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甲府勤番、隠居ならず  作者: geol70


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第肆話 『古民家再生と社畜の5S』

 甲府城下の南組屋敷。秋晴れの澄んだ空の下、新三郎は腕組みをして自らの「城」を見上げていた。

 敷地はおよそ百坪。江戸の旗本屋敷で言えば小身の旗本並み、部屋住み時代の薄暗い納戸のような部屋に比べれば、途方もない豪邸である。だが、引き渡されたばかりの母屋は、率直に言って「廃屋の一歩手前」であった。


(うーん……これはまず、地道にインフラ整備からだな)


 縁側に腰を下ろすと、ミシッと鈍い音が鳴る。

 畳表は擦り切れて黄色く変色し、ところどころ湿気で浮いている。障子は風雨に晒されて骨ばかりが残り、格子に引っかかった破れ障子が秋風にパタパタと虚しく揺れていた。天井の隅には立派な蜘蛛の巣、土間には埃がうっすらと積もっている。

 だが、四十代元社畜の目は誤魔化せない。

 新三郎は立ち上がり、大黒柱を拳で軽く叩いてみた。低く硬い、締まった音が返ってくる。梁を見上げれば、見事な松の一本丸太がびくともせずに屋根を支えていた。


「骨組みは極上。土台の腐りもない。要するに『表面がひどく汚れているだけの優良中古物件』だ」


 前世の休日、ホームセンターの資材売り場を何時間もうろつき、ネットの古民家再生動画を晩酌の肴にしていた男の血が騒ぎ出す。

 しかも今の自分には、疲れを知らない二十二歳の強靱な肉体があるのだ。腰痛の不安なしに力仕事ができるというだけで、奇跡のようなボーナスステージであった。


「とはいえ……一人で全部やるのは非効率だな。初期投資はケチるべきじゃない」


 新三郎は懐から、佐々木本家から手切れ金として持たされた路銀の巾着を取り出した。

 三十俵三人扶持の米が支給されるとはいえ、初回の受け取りまでは手持ちの金で回さねばならない。だが、下男を一人雇うくらいの銭はある。武家社会の慣習としても、独身の下級武士が身の回りの雑用や炊事のために、近在の農民や町人の三男坊を「通いの小者」として安く雇うのはごく一般的なことであった。


「よし、まずは人手の手配と、道具の買い出しだ」


---


 甲府の町筋へ出た新三郎は、組屋敷の長屋門を出てすぐの辻にある口入屋へと足を向けた。


「へえ、勤番のお武家様で。通いの小者をお探しで?」


 対応に出た口入屋の番頭に、新三郎はあらかじめ決めておいた「採用要件」を淡々と伝えた。


「気立てが良くて、指示を愚直に守る者。力仕事と畑仕事の経験があればなお良い。朝夕に通いで、飯を一膳と、相応の手当を払おう」

「へい、それでしたら……ちょうどいいのが一人おりますぜ。近在の百姓の末っ子で、茂助という十八の男でさあ。口下手で機転は利きやせんが、力だけは人一倍ありましてね。畑仕事も手慣れたもんで」


 引き合わされた茂助は、新三郎よりも頭半つきり背が高く、日に焼けた丸顔に太い眉、いかにも朴訥といった風体の若者であった。新三郎の身なりが貧相な着流しであるのを見ても侮る風はなく、ただ直立不動で頭を下げている。


「佐々木新三郎だ。当面は屋敷の修繕と裏庭の草刈りを頼みたい。ついてきてくれるか」

「へ、へい! 佐々木様、よろしくおねげえしますだ!」


 挨拶もそこそこに、新三郎は茂助を引き連れて、城下の鍛冶町と古道具屋街へと向かった。


---


「さて……まずは金物だな」


 新三郎が立ち寄ったのは、軒先に使い古された農具や古鉄が山積みにされた古道具屋であった。

 新品の道具を揃えるのは簡単だが、路銀を無駄遣いする気はない。何より、江戸時代の道具は「手入れ次第で新品以上に化ける」ことを、前世の知識と祖母の教えから知っていた。


