第参話 『等幅フォントと月四日出勤』
文政八年、秋の気配が漂い始めた甲府城。
朝五ツの太鼓が城下に低く鳴り響く中、新三郎は前夜に必死に火熨斗でシワを伸ばした麻上下を身に纏い、本丸の広間に平伏していた。
この日、新たに江戸から配流――もとい「着任」した勤番士は、新三郎を含めてわずか三人。いずれも一癖も二癖もありそうな「輩」のような風体の男たちであった。
上段に座すは、甲府勤番支配戸川丹後守正武。
知行四千石の大身旗本であり、この甲府城下における最高権力者である。
だが、その威容とは裏腹に、上段から放たれる空気は異様なまでに冷え切っていた。
(……うわあ。なんだあの目)
新三郎は畳に額を擦り付けたまま、薄く上目遣いで上段を盗み見た。
戸川丹後守の双眸には、光が一切宿っていなかった。黒目の中心にハイライトがなく、底知れぬ澱みだけが渦巻いている。
光のない、絶望の瞳。
(あかん……納期直前に主要ベンダーが夜逃げした時のPMと同じ目だ……)
丹後守は薄い唇を苦しげに歪めると、懐から出した丸薬を水もなしに喉奥へゴクリと押し込んだ。胸元を拳で軽く擦るその手つきに、重苦しい疲弊が滲み出ている。
「……うむ。励め」
初対顔は、それだけであった。
訓示も激励もない。江戸から流されてくる厄介者の相手など、もはや一秒たりとも脳のリソースを割きたくないという、限界突破した中間管理職の虚無がそこにあった。
「ははあッ!」
新三郎らは一斉に平伏し、足早に広間を辞した。
(よし! 挨拶は無難に消化! 勤番支配のブラックリスト……というか視界にすら入っていない! 完全なるモブクリアだ!)
心の中でガッツポーズを決め、新三郎は配属先である「南組」の詰所へと向かった。
南組の詰所は、一言で言えば「昭和の底辺校の男子更衣室の匂い」が充満していた。
煙管から溢れた煙草の燃え殻の散らかった火鉢、干しっぱなしで汗臭と生乾き臭のする手拭い。昼間だというのに、奥の小部屋からは花札をパチパチと弾く音と、安酒をあおる低い笑い声が聞こえてくる。
その詰所の片隅で、頭を抱えて唸っていたのが、新三郎の直属の上司――南組組頭の神保勘解由であった。
「……うう、また突っ返された……。先月の城門修繕の木材費、どこが合わんのだ……。丹後守様のあの死んだ目が夢に出てくる……もう胃の腑から血が出そうだ……」
青白い顔に脂汗を浮かべ、細い指で頭を掻きむしる勘解由。
典型的な「出世競争に敗れて左遷され、無能な部下と厳しい上司の板挟みで胃を壊している中間管理職」の姿であった。
「あの……本日付で南組へ配属となりました、佐々木新三郎にございます」
新三郎が声をかけると、勘解由はビクッと肩を跳ね上がらせ、怯えたような目で振り返った。
「ひっ!? あ、ああ……新入りの佐々木か。……はぁ、聞いておるぞ。泥酔して吉原で暴れ、山流しにあったクチだと。頼むからこれ以上、余計なことをして俺の仕事を増やすような不祥事だけは起こしてくれるなよ……。面倒事を起こすぐらいなら何もしないでいてくれたほうが、マシだ。ほら、そこの受領証に署名して、着任届を書いてくれ。控えを御支配役宅に出さねばならんのだ……」
投げやりに出された半紙と筆。
新三郎は「へいへい」と内心で頷きながら、畳に膝をつき、硯で墨を擦った。
肉体は二十二歳の若武者。
だが、中身は四十代の元社畜であり、幼少期に大正生まれの師範学校卒の祖母からみっちり手習いと珠算を叩き込まれた男である。
新三郎は息を整えると、背筋をピンと伸ばし、半紙に向かって筆を走らせた。
書風は、今どきの武士が気取って書くミミズのような草書ではない。
止め、跳ね、払いがミリ単位で正確な、誰が見ても一目で読める「教科書通りの楷書」――いわば、江戸時代の等幅フォントであった。
すらすらと、淀みなく書き終える。ついでに、勘解由の机の上に開かれていた「木材費の出納帳」のズレが目に入った。
(……ん? 杉角材の単価が百二十文で、八本なら九百六十文だろ。なんで千二百文になってんだ? あ、前行の割竹の代金がダブって合算されてるな)
珠算二級の暗算脳が、頼まれもしないのに反射的にコードのバグを検出してしまう。
新三郎は受領証を差し出しつつ、苦笑交じりに口を開いた。
「組頭様、受領証でございます。……それと、余計な差し出口かもしれませんが、そちらの帳簿、四行目の割竹の代金二百四十文が、下の角材の小計に重複して紛れ込んでいるようでございます。そこを引けば、末尾の差額とぴったり一致いたしますかと」
「……は?」
勘解由は気の抜けた声を出し、まずは提出された受領証に目を落とした。
その瞬間、勘解由の目が点になった。
「な……なんじゃこの字は……!? 読める……! 癖字が一文字もない! まるで版木で刷った御触書のように美しいではないか……!」
さらに、恐る恐る手元の帳簿に目をやり、新三郎の指摘した箇所を指でなぞる。
そろばんを取り出し、カタカタと狂ったように弾き直す勘解由。
「あ……合っ……合ったあああああッ!! 差額が消えたッ!! 二週間悩んで丹後守様に三度も怒鳴り散らされた計算の合わない帳簿が、一瞬で直ったァッ!!」
勘解由はガタガタと音を立てて立ち上がると、詰所の戸口を素早く見回し、誰も見ていないことを確認してから、勢いよく障子をピシャリと閉めた。
そして、血走った目で新三郎の両肩をガシッと掴んだ。
「佐々木ッ! お前……字が書けるのか!? 計算ができるのか!?」
「は、はあ……まあ、人並みには……」
「嘘をつけ! 人並みであの丹後守様の目をかいくぐれる計算ができるわけがない! お前、算術の道場にでも通っていたのか!?」
「いや、それがし、生来の無骨者でして、教養などはまったく……」
「お前、馬鹿か。この甲府くんだりまで流されてくる奴など、読めぬ崩し字もどきしか書けず、二桁の算術も怪しい者ばかりだぞ!」
(まずい。よく分からんが、ちょっと張り切りすぎたか?)
