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甲府勤番、隠居ならず  作者: geol70


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第伍話 『天地返しと理想の菜園』

 夜明けと同時に、小鳥のさえずりで目が覚めた。

 障子越しに差し込む朝の光は柔らかく、昨日張り替えたばかりの真っ白な紙が部屋全体を明るく満たしている。

 新三郎は布団から起き上がり、両手を突き上げて大きく伸びをした。

(目覚まし時計の不快なアラームもなければ、枕元で点滅するチャットの着信ランプもない……。なんて清々しい朝だ)


 四十代の精神を宿した二十二歳の身体は、昨日の大掃除と畳運びの重労働を経ても、筋肉痛一つ起こしていない。縁側へ出て井戸水を汲み、冷水で顔を洗うと、引き締まった冷気が頭の芯まで染み渡った。


「お早うございますだ、佐々木様!」


 朝四ツ前、長屋門をくぐって茂助がやってきた。粗末な木綿の野良着に手拭いを腰に下げ、手には昨日研ぎ直した平鍬を抱えている。


「早いな、茂助。朝飯は食ってきたか?」

「へい! 麦飯を腹いっぱい掻っ込んできましただ! 今日から庭の草刈りですべ?」

「草刈りだけじゃないぞ。今日は本格的な『土作り』だ。ついてこい」


 新三郎は腕まくりをし、昨日研ぎ澄ました本打ちの鍬を手にして裏庭へ降り立った。

 南向きの広大な裏庭は、五十坪を優に超える。前任者が放置したため、ススキやヨモギといった雑草が人の背の高さまで生い茂っていたが、日当たりと風通しは極上だ。


「まず、茂助。手前半分を耕作用にする。草を刈るんだが、根元から引っこ抜くんじゃない。鎌で地際から刈り取って、刈った草は一箇所にまとめて山にしておけ」

「へ? 根っこから抜かなくていいんですかい? それに、草は乾かして燃やすんじゃねえんですか?」


 茂助が不思議そうに首を傾げる。当時の一般的な百姓のやり方は、刈り取った雑草を天日で干して焼き払い、その灰を撒くか、あるいはただ打ち捨てるのが普通だった。


「燃やすのは後だ。刈った草は貴重な『有機質』……いや、良い肥やしになるんだよ」


 新三郎は高校園芸部時代の知識を脳内で引き出した。

 落ち葉や刈り草をただ積むだけでは腐敗に時間がかかるが、土や灰と交互に重ねて空気を含ませれば、微生物の働きで立派な「腐葉土(堆肥)」に化ける。化学肥料のないこの時代、土壌の団粒構造を作り、保水性と通気性を確保するための最強の武器だ。


「よし、草を刈ったら、次は『天地返し』だ」


 新三郎は研ぎ上げた鍬を両手で振り下ろした。

 ザクッ、と小気味よい音が響き、刃先が吸い込まれるように黒土へ潜り込む。


「ぬっ……!」


 二十二歳の強靱な背筋と腕力に物を言わせ、新三郎は土の塊を深さ一尺ほど掘り起こし、表裏をひっくり返すように反転させた。


「さ、佐々木様、それは土の深いところを掘り起こして……何をしてるんですかい?」

「長年踏み固められた土の下層を空気に晒すのさ。今の時期にやる天地返しは、秋の日差しで土をしっかり干して日光消毒するのが目的だ。本当の『寒起こし』は冬の収穫後、師走か正月にやる。冬の厳しい霜と凍結を利用して土の中に潜んでいる害虫の蛹や卵、線虫を殺し、カチカチの土を自然に砕いて柔らかくするんだが……まずはこの秋の陽気を利用して、大根が伸びやすいふかふかの床を作ってやるのが先決だな」

「へえええ……! 寒さに当てて虫を殺す!? そんな話、村の年寄りからも聞いたことねえですだ!」


 茂助は目を丸くし、新三郎の手元を食い入るように見つめた。

 ただ闇雲に耕すのではない。物理的な理屈に基づいた一手一手に、農家の三男坊である茂助の百姓魂が激しく刺激されていた。


 二人は並んで鍬を振るった。

 表土をひっくり返し、深耕によってゴロッと掘り出されたススキの太い株根を拾い上げて堆肥の山へ投げ込み、大きな石を取り除いて、土の塊を鍬の背でトントンと細かく砕いていく。

 前世で狭いベランダにプランターを並べ、化成肥料の袋を眺めながら「いつか広い地面を耕してみたい」と夢見ていた四十代の願望が、今、甲斐の肥沃な大地の上で現実のものとなっていく。

 汗が顎から滴り落ちる。だが、それは前世の深夜残業で流した冷や汗とは違う、生命力に満ちた心地よい汗だった。


「……ふう。いい土だ」


 掘り起こした土を手で一握りすくい上げると、しっとりと湿り気を帯び、黒々として微かに甘い土の匂いがした。武田信玄の時代から水害対策が施され、富士川の支流がもたらした甲府盆地の土壌は、もともと地力がある。

 昼時になり、新三郎は縁側に腰掛けて、朝のうちに炊いておいた麦飯の握り飯を竹の皮から取り出した。塩を振っただけの簡素なものだが、労働の後の飯は五臓六腑に染み渡るように美味い。茂助にも二つ手渡すと、若者は恐縮しながら両手で受け取り、涙目になりながら頬張った。


