第漆話 『冬大根鍋と豪商の強襲』
霜月の冷たい風が甲府盆地を吹き抜ける頃、南組屋敷の裏庭は、瑞々しい濃緑の葉で力強く覆われていた。
新三郎が秋口に天地返しを行い、下男の茂助と共に丹精込めて筋蒔きした大根である。
朝夕の冷え込みは厳しさを増していたが、寒気に晒された根菜は自らの凍結を防ぐため、細胞内にたっぷりと糖分を蓄えているはずだった。
「佐々木様! これ、もう抜いてもええですかい!?」
庭掃除の手を止め、茂助が黒土からずっしりと太い青首を突き出した大根を指差して目を輝かせた。
「ああ、試しに一本いってみよう。茂助、葉の根元を両手でしっかり掴んで、真上に引けよ」
「へいっ!」
茂助が腰を落とし、太い腕にぐっと力を込める。
ズボッ、と小気味よい湿った音を立てて抜けたのは、まるまると肥え太り、肌のきめ細やかな見事な大根であった。土を落とすと、眩しいほどの純白が冬の淡い陽光に冴え返る。
「う、うわあ……! なんて太え大根だ……! 村の畑でも、こんなに真っ直ぐで肌の綺麗なやつは滅多にお目にかかれねえですだ!」
「天地返しで深く土をほぐしたからな。下に石もなかったし、根が素直に伸びてくれた。茂助、何本か好きに家に持って帰れ。お袋さんに煮てもらえ」
「えっ、本当ですかい!? ありがとうございますだ!」
茂助が満面の笑みで大根を抱え、勝手口へ走っていく。
新三郎はもう一本自ら引き抜くと、井戸端で泥を綺麗に洗い流した。刃を当てると、パキッと涼やかな音を立てて身が割れ、甘みを含んだ水分がじわりと滲み出す。
その日の昼下がり。
新三郎は縁側に小さな七輪を引き出し、炭火を起こしていた。
鍋に張った昆布出汁の中へ、分厚い輪切りにして隠し包丁を入れた大根を沈める。ぐつぐつと静かに煮え立つ湯気から、出汁と根菜の素朴で芳醇な香りが立ち上る。
仕上げに、先日の当番の際に南組の原田から貰った山鯨の干し肉を数枚放り込んだ。山鯨の滋味あふれる脂が出汁に溶け出し、大根の芯まで透き通るような飴色に染まっていく。
熱々の大根を小皿に取り、息を吹きかけながら口へ運ぶ。
「……あふっ、ん……うまい」
ハフハフと頬張ると、驚くほどの甘みと出汁の旨味が口いっぱいにジュワッと広がった。
繊維が柔らかく解け、後味に一切のエグみがない。寒気に当てて糖度を上げた効果は覿面であった。添えられた山鯨の野趣あふれる塩気とコクが、大根の淡白な甘みをこれ以上なく引き立てている。
「これだよ……。俺が求めていたのは、こういう冬なんだ」
縁側に背を預け、湯気を吸い込みながら熱い茶を啜る。
前世では、終電間際のコンビニで買った冷えたおでんを、PCのモニター前で虚しく胃に流し込んでいた。それに引き換え、自ら耕した庭で採れた野菜を、澄んだ青空の下で誰にも邪魔されずに味わう贅沢さ。
完全に人生の勝利を噛み締めていた、その時であった。
ドンドン、ドンドン!