新三郎が冷や汗をかいた、その時であった。
勘解由の顔に、これまでの怯えとは打って変わった、ねっとりとした小悪党の笑みが浮かんだのは。
「……佐々木。お前、御支配の丹後守様付きの『御抱え右筆』か『勘定方』に取り立てられたいか?」
「いえ、滅相もございません。それがしはただ、波風立てず平穏に暮らしたいだけで……」
「そうだろう、そうだろうとも!」
勘解由はグフグフと喉を鳴らし、顔を近づけて声を潜めた。
「丹後守様の御抱えになどなってみろ。あの死んだ目の下で、朝から晩まで江戸へ送る書類の山か合計の合わない勘定帳の山に埋もれて過労死するぞ。だがな……お前がこの南組で、俺の書類作成を『陰からちょいとお手伝い』してくれるなら話は別だ」
勘解由はペラペラと勤務割の帳面をめくってみせた。
「面倒な月報や出納帳の清書をわしの代わりにやってくれ。その代わりだ……! お前の門番勤務は、月にお山(甲府城)へ三回立つだけの『極楽勤務』にしてやる! 非番の日は何をして遊んでいようが、わしがすべて見て見ぬ振りをしてやるぞ! どうだ!?」
(……えっ?)
新三郎は目を瞬かせた。
面倒な月報の代筆? 前世で書いていた「炎上案件の週次報告書」に比べたら、お茶の子さいさいだ。一日一時間も筆を執れば終わる。せいぜいが月に一日まとめて勤務すればよいだろう。それに加えて、門番勤務がたったの三日? 合わせて四日で残りの二十六日は完全フリータイム、週一勤務の週休六日、さらには給料(三十俵三人扶持)は満額支給??
(神案件じゃないか……!!)
「組頭様……そのお話、喜んでお受けいたします。我が南組のために、粉骨砕身、陰ながら筆を執らせていただきます」
「おおっ! よく言った佐々木! お前は我が南組の宝だ! よし、丹後守様には『佐々木は不調法な男で、刀の素振りしか能がありません』と報告しておくからな! 表では絶対にできる素振りを見せるなよ!」
こうして、小心者の上司による「有能な部下の抱え込み」と、社畜の「責任回避策」がガッチリと噛み合わさったのだった。
午後。
晴れ渡る秋空の下、新三郎は引き渡されたばかりの自らの城――南組屋敷の前に立っていた。
「……ひ、広いな……」
門構えをくぐると、そこには江戸の長屋住まいでは考えられない光景が広がっていた。
敷地はおよそ百坪。
平屋の母屋は長年放置されていたらしく、畳は擦り切れ、障子は破れ、蜘蛛の巣が張っているが、太い大黒柱や梁はビクともしていない。掃除して雑巾がけをし、障子を張り替えれば、立派な古民家屋敷だ。
そして何より――。
「裏庭……というか、これ、完全に『農地』じゃん……!」
縁側の向こうに広がるのは、陽光を燦々と浴びる南向きの広大な裏庭であった。
五十坪を優に超える手付かずの土。雑草こそ生い茂っているが、土をすくい上げてみれば、黒々として肥沃な甲府盆地の恵みが眠っている。
前世のワンルームマンションのベランダ菜園と比べるまでもない、完全無欠の楽園がそこにあった。
「日当たり良好、水はけも悪くない。落ち葉を集めて腐葉土を作って……あそこに畝を作れば、ナスも大根もキュウリも植え放題だ。手前にはネギを植えて、薬味には困らないようにして……。あ、トマトは食用としてはまだないが、ジャガイモ――甲州いもなら享保年間に代官が普及させたのがあったはずだな。」
二十二歳の引き締まった体に、四十代元社畜の「家庭菜園欲」が奔流となって駆け巡る。
男とは四十も過ぎれば、蕎麦を打ったり、スパイスカレーを調合したり、ソロキャンプに勤しんだり、家庭菜園を作ったりするものなのだ。
激ヤバ案件を押し付けてくる可能性が高い上司である勤番支配の目は誤魔化した。
直属の上司である組頭とはWin-Winの密約を結び、月の労働日数はたったの四日。
屋根のある広大な我が家と、一生食える米と、無限にいじれる裏庭がここにある。
「勝った……。俺の勝ちだ……!」
秋風が心地よく吹き抜け、新三郎の頬を撫でた。
新三郎は満面の笑みを浮かべ、腕まくりをすると、物置で見つけた錆びた鍬を力強く握りしめたのだった。
なお、その頃、甲府の街中では、薬種問屋「桔梗屋」の丁稚や手代たちが、主人から下された厳命を受け、「名も名乗らず去った恩人のお武家様」を血眼になって探し回っている最中であった――。




