第弐話 『笹子峠の救急救命士と初出勤デッドライン』
日本橋を発ってから四日。
甲州街道の旅路は、新三郎にとって人生で最も晴れやかなものであった。
内藤新宿の怪しげな引き留めを「前世の歓楽街で鍛えたスルー力」でかわし、小仏の関所では荷から引っ張り出したシワだらけの麻上下を着けて手形を差し出し、無事にパス。供も連れず、己の荷を背負って黙々と歩く姿に、街道の茶屋の親父からは「よほど懐の寂しい御家人様か」と同情され、草餅を一つ余計に恵んでもらったりもした。
(一人旅、最高すぎる……)
誰にも気を遣わず、誰からの催促のメールも飛んでこない。
20代の若々しい身体は、過酷な徒歩の旅でも音を上げず、一晩休めば、力がみなぎっている。
猿橋の奇妙で美しい橋脚の組み方に感心し、渓谷の冷涼な空気を吸い込みながら、新三郎は気ままに西へと進んでいた。
だが、旅程も後半、甲州街道最大の難所と呼ばれる笹子峠の手前に差し掛かった時のことである。
「う……ううっ……誰か、誰かおらんか……!」
街道脇の雑木林、路肩が崩れ落ちた急斜面の下から、苦悶に満ちた男の呻き声が聞こえてきた。
足を止め、新三郎がおっかなびっくり崖下を覗き込むと、紺の股引に前掛け姿の若い男が、風呂敷に包まれた大きな木箱を抱え込んだまま、泥だらけになって倒れていた。
(うわ……滑落してる。放っておくべきか? いや、しかし……)
前世の記憶がチクリと痛む。
あれは、納期当日の大雪の朝。駅の階段で転んで足を挫き、客先への納品データが入ったノートパソコンを抱えて動けなくなった後輩の姿と、目の前の男が完璧にオーバーラップしてしまったのだ。あの時の、世界から見捨てられたような絶望的な顔。
「……おい! 生きてるか! 動くなよ!」
新三郎はため息をひとつつくと、斜面の木の根を掴みながら慎重に滑り降りた。
男は二十歳そこそこ。荷をかばって落ちたらしく、右足の足首が不自然な角度に折れ曲がり、赤黒く腫れ上がっていた。
「あ、足が……折れて、動けねえんでさあ……。この荷だけは、どうしても甲府へ……」
「馬鹿野郎、荷物より自分の骨の心配をしろ」
新三郎は腰から手拭いを引き抜き、近くに落ちていた太く真っ直ぐな枯れ枝を二本拾い集めた。大学時代になんの気無しに受けた救急救命講習で、強面の救急救命士から叩き込まれた、骨折時の添え木と固定の手順だ。講習では三角巾と雑誌を使ったが、そんなものはこの時代にはないので、あり物で代用し、枝を足首の両脇に当て、手拭いでキリキリと固く縛り上げる。
「ぐっ……あ、ぎゃっ!」
「我慢しろ、固定しないと骨がずれて歩けなくなる。……よし、背中に掴まれ」
「えっ……お、お武家様が、あっしのような町人を背負うなんて、滅相もねえ!」
「いいから掴まれ! 日が暮れたら山犬に食われるぞ!」
新三郎は男の荷――ずしりと重い薬草の木箱を自分の胸元に括り付け、男を背負い上げた。
重い。二十代半ばの武士の肉体とはいえ、山道を男一人を背負って登るのは地獄の重労働だ。息を喘がせ、滝のような汗を流しながら崖を這い上がり、街道を這うように歩いて、ようやく半里ほど先の黒野田宿の木賃宿へと担ぎ込んだ。
すぐに亭主が飛び出してきて、状況を見て取ると医者を呼びに行く。
「た、助かった……」
宿の土間に転がされ、荒い息を整えた男は、涙をボロボロとこぼしながら新三郎に平伏した。
男の名は市蔵。甲府城下で手広く商いをしている薬種問屋桔梗屋の手代であった。江戸からの仕入れの帰り、足を滑らせて崖下に転落したのだという。
「お武家様……貴方様は命の恩人です。身分の低いあっしを背負ってまで助けてくださるなんて、こんなありがてえこと……!」
「礼なら医者の手配をしてくれた宿の亭主に言ってくれ。俺は通りがかっただけだ」
「いえ! それに……図々しいのを承知で、もう一つだけ頼みを聞いてはいただけねえでしょうか!」
市蔵は必死の形相で、泥だらけの木箱を差し出すと、懐中から矢立と懐紙を取り出すと、すらすらと文をしたためる。
「この荷は、お得意様のために江戸から急ぎ取り寄せた貴重な唐土の生薬なんです。三日後の朝までに甲府の店へ届かねば、手遅れになっちまう……。あっしはここで養生いたします。どうか、この荷を急ぎ甲府の桔梗屋へ届けてはくださいませんか! お武家様のことは、この文にしたためましたので、これを主人の市兵衛に……!」
新三郎は差し出された書状と木箱を見下ろした。
(まあ、俺の目的地も甲府城下だしな。ついでに届けるくらいなら、大して手間でもないか)
「分かった、預かろう。あんたは無理せず、ここでしっかり足を治せ」
「あ、ありがとうございます……! なんとお礼を言ったらよいか……!」
翌日、新三郎は難所の笹子峠を越えた。
重い薬箱を背負っての峠越えは骨が折れたが、勝沼のぶどう畑を抜け、甲府盆地へ降り立つと、街道の景色は一気に開けた。
甲府城下に入り、人に道を尋ねながら辿り着いた「桔梗屋」は、予想よりも大きな店構えであった。立派な瓦屋根に藍色の暖簾が揺れ、何人もの手代や丁稚が忙しなく行き交っている。
「すまない、頼まれていた荷と書状を届けに来た」
新三郎が店先に木箱を降ろし、書状を差し出すと、奥から貫禄のある五十格好の主人が飛んで出てきた。桔梗屋の当主市兵衛である。
市兵衛は手紙に目を落とすなり、みるみるうちに血相を変え、その場で新三郎に向かって深々と頭を下げた。
「お、お武家様……! 事情はこの市蔵からの文にございました! 手代の命を救っていただいたばかりか、我が店の看板たる大事な生薬を、身一つでここまで届けてくださるとは……! この市兵衛、なんとお礼を申し上げてよいか分かりません!