「――頼もう! ご免! 佐々木新三郎様のお屋敷はこちらでござりましょうか!」
表の長屋門の扉を、遠慮がちだが力強く叩く音が屋敷中に響き渡った。
(ん……? 門番? いや、この屋敷に客なんて来るはずがないんだが)
不審に思いつつ、新三郎は羽織を引っ掛けて玄関へと向かった。
内側から閂を外し、潜り戸をギギッと開けると、門前には見覚えのある顔が立っていた。
藍色の豪勢な羽織をまとった知命の齢ほどの商人。その後ろには、大きな風呂敷包みや桐箱を大事そうに抱えた手代と丁稚の姿が三人。
「あ……」
「おお……! やはり、やはりあのお方だ……ッ!!」
商人は新三郎の顔を認めるなり、羽織の裾を払ってその場に端座し、敷石の上で両手を揃えて深々と頭を下げた。
甲府城下の薬種問屋桔梗屋の当主市兵衛であった。
「佐々木新三郎様でございますね。……笹子峠にて手代の市蔵をお救いいただき、我が店の看板たる生薬を身一つでお届けくださった大恩、この市兵衛、生涯忘れることはございません。ご挨拶が遅れましたこと、平にお許しくだされ」
その声は静かだが、万感の思いが込められて震えていた。
出仕遅刻の恐怖から名も名乗らず逃げ去ったあの日の記憶が蘇り、新三郎の背筋に冷や汗が伝う。
「い、いや……桔梗屋殿。拙者は通りがかりで当然のことをしたまで。わざわざお越しいただくようなことでは……」
「滅相もございません! 恩義を受けながら名も知らず、礼も尽くさぬとあっては、甲府商人の恥、桔梗屋代々の看板折れにございます。……立ち話も何でございます、ほんのわずかでもお時間を頂戴できませぬでしょうか」
門前で押し問答を続けては、隣近所の勤番士たちに怪しまれる。
新三郎は観念し、小さく息を吐いた。
「……分かった。粗茶も出せぬが、どうぞ中へ」
---
新三郎は一行を玄関へ招き入れた。
武家の作法として町人を軽々しく奥座敷に上げるわけにはいかないため、式台に上がってもらい、鉄瓶の白湯を振る舞う。
「ささ、佐々木様。これらは我が店からの心ばかりの感謝の印にございます。どうぞお納めくだされ」
市兵衛の合図で、手代たちが持参した進物を恭しく式台へと並べた。
「京都の老舗に誂えさせました、最上等の絹綿入りの丹前(防寒着)にございます。甲府の冬は底冷えいたしますゆえ、どうぞお召しくだされ。それと、桐箱入りの極上白砂糖を三斤と、駿河の本山茶。そして……」
手代が布を解くと、そこには鈍い黒光りを放つ見事な備中鍬が横たわっていた。
「鍛冶町で佐々木様が農具をお求めになったとお聞きし、甲斐屈指の名鍛冶の作を取り寄せました、鋼割り込みの本鍛造にございます」
(……鍛冶町のことまで筒抜けかよ。諜報機関かよこの問屋……)
手頃で実用的ながら、どれも一級の品ばかりだ。これ見よがしに小判を積むのではなく、実用と相手の暮らしに配慮した絶妙な進物のチョイスに、大店の主としての洗練された気遣いが滲んでいた。
「桔梗屋殿、過分なお心遣い、恐縮に存ずる。……して、そこの勝手口から裏庭を見ていたようだが?」
市兵衛が先ほどから、式台の奥の廊下越しに、チラチラと裏庭の方角へ熱い視線を送っていたのに新三郎は気づいていた。
「あ……申し訳ございません。お武家様のお屋敷の内を覗き見るなど、無礼をいたしました。ただ……廊下の向こうに見えました裏庭の畝が、あまりに見事でございまして」
「大したものではない。手慰みに冬大根を植えているだけだ」
「いえ! 遠目にも分かりました。あの葉の張りといい、土の黒々とした照りといい、並の百姓の手によるものではございません。……もしや佐々木様は、土作りに特別な金肥でもお使いで?」
生薬の仕入れで各地の薬草畑を見回っている市兵衛の目は、誤魔化せなかった。
新三郎は苦笑し、つい園芸好きの癖で何気なく口を開いてしまった。
「金肥など買えぬよ。ただ、落ち葉と刈り草、かまどの灰を交互に積んで寝かせた堆肥を使っただけだ。あとは……植え付ける前に深耕――『天地返し』をして、九月の強い日差しでしっかり土干しをしたのだ。深さ一尺まで丁寧に土を耕して石ころを取り除き、秋の太陽で病虫の卵を退治した。大根がまた引きにならず、まっすぐ太く伸びるよう、土をふかふかにほぐしてやっただけの話だよ」
「……天地返し……?」
市兵衛が息を呑み、目を見開いた。
「土を……九月の日差しで干し、太陽の力で虫と病を絶つ……? そ、そんな理屈、甲斐の老農からも聞いたことがございませんぞ……!」
「それに、大根のような直根類は、下に硬い盤層石があると二股に分かれてしまうからな。深く耕してやれば素直に伸びる。……まあ、ついでに言うなら、土中に潜むネキリムシの類には、苦みのある薬草……そうだな、苦参や当帰の根の煎じ殻なんかを刻んで混ぜておくと、虫が嫌がって寄り付かなくなるはずだがな」
新三郎にとっては、高校生物や園芸部で学んだ「土壌消毒」と「アルカロイド・精油成分による害虫忌避」の基本知識に過ぎなかった。
だが、薬種問屋として生薬の性質を知り尽くしているつもりの市兵衛にとって、その言葉は雷鳴のような衝撃であった。
(な……なんというお方だ……!)