 山と積まれた農具の山から、新三郎は一本の鍬(くわ)を引き抜いた。

 泥と赤錆で覆われ、柄も薄汚れている。一見すればただのゴミだが、新三郎は刃を指の腹で弾いて音を確かめ、さらに刃の厚みと「割り込み」の境目をじっくりと観察した。


「……うん、いい鍛冶屋の仕事だ。軟鉄に鋼を割り込ませた本打ちだな。錆びてはいるが、刃こぼれはない。砥石で研ぎ直して油を吸わせれば、十分一線で使える」


 横で見ていた茂助が、目を丸くして感心したように声を上げた。


「お、お武家様、刃物の良し悪しがお分かりになるんですかい? 鍛冶屋の親方みたいな見立てですだ」

「まあな。道具は使い手の腕より、刃の付き方ひとつで能率が三倍変わるからな」


 前世の受託開発時代、「クソみたいなキーボードと劣悪な開発環境で作業させるとバグが激増する」という地獄を散々味わった新三郎の、骨身に染みた教訓であった。弘法は筆を選ばずと言うが、凡人は絶対に道具を選ぶべきなのだ。

 新三郎はさらに、使い込まれた平鍬、手入れの利く鎌、竹箒、頑丈な手桶、そして荒砥と中砥の砥石を二塊選び出した。

古道具屋の親父が、そろばんをパチパチと弾きながら怪訝そうな顔で寄ってくる。


「お侍さん、妙なもんばかり選ぶねえ。どれも錆だらけで叩き売り同然の品だが、本当にこれでいいのかい?」

「ああ。全部でいくらになる?」

「ええと……鍬が百文、平鍬が八十文、鎌と箒で六十文、砥石が二つで……締めて三百文でどうだい」


 新三郎の頭の中で、珠算二級の暗算エンジンがコンマ数秒で回転する。


「百文と八十文で百八十文、六十文を足して二百四十文。砥石は角が欠けてるから二つで五十文が妥当だろ。まとめて買うからちょっくら値引いて、二百八十文で手を打ってくれ」

「げっ……」


 古道具屋の親父は、そろばんの玉を弾き直す間もなく言い当てられ、ギョッとして新三郎の顔を見た。

 武士といえば、小判を投げて釣りも受け取らないか、逆に銭勘定を「下賤なこと」として毛嫌いして相場を知らない者が大半である。それなのに、目の前の若侍は、古道具の相場を完璧に把握した上で、淀みない暗算で正確な値引き交渉を仕掛けてきたのだ。


「……へ、へえ。お侍さん、算術がえらく達者でいらっしゃる。参った、二百八十文でいいですぜ」


 新三郎は懐から銭二百八十文をきっちり数えて渡し、包んでもらった道具を茂助に持たせた。

 その後、経師屋(きょうじや)で一番安い腰高の障子紙を一刀と糊を買い、竹細工屋で「すのこ」用の割竹を仕入れて、意気揚々と屋敷へと引き返した。


---


「よし、茂助! まずは徹底的な大掃除と片付けからいくぞ!」

(前世で嫌というほど叩き込まれた『5S』――整理、整頓、清掃、清潔、躾の実践だ)