「佐々木様、こんな美味い握り飯、滅多に食えねえです……!」

「ただの塩結びだ。しっかり食え、午後は畝立てと種蒔きだぞ」


 午後の作業は、畝作りから始まった。

 新三郎は縄を二本の竹串でピンと張り、定規代わりにして真っ直ぐな畝のラインを引いた。水はけを良くするため、高さを五寸ほど盛り上げ、幅は三尺。人が両側から手を伸ばして作業しやすい、理想的な家庭菜園のプロポーションだ。


「さあ、種を蒔くぞ」


 新三郎が取り出したのは、昨日、町の種物屋で買ってきた小さな紙包みだった。

 寒さに強い、越冬野菜の代表格。


「青首大根に、赤蕪、それから千住葱の種だ」


「もう九月も半ばですぜ? 今から蒔いて、冬の寒さに間に合いますかい?」

「平気だ。大根や蕪は発芽温度が低くても育つ。むしろ寒さに当たった方が、凍結を防ごうとして糖分を蓄えるから、芯まで甘くなるんだよ」

「と、糖分……? あ、甘くなるんですかい!?」

「ああ、冬の霜を浴びた大根の煮付けは、それこそ極上だぞ」


 新三郎は人差し指の第一関節ほどの深さで筋を引き、そこに一寸間隔で大根の小さな種を丁寧に落としていった。いわゆる「条蒔き」だ。


「茂助、土を被せたら、手のひらで上から軽くトントンと押さえろ」

「へい! 押し固めちまって息が詰まらねえですか?」

「逆だ。土と種を密着させて、毛細管現象で下から水を吸い上げさせるんだ。種が浮いていると、乾いて芽が出ないからな」

「もうさい……? なんだか分からねえですが、佐々木様の言う通りにすると、種が安心してるように見えますだ!」


 茂助はすっかり新三郎の「謎の農法」に心酔し、太い指先で愛おしそうに土をトントンと鎮圧していった。

 仕上げに、井戸から汲み上げた水を、手桶から笹の葉を束ねた自家製ジョウロで優しく散水する。勢いよく水をかけると種が流れてしまうため、霧雨のように降らせるのが園芸部の鉄則だ。


 夕暮れ時。

 西の山並みに茜色の夕日が沈む頃、手付かずの荒れ地だった裏庭の手前半分には、見事なまでに整然とした黒土の畝が四本、美しく並んでいた。

 その脇には、刈り取った雑草と落ち葉、かまどの灰をミルフィーユ状に積み上げた堆肥の山が、静かに発酵の準備を始めている。


「……終わったな」


 新三郎は泥だらけの鍬を井戸水で洗い流し、夕暮れの菜園を見つめた。

 土の匂い。吹き抜ける澄んだ秋風。

 遠くで響く、甲府城の暮れ六ツの鐘。


(出勤は月に四日だけ。誰からも急かされず、自分の手で土を耕し、種を蒔き、その成長を待つ……)


 前世の四十年間、コンクリートのオフィスと満員電車にすり潰され、何のために生きているのかも分からずに死んでいった自分が、今、確かに「生きている」という実感に包まれていた。


「ふふっ……」


 思わず口元が緩む。


「佐々木様、何がおかしいんですかい?」

 道具を片付けていた茂助が、不思議そうに尋ねてきた。


「いや、なんでもない。ただ……ここは本当に、極楽だなと思ってな」


 新三郎は笑って首を振ると、懐から茂助への日当を弾んで手渡した。


「明日も頼むぞ、茂助。明日は母屋の床下にすのこを敷いて、炭を置く作業だ」

「へいっ! お任せくだせえ! 明日も夜明けと共に飛んできますだ!」


 茂助が元気よく駆け去っていくのを見送り、新三郎は縁側に腰を下ろして、出来立ての畝を肴に冷茶を喉へと流し込んだ。

 出だしとしては上々だ。 直属の組頭の弱みは握り、厄介な御支配の視線もうまくかわした。

 あとはこの種が芽吹き、冬の収穫を待つばかり。

 新三郎は満ち足りた吐息を漏らし、静かに夜の帳が下りていく裏庭をいつまでも眺めていた。


 ――だが。

 その頃、甲府城下の薬種問屋桔梗屋の奥座敷では、当主の市兵衛が険しい顔で地図を睨みつけていた。


「旦那様、鍛冶町の古道具屋の証言が取れました! 錆びた鍬を買い、そろばんを使わずに神業の暗算で端数を値切っていった若侍……間違いございません、市蔵を助けてくださったあのお武家様です!」

「なにっ!? で、そのお方はどちらへ向かわれたのだ!?」

「それが……南組の勤番屋敷街の方角へ消えたとのこと。南組の組頭あたりに探りを入れれば、確実にお屋敷が特定できますぜ!」

「よし……! でかしたぞ!」


 市兵衛は膝を打って立ち上がると、居並ぶ手代たちを見回して矢継ぎ早に指図を飛ばした。


「おい、相手はお武家様、それも無欲高潔な御仁だ。小判を直に差し出すような野暮をすりゃあ、かえって武士の誇りを傷つけかねん。まずは寒さを凌ぐ極上の丹前と、江戸から届いたばかりの最上等の白砂糖、それに駿河の茶を用意しろ! 桔梗屋の看板にかけて、礼節を尽くした品を揃えるんだ!」

「へい!」

「お屋敷が割れ次第、すぐに持参して御礼に伺う。あの大恩人に恥をかかせるようなことだけは、絶対に許さんぞ!」


 静かな夜の城下に、着々と新三郎の平穏を揺るがす包囲網が狭まりつつあった――。

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