第陸話 『ゴミ溜め詰所のビフォーアフター』
着任から七日あまり。
裏庭の畝には、大根と蕪の小さな緑の双葉が綺麗に顔を覗かせていた。秋の柔らかな朝露を浴びてキラキラと輝く芽を眺め、新三郎は至福の息を漏らす。
だが、今日は待ちに待った……いや、月にたった四日しかない「本業」の初日であった。
「佐々木様、お出かけですかい?」
庭の手入れに来ていた下男の茂助が、竹箒の手を止めて頭を下げた。
「ああ、御山へ初登城だ。夕方には戻るから、昼の打ち水だけ頼むぞ」
「へい! 行ってらっしゃいませ!」
新三郎は黒紋付の羽織を羽織り、腰に刀を佩いて屋敷を出た。
二十代の引き締まった足腰は実に軽く、城下を抜けて甲府城の山下門へ至る坂道も、息一つ乱れずに登り切ってしまう。
(月四日の出勤で、残業なし。前世の俺が見たら、あまりのホワイト待遇に泣いて気絶するレベルだな)
鼻歌交じりで城内へ入り、指定された「南組詰所」の引き戸をガラリと開けた。
その瞬間――。
「……うっ」
鼻腔を直撃する、強烈な異臭。
煙管の脂と焦げた灰の臭い、脱ぎ捨てられた草鞋の泥の腐臭、そして誰かがこぼしたまま放置した安酒の饐えた匂いが渾然一体となって漂っていた。
部屋の中央では、昼前だというのに無精髭の同僚二人が火鉢を囲んでサイコロを転がしている。
壁際には手入れのされていない錆びた槍が倒れかかり、床にはちぎれた鼻緒や反故紙がゴミ山のように散乱していた。
(うわぁ……デスマーチ真っ最中の、あの地獄の深夜執務室と同じ臭いがする……)
四十代元社畜の「現場管理本能」が、激しい拒絶反応を起こして警報を鳴らし始めた。
「おう、新入りか」
サイコロを振っていた大男が、血走った目でちらりと新三郎を見上げた。江戸で旗本の次男坊を木刀で叩きのめして山流しになったという、南組の古株原田十兵衛である。
「新入りの佐々木新三郎にございます。本日からよろしくお願いいたします」
「へっ、殊勝なこった。まあ、適当に壁際で寝てろ。どうせ敵なんざ攻めてこねえし、門番の交代は昼八ツだ」
原田はそう吐き捨てると、手元の湯飲みから濁り酒を呷った。
定時まで寝ていろと言われたのだから、普通なら「やったぜ」と隅っこで昼寝を決め込むところである。だが、新三郎にはどうしても耐えられないものがあった。
汚い。
散らかっている。
足の踏み場がない。
臭い。
(頼むから……頼むから俺の視界に『散らかったゴミ』を入れないでくれ……!)
前世の受託開発時代、ソースコードのインデントが半角スペース一個ずれているだけで発狂し、サーバー内の散らかったディレクトリを休日に無給でフォルダ分けしていた男の「業」である。
「……すまぬが、少し体を動かしたいので、掃除をさせてもらっても構わぬか?」
「あ? 掃除だあ? 勝手にしろ、埃をこっちに飛ばすんじゃねえぞ」
原田らは鼻で笑い、博打に戻った。
新三郎は腕まくりをすると、詰所の片隅に転がっていた竹箒を手に取った。
発動するのは、日本の製造業とIT現場を支えてきた最強のオフィスマネジメント――『5S(整理・整頓・清掃・清潔・躾)』である。
まずは「整理」――要るものと要らないものを分け、要らないものを捨てる。
割れた茶碗、吸い殻の山、いつのものか分からない干からびた握り飯を容赦なくゴミ籠へ放り込む。
続いて「整頓」と動線改善。
倒れかかっていた長槍を壁際の掛け木に一本ずつ整列させ、すぐ手に取れるよう穂先の向きを揃える。散乱していた脱ぎ捨ての草鞋は、出入口の土間に木枠を据えて「一人一足」の置き場を作った。
さらに、詰所の板の間に転がっていた雑多な木札を拾い集めた。
詰所の板壁に、組員の名札が無造作に放り出されているのを見た新三郎は、腰の矢立を取り出した。 壁に横並びで竹釘を打ち込み、その上に等幅フォントの美しい楷書で『出立』『待機』『非番』と書いた見出し札を掲示する。そして、各人の名前が書かれた木札を現在の状態の釘へ掛け直させた。 一目で誰がどこで何をしているかが分かる、『タスク管理ボード(かんばん方式)』の爆誕である。
「ふう……次は「清掃」と「清潔」だな」
手桶の水を撒き、箒で一気に掃き清める。固く絞った濡れ雑巾で、長年ヤニと油で黄ばんでいた床板をキュッキュと磨き上げた。
二十二歳の若く強靱な肉体は、雑巾がけなど朝飯前だ。ものの半刻で、薄暗く淀んでいた詰所の空気が、目に見えて澄み渡っていった。
「おい……十兵衛、なんか寒くねえか?」
博打を打っていたもう一人の勤番士が、ふと顔を上げた。
「あ……? 煙草の煙がねえな。それに……」
二人は呆然と周囲を見回した。
ゴミ一つ落ちていない板の間。ぴたりと整列した武具。土間には脱いだ草鞋が綺麗に揃えられ、火鉢の灰は綺麗に山形に均されている。
そして壁には、自分たちの名札が整然と並ぶ謎の木枠。
「な、なんだこれ……? うちの詰所か……?」
「お前ら、交代の時間だぞ」
新三郎が「待機」の釘に掛かっていた自分の木札を外し、「出立」の釘へコトンと掛け替えてみせた。
「原田殿、長槍は右の二番目に置いてあります。草鞋は土間の手前に揃えておきました。それから、次の交代は暮六ツですので、木札を戻しておいてください」
「お、おう……?」
原田は毒気を抜かれたように立ち上がった。
いつもなら「俺の槍はどこ行った」「草鞋が見当たらねえ」とゆうに煙草一服はできる時間を喚き散らしてイライラするところが、足を出せばすんなり草鞋に足が入り、手を伸ばせば完璧な角度で槍が握れる。
(な……なんだこの、引っかかりのなさは……!?)
