↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
甲府勤番、隠居ならず  作者: geol70


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
8/12

第捌話 『うちの飯炊き係(エンジニア)に手を出すな』

 甲府の冬は、底冷えが厳しかった。

 盆地特有の乾いた八ヶ岳颪が吹きすさぶ中、南組の詰所だけは異様な熱気と美味そうな湯気に包まれていた。


「うめえ……! なんだこの大根、芯まで出汁が染みてやがる……!」

「山鯨の脂と味噌の甘みが、トロットロにとろけた大根に絡んでたまらねえぞ……!」


 長机の真ん中に据えられた大鍋を囲み、南組の荒くれ勤番士たちが我先にと箸を伸ばしている。

 新三郎が自宅の裏庭で初収穫した冬大根を、下男の茂助に大八車で運ばせ、詰所の火鉢で特製の大根鍋に仕立てて差し入れたのだ。味噌仕立ての汁には、原田から貰った山鯨の薄切りと、葱が惜しげもなく投入されている。


「佐々木、お前、本当にただの厄介払いか? 料理屋の倅じゃねえのか」


 南組の古株原田十兵衛が、熱々の分厚い大根をハフハフと頬張り、濁り酒をぐいと煽って破顔した。


「いえ、実家で少し自炊をしていただけでして。庭に埋めておいても余るほど採れましたので、皆様に食べていただければと」

新三郎が苦笑交じりに応じると、原田は身を乗り出し、脂ののった山鯨の塊をどんぶりへ放り込んできた。


「おい佐々木、お前がお山の城内警備の勤務を月に十日……いや、七日に増やしてくれるならよ、北杜の猟師から山鯨でも紅葉肉でも、いくらでも調達して差し入れてやるぜ! どうだ!?」


「滅相もございません!!」


 新三郎は全力で首を横に振った。

 いくら美味い酒の肴が手に入るとはいえ、山鯨ごときで月四日勤務の黄金生活を手放すなど言語道断である。

 その時、奥の小部屋から南組組頭神保勘解由が、幽霊のように青白い顔をしてふらふらと現れた。


「……さ、佐々木……」

「あ、組頭様。大根鍋、一杯いかがですか? 胃の腑に優しい味付けにしてありますが」

「食っている場合ではないのだ……! お前のせいで……いや、お前が完璧すぎるせいで、俺の胃の腑が……胃の腑に穴が穿たれる寸前なのだッ!!」


 勘解由はガタガタと震える手で新三郎の腕を掴み、誰もいない部屋の隅へと引っ張っていった。


「いいか、佐々木、よく聞け……! 先月、お前が代筆してくれた『城門修繕及び南組出納帳』と『月報』な……」

「はい。何か計算間違いでもありましたか?」

「間違いなどあるものか! 一文の狂いもなく、字はまるで版木刷りのように美麗! 過去三年分の判例まで見出し札で引いてあったせいで、あの丹後守様が……あの死んだ目の御支配様がだな……!」


勘解由は懐から丸薬を取り出し、震える口元に放り込んだ。


「書類を一目見るなり、それまで苦しそうに胃の腑をさすっていた手をピタリと止められたのだ……!そして、濁った目で虚空を睨みながら、『……神保。貴様、急に頭の病でも患ったか? これほど誤字もなく数字の合う月報を、貴様が書けるはずがなかろう』と、低く唸られたのだぞッ!!」

「ひえっ」


 新三郎は思わず引き攣った声を漏らした。


(たぶん、長年クソコードを出してた下請けが、急にきれいなコードを出してきた時のPMの顔をしたんだろうな……)


「さらに最悪なのは、他組の連中だ……!」


 勘解由が脂汗を拭いながら声を潜める。


「北組の組頭島崎や、勘定方の役人どもが嗅ぎつけてきた! 『あの昼行灯の神保が、急に支配からお褒めの言葉を預かったらしい』『南組に何か秘密があるに違いない』とな! しかも……お前、先週、城下の大店桔梗屋から進物を山ほど受け取っただろうッ!!」

「あ……」

「鍛冶町で鍬を買い、桔梗屋の旦那が直々に屋敷へ頭を下げに来たという噂が、もう城内の役人どもの耳に入っておるのだ! 『佐々木はただの無骨者ではない、豪商を手懐け、裏で帳簿を操る切れ者ではないか』と、北組の連中が嗅ぎ回っているのだぞッ!!」


 その時であった。

 詰所の板戸が、ドスンと無遠慮に開け放たれた。


「――おいおい、神保の旦那。南組ばかり美味そうな匂いをさせて、精が出ますなあ」


 入ってきたのは、鋭い目つきをした五十絡みの武士――北組組頭の島崎であった。

 その後ろには、勘定方と御納戸方の帳付役人が二人、帳簿の束を抱えて不気味に控えている。

 詰所の空気が一瞬で凍りついた。

 だが、南組の荒くれ者たちは箸を止めない。原田十兵衛がギラリと島崎を睨みつけた。

 島崎はズカズカと上がり込むと、懐から一冊の分厚い帳簿を取り出し、畳の上に置いた。


「先日の南組の出納帳、見事な出来栄えだったそうだな。ついては、だ……我が北組が江戸の勘定奉行所へ提出せねばならぬ『年貢米換価出納帳』、過去五年の帳尻がどうしても合わんのだ。ぜひとも、優秀な神保殿にちょいとお手伝い願いたいのだが? それとも、誰か他に神保殿の秘蔵っ子でもおるのかな?」


島崎のねっとりとした視線が、神保の背後を執拗になぞる。勘定方の役人もすかさず慇懃無礼に頭を下げた。


「左様。ぜひ、勘定方の助勤として神保殿の手をお借りしたい。あれほどの見事な筆跡と算術、御支配様も感心しておられましたぞ」


神保勘解由は一瞬で血の気を失い、青ざめた唇をわなわなと震わせた。


「い、いや……滅相もない! それがしには荷が重すぎる……! あれはたまたま筆が走り、帳簿の数字も偶然合致しただけでして……助勤などとてもとても……」


 神保の下手くそな言い訳を聞き逃す島崎ではなかった。冷笑を浮かべ、すかさず畳み掛ける。


「ほう? 神保殿の手が回らぬとおっしゃるなら……やはり、噂の新入りの佐々木某をお借りするしかありますまい。猫の手もなんとやらと申しますし、佐々木を少し手伝いに借りるだけでござる。神保殿にはご迷惑はかかりますまい?」


(げええええっ!? 勘定方の助勤!?)


 新三郎の全身の毛穴から冷や汗が噴き出した。

 そんな部署に放り込まれたら、過去五年分の計算ミスの泥沼デバッグ作業で、即座に月三十日残業確定、過労死コースへ逆戻りではないか!


 神保だけでなく新三郎も恐怖で青ざめ、完全に追い詰められた。


「ひ、引き抜きなど滅相もない……! 佐々木はただの無骨者で、筆など持たせても役に立ちませぬ……!」

「ええい、見苦しいぞ神保! 出せぬというなら、御支配様にお伺いを立てて直々に指名してもらうまでのこと――」


 島崎が傲然と言い放ち、新三郎の腕を掴もうと踏み出した、その刹那――。

 ドカッ! と荒々しい音が響いた。

 原田十兵衛が、猪の骨をくわえたまま立ち上がり、島崎の鼻先に立ちはだかったのだ。


「おいおい、島崎の旦那。耳が遠くて聞こえねえのか? 佐々木はうちの南組の人間だ。それに、こいつは剣術の手習いしか能がねえ木偶の坊だってことは、組頭が丹後守様にもお届け済みのはずだぜ」


 原田の後ろから、他の南組勤番士たちもぞろぞろと立ち上がり、手に手に長槍や木刀の柄に手をかけて島崎たちを取り囲んだ。

 詰所が綺麗になって居心地が良くなり、美味い大根を腹いっぱい食わせてもらった恩を、この荒くれ者たちが忘れるはずがなかった。


「な、なんだ貴様ら! 上役に対して刃傷沙汰に及ぶ気か!」


 島崎が気圧されて後ずさる。


「滅相もねえ。ただな、うちの大事な『飯炊き兼掃除係』を他組に横取りされちゃあ、南組の面目が立たねえって話よ。帳簿の計算が合わねえなら、自分らのそろばんを磨き直すこったな」


 原田の殺気配る巨体に睨まれ、島崎と勘定方の役人は顔を真っ赤にして舌打ちした。


「……ええい、野蛮な連中め! 神保殿、この件はいずれ御支配様のお耳にも入れるからな!」


 捨て台詞を残し、島崎たちは転がるように詰所から逃げ去っていった。


「……ふ、ふうううううっ……助かった……」


 勘解由はその場にへたり込み、胸を押さえて荒い息を吐いた。


「おう佐々木、大丈夫だったか」


 原田がニッと白い歯を見せ、新三郎の肩をバシンと叩いた。


「安心しろ。お前を勘定方なんぞの肥溜めに渡してたまるかよ。お前はここで、美味い大根を煮て、詰所を綺麗にしてりゃいいんだ」

「は、はあ……かたじけなく存じます……」


 新三郎は深々と頭を下げた。

 南組の連中が「頼もしい盾」になってくれたのはありがたい。

 だが、自分の代筆による「南組の帳簿急変事件」を巡って、組頭同士の暗闘が完全に始まってしまっている。


(まずい……。このままだと、俺が目立ちたくないのに、周囲の利害対立のせいで勝手に外堀が埋まっていく……!)


---


 一方、その頃。

 甲府城の本丸支配役宅の奥深く。

 甲府勤番支配戸川丹後守正武は、執務机に積み上がった書類の山を前に、一人佇んでいた。

 その双眸には、いつものように光が一切宿っていない。完全なるハイライトの消えた「死んだ魚の目」である。


 ポリポリ、ポリポリ――。

 奥歯で胃の腑の丸薬を無心に噛み砕きながら、丹後守は南組から上がってきた一枚の報告書を指先でなぞっていた。


 (……はて)


 丹後守は、死んだ魚のような瞳の奥で、わずかに眉をひそめた。

 いつもなら、提出される書類の九割九分が、ミミズののたくったような悪筆と、手習い所の童以下の間違いに満ち溢れている。それを一つ一つ突き返し、怒鳴り散らし、胃から血を流すのが日課であった。

 だが、先月から南組の書類だけが、異様に読みやすく、数字が寸分違わず合っている。

 それどころか、南組の詰所周辺だけ、なぜか勤番士たちの喧嘩や遅刻の報告がピタリと止んでいるのだ。


「……南組、か」


 丹後守の口から、乾いた呟きが漏れた。


「神保の器量で、このような芸当ができるはずがない。……何かが、あそこに潜んでいるな」


 冷たい冬の月明かりが、丹後守の生気のない横顔を青白く照らし出していた。

 破滅の足音が、確実に、一歩ずつ新三郎の「スローライフ」へと迫っていた――。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。