線虫や病気の元が増えて育たなくなる。『連作障害』ってやつだ」
茂助と長吉が、目を丸くして顔を見合わせた。
「れ、れんさくしょうがい……? 村じゃあ『土地が痩せた』とか『畑が風邪を引いた』とか言って、お祓いしたり休ませたりしてましただ……! 植える野菜の仲間を変えれば防げるんですかい!?」
「ああ。アブラナ科の大根の後は、根粒菌で土を肥やしてくれるマメ科の大豆や小豆を植える。その隣の区画には、夏に向けてウリ科の胡瓜や南瓜。そして日当たりの一番良い手前の畝に、ナス科の茄子を配置する。こうやって時計回りに場所を回していくんだ」
前世の高校園芸部で叩き込まれた、家庭菜園のイロハである。
だが、経験則だけで農業をやっていた江戸後期の若者たちにとって、それはまるで天地自然の理を解き明かす「秘術」のように聞こえていた。
「す、すげえ……! 佐々木様のおっしゃる通りに土を作ったら、冬の大根だって村中の年寄りが腰を抜かすほど甘くなったんだ。今回も絶対に大豊作間違いねえですだ!」
「あっし、一生懸命畝を掘ります!」
二人が俄然やる気を出し、新三郎が鍛冶屋に打たせてもらった本鍛造の備中鍬を手に、裏庭へと駆け出していく。
若いエネルギーが眩しい。四十代元社畜の新三郎は目を細め、腰に手を当てて満足げに頷いた。
「さて……次は俺の本命だな」
新三郎は裏庭の西側、母屋の縁側から一番よく見える一等地に歩み寄った。
そこには、前日に茂助と山から切り出してきた、頑丈な栗の丸太と竹が何本も立てかけられている。
「甲斐の国といえば、やっぱりあれだろ」
そう、葡萄である。
甲府盆地、とりわけ勝沼周辺の甲州葡萄はすでに有名であったが、城下の武家屋敷で自ら棚を組んで栽培している者など皆無であった。
新三郎は先日、勝沼の農家から剪定されたばかりの葡萄の若木を挿し木用に数本、格安で譲り受けてきていたのだ。
(丸太を四隅に埋めて、割竹を格子状に渡す。夏になれば青々とした葉が日陰を作って、縁側が最高の『緑のカーテン』になる。秋にはたわわに実った葡萄を、もぎたてで冷水に浮かべて食う……。ついでに、余った実をちょっと潰して発酵させれば……おっと、自家製ワインは幕府の酒造統制に引っかかるか? いや、個人でこっそり飲む果実酒ならセーフか……?)
想像するだけで涎が出そうであった。
前世では、狭い賃貸マンションのベランダで、排気ガスに晒されながら枯れかけたミニトマトの苗を眺めるのが関の山だったのだ。
それが今や、敷地百坪の広大な敷地!
誰にも文句を言われないマイホーム!
出勤は月にたった四日、残業ゼロ、ノルマゼロ!
面倒な親族付き合いもなければ、チャットツールの呼び出し音に怯える夜もない!
「極楽……。ここは間違いなく、現世に現れた桃源郷だ……!」
新三郎は春の柔らかな風を胸いっぱいに吸い込み、腕まくりをして鋸と縄を握りしめた。
トントン、カンカンと、春の静かな城下に木槌の小気味よい音が響き渡る。
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昼過ぎ。
見事な葡萄棚の骨組みが組み上がり、畝には茄子と胡瓜の種が整然と蒔かれた頃、長屋門の潜り戸が遠慮がちに叩かれた。
「ご免! 佐々木様、いらっしゃいますでしょうか!」
やってきたのは、足の骨折がすっかり完治した桔梗屋の手代市蔵であった。
市蔵は庭先で汗を流す新三郎の姿を認めるなり、パッと顔を輝かせて駆け寄ってきた。
「佐々木様! お久しぶりでございます! お陰様でこの通り、足もすっかり元通りに歩けるようになりました!」
「おお、市蔵か。良かったな、無理に歩いてまた痛めるなよ」
「へい! 旦那様から『佐々木様への御用聞きを怠るな』ときつく言われておりまして。……おや? これは……」
市蔵の視線が、組み上がったばかりの棚と、整然とした畝に吸い寄せられた。
「ぶ、葡萄棚でございますか!? それに、この畝の割り振り……ただ野菜を植えているだけではございませんね?」
「ああ、ちょっとした思いつきだよ。連作を避けて、土の力を循環させる工夫をしているだけだ。桔梗屋から貰った生薬の搾り粕が良すぎてな、土が元気すぎて困るくらいだ」
新三郎は何気なく笑って、手拭いで首筋の汗を拭った。
だが、薬種問屋の手代として、日頃から各地の薬草畑や仕入れ先を見ている市蔵の目は誤魔化せなかった。
雑草一本生えていない黒土からは、まるで生き物のような力強い土の気が立ち上っているような気がする。そして、幾何学的なまでに緻密に計算された作付けの配置。
(……旦那様のおっしゃった通りだ)
市蔵の背筋に、ゾクゾクとした畏怖の念が走った。
あの笹子峠で、自分を背負いながら事も無げに応急手当を施してくれた若侍。
そして、町の大工すら唸るような正確無比な葡萄棚を半日で組み上げ、土壌の病を未然に防ぐ高度な術を「手慰み」と言ってのけるこの底知れなさ。
(このお方は……本当にただの御家人様なのか? 門外不出の本草学の秘術を隠し持ち、この甲府の片隅で、恐るべき実験を試みておられるのではないか……!?)
「あ、あの、佐々木様……!」
「ん? なんだ?」
市蔵は懐から、丁重に油紙で包まれた小さな桐箱を取り出した。
「実は……旦那様から、もう一つお届け物を言いつかってまいりまして。先月、長崎の阿蘭陀船から日本橋の問屋経由で入ってきたという、極めて珍しい『唐土と紅毛の豆の種』にございます」
「豆の……種?」
「へい。何でも、異国では滋養強壮の生薬とも、畑を肥やす秘草とも言われているそうですが、袋の中には丸い種とシワの寄った種が入り混じっておりましてな。江戸の薬種仲間でも『育ちの悪い粗悪品が混ざって使い物にならぬ』と匙を投げられ、扱いに困っていたものでして……。『本草の深奥を極められた佐々木様ならば、あるいはこの種の真価をお引き出しくださるかもしれぬ』と、旦那様が……」
新三郎は桐箱を受け取り、蓋をそっと開けた。
中には、乾いた音を立てて転がる大小の豆粒が収まっていた。
確かに市蔵の言う通り、つるりと丸い粒と、くしゃりと縮んだシワ豆が雑多に混ざり合っている。
(……おいおい。これ、どう見ても……メンデルが修道院の庭で数えまくってた、あのエンドウ豆の親戚じゃないか……?)
四十代元社畜の理系的好奇心と、園芸部の血がドクンと跳ね上がった。
土はある。極上の生薬肥料はある。気候は温暖で日当たりは最高。
「……よし。形ごとに仕分けて、庭の片隅に試験用の畝を立ててみるか」
新三郎は満足げに笑った。
自分の趣味の庭いじりが、着々と「周囲の誤解」と「未知のチート農場」へと進化していることにも気づかずに。
そして、この豆の種こそが、やがて甲府城下を揺るがす「大いなるハッタリ劇」の引き金になるとは――この時の新三郎は、まだ夢にも思っていなかったのである。