門番へと向かう原田の背中は、いつもより心なしかシャンとしていた。
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午後、詰所にふらりと現れた組頭の神保勘解由は、入口で完全に硬直した。
「ひっ……!? ま、間違えて御支配役宅の広間に迷い込んだか!?」
「あ、組頭様。お疲れ様です」
奥の机で、勘解由から押し付けられていた「先月の城門修繕報告書」の清書と先月の出納帳の検算を終えた新三郎が、静かに頭を下げた。
机の上には、年度別、案件別に小分けされ、見出し札がピシッと貼られた帳簿の山が、美しく積み上がっている。
勘解由はガタガタと震えながら、新三郎の元へ小走りで駆け寄った。
「さ、佐々木ッ! これはお前がやったのか!?」
「はあ、少し散らかっていたので、片付けついでに書類の整理をしておきました。これなら過去三年分の修繕費も一呼吸の間があれば探せますよ」
「馬鹿者ッ! なんてことをしてくれたんだッ!!」
勘解由は青ざめ、新三郎の耳元で悲鳴のような小声を絞り出した。
「こんなに綺麗に整頓されて、書類まで整っていたら、通りかかった丹後守様の目に止まってしまうではないか! 『南組の詰所はどうしたのだ』と怪しまれたらどうする! 俺の胃の腑に穴を開ける気かッ!!」
「えっ、でも仕事場が汚いと能率が……」
「能率など要らんのだ、この甲府勤番には! 余計なことをして目立つなとあれほど言っただろうがッ! 頼むから……頼むから俺を過労死の危機から救ってくれ……!」
胃を押さえて半泣きになる勘解由。
そこへ、門番の交代を終えた原田十兵衛たちが戻ってきた。
「おう、組頭、いたのか」
「ひっ! 原田……!」
荒くれ者の原田に絡まれるのを恐れて身を縮める勘解由。
だが、原田は床にドカリと座り込むと、珍しく穏やかな顔で手拭いで汗を拭った。
「なあ組頭よ。この新入りの佐々木……いいな」
「えっ?」
「いつもなら交代のたびに道具を探して腹が立って仕方がねえんだが、今日は信じられねえくらいスッと交代できた。それに、この部屋……なんか知らねえが、酒飲んで横になっててもやけに落ち着くんだよ」
詰所の居心地が良すぎて、いつもは町へ繰り出して博打を打つはずの連中が、誰一人として詰所から出ていこうとしないのだ。
原田が懐から竹の皮に包んだ干し猪を取り出し、新三郎に向かって投げてよこす。
「ほらよ、北杜の猟師から安く仕入れた山鯨の干し肉だ。炙って酒の当てにすると美味いぞ」
「あ、ありがとうございます」
「ところで佐々木、お前、明日も来るか?」
「いえ、それがしは月四日の勤務ですので、次は七日後ですが……」
「ちぇっ、つまらねえな。おい組頭、佐々木の勤務をもっと増やせねえのか?」
(増やしてたまるかァァァッ!!)
新三郎と勘解由の心の叫びが、完璧にシンクロした。
「と、とにかく! 佐々木は不調法者ゆえ、あまり詰所に置くのも教育に悪いでな! 城門警備が終わったなら、本日はもう下がってよい! さあ帰れ、早く帰るのだ佐々木!」
勘解由は必死の形相で新三郎を詰所から追い出した。
内心で「組頭ナイス!」と快哉を叫びながら、新三郎は夕暮れの甲府城を意気揚々と後にした。
(やれやれ、ちょっと5Sをやっただけなのに大騒ぎだな。まあいい、初日の勤務は無事終了だ。これでまた七日間は畑いじりに没頭できるぞ!)
「おい佐々木、待てよ」
詰所を出ようとした新三郎の背中に、原田が声をかけた。
放り投げてきたのは、竹の皮に包まれた山鯨の肉だ。
「持っていけ。家で酒の当てにでもしな」
「……かたじけなく存じます」
受け取った干し肉のずっしりとした重み。
手入れされた詰所の居心地の良さに満足げな同僚たちの顔を見返し、新三郎はふっと口元を緩めた。
(まあ……こういう職場なら、月四日くらいは付き合ってやってもいいか)
夕焼けに染まる甲府城を背に、新三郎の足取りはいつもより少しだけ軽やかであった。