市兵衛の背筋に鳥肌が立った。
苦参や当帰。それらが持つ独特の苦味や芳香が、ただの薬効に留まらず「土中の害虫を退ける術」として農業に応用できるなど、考えたこともなかった。
迷信や経験則ではない。植物の持つ「理」を完全に把握し、土の構造から説き起こすその知識――。
(このお武家様……ただの貧乏御家人などでは断じてない。江戸できちんとした師に付き『本草学』を深く修めた、隠れた本草学者に違いない……!!)
市兵衛の目が、商人のそれから「求道者」の光へと変わった。
「さ、佐々木様……! 恐れながら、我が店の蔵には、生薬を精製した際に出る『苦参や当帰の搾り粕』や、薬草乾燥かまどの薬草灰が山のように眠っております! これまでは近在の農家にわずかな銭で引き渡しておりましたが……もしよろしければ、あれをすべて佐々木様のお屋敷へ運び込ませてはいただけないでしょうか!?」
「えっ? いや、そんなものを貰っても置き場が……」
「庭の隅の堆肥場に積んでおくだけで、天下無双の金肥となりましょう! 銭など一文もいただきません、我が店の蔵払いを兼ねておりますゆえ! ぜひ、ぜひお使いくだされ!」
市兵衛は身を乗り出し、畳に額がつく勢いで懇願してきた。
「それに、足の治った手代の市蔵を、月に二度は御用聞きとして伺わせます! 力仕事が必要な折は、店の小僧を一人、小者代わりに自由に使っていただいて構いませんゆえ!」
「いやいや、下男は茂助がいるから手は足りて――」
「茂助殿のお手伝いをさせればよいのです! さあ、新吉、早く店へ戻って搾り粕の手配をいたせ!」
「へ、へいっ!」
手代が弾かれたように玄関を飛び出していった。
新三郎は呆然として口を半開きにした。
(……待て。俺はただ、園芸の基礎知識をちょっと喋っただけなんだが……?)
なぜか桔梗屋の目が、自分を「神仏」か「稀代の大学者」を見るような崇敬の色に染まりきっている。
断ろうにも、相手は「恩返し」の大義名分を掲げて一歩も引く気配がない。
やがて、手代たちが運んできた「苦参と薬草の搾り粕」が詰まった大樽が、裏庭の隅へと整然と運び込まれた。
庭先には、漢方の芳醇な香りと、極上の発酵肥料の予感が立ち込めていく。
手元には、極上の丹前、白砂糖、名刀のような切れ味の鍬、そして庭をチート級の肥沃地帯に変えてしまう大量の生薬肥料。
夕暮れ時、市兵衛たちをようやく見送り、一人取り残された新三郎は、冷めかけた大根鍋の前で深く天を仰いだ。
(スローライフ……俺の、誰にも注目されない静かな隠居生活はどこへ向かってるんだ……?)
外堀が、猛烈な勢いで、しかも極上の肥料と共に埋まり始めていた。
「おい、そっちは慎重にな! 佐々木様の大事なお庭に傷をつけるなよ!」
市兵衛の威勢のいい大声が裏庭に響き渡る。
あっという間に裏庭の隅へと積み上げられていく、山のような生薬の搾り粕と薬草灰の大樽。
冷めきった大根鍋の前に座り込んだまま、新三郎は引き攣った顔でその光景を眺めていた。
「……ちょっと待て。俺はただ、大根を食いたかっただけなんだが……」
漢方の強烈な芳香が漂う庭で、新三郎の力ない呟きだけが虚しく響いていた。