「要らないものを捨て、置き場所を決め、磨き上げる。すべての仕事の基本だからな」


 新三郎は着物の裾を尻からげにし、腕まくりをして手拭いで頬かむりをした。

 武士が野良着同然の格好で雑巾を持つなど前代未聞だが、四十代元社畜にとって「現場の掃除」など息をするようなものだ。


 まずは風通しの確保である。

 母屋中の雨戸と障子をすべて取り外し、庭の柿の木の下へと運び出す。

 埃だらけの畳を茂助と二人がかりで持ち上げ、庭へ運び出して壁に立てかけた。


「裏を向けて叩くぞ。埃を落として、夕方まで秋の陽に当てて湿気を抜く」


 パァン、パァン、と藁を叩く乾いた音が秋空に響き渡る。

 畳を上げた床板には、すかさず箒を入れて長年の埃と蜘蛛の巣を掃き出し、固く絞った濡れ雑巾で拭き上げていく。


 次は障子の張り替えだ。

 庭に広げた古い障子枠に、手桶の水を柄杓でサッと打ち水する。紙が水を吸ってふやけたところを見計らい、ヘラ代わりに竹べらを使って古い紙をツーツーと剥がしていく。

 高校時代、園芸部で温室の寒冷紗やビニールを補修していた経験と、前世の実家で年末の大掃除を一手に押し付けられていたスキルが完璧に蘇っていた。


「お、お武家様……手際が良すぎますだ! あっし、百姓の家でもこんなに素早く障子を剥がす人、見たことねえです!」

「ふふん、水を含ませてから茶筅一振り待つのがコツなんだよ。……よし、枠が乾いたら糊を塗って、新しい紙を張るぞ」


 刷毛で小麦粉の糊を均一に伸ばし、買ってきたばかりの障子紙をピンと引っ張りながら格子に載せていく。余分な端を濡らした刃物で切り落とせば、たるみ一つない見事な障子の出来上がりだ。


「仕上げに、霧吹き……はないから、口に水を含んで、パッと吹く!」


『ぷっ――』と細かな霧状の水を吹きかけると、水を含んだ紙が乾くにつれてピンと張り詰め、太鼓のように小気味よい音を立てるようになった。


「す、すげえ……! まるでおろしたての新品の建具屋の障子だ……!」


 茂助が手を叩いて歓声を上げる。

 二十二歳の頑健な肉体は、どれだけ雑巾がけをしても、畳を担いでも、まったく息が上がらない。前世の四十代の体なら、今ごろ腰が砕けて湿布を貼り、這いずり回っていたはずだ。


(動く……! 動くぞ、この体! 素晴らしい、肉体の若さってのはそれだけで最高の資本だな!)


 新三郎は感動に打ち震えながら、最後に買ってきた砥石を縁側に据えた。

 手桶から水を垂らし、二百八十文で買い叩いた赤錆の鍬を砥石に当てる。


シュッ、シュッ、シュッ――。


 リズミカルで心地よい研磨音が、夕暮れ迫る庭に響く。

 表面の赤錆が削れ、鈍い銀色の鋼の刃先が、夕日を浴びてキラリと鋭い輝きを取り戻していく。


「よし……いい刃がついた」


 新三郎は満足げに鍬の刃を撫で、縁側から広大な裏庭を見渡した。

 雑草が生い茂る五十坪超の黒土。

 だが、障子が真っ白に張り替えられ、畳の湿気が抜け、掃き清められた平屋の母屋は、すでに立派な「快適な我が家」としての風格を漂わせ始めていた。

 明日からは、いよいよこの鍬を振るい、土作りが始められる。


「茂助、今日はここまでだ。よく働いてくれたな」

「へい! ありがとうございますだ! 佐々木様と仕事するの、なんだかとても気持ちが良かったですだ!」


 茂助は手渡された駄賃を受け取り、満面の笑みで帰っていった。

 一人残された新三郎は、夕焼けに染まる富士の峰を遠くに眺めながら、井戸から汲み上げた冷たい水で顔を洗った。

タオル代わりに手拭いで顔を拭い、縁側に腰を下ろす。


「残業なし、呼び出しなし、納期なし……。自分で直した家で、明日は土いじりか」


 これだよ、これ。

 俺が人生のすべてを犠牲にして求めていたのは、この穏やかな夕暮れだったのだ。

 新三郎は深く、満足のため息をついた。

 手拭いで首筋の汗を拭い、張り替えたばかりの真っ白な障子を振り返る。

 秋風を受けて、障子は静かにカタカタと心地よい音を立てていた。


「……よし。明日は縁側の廊下板を磨くか」


一人呟いた声が、静かな秋の夜気にやさしく溶けていった。


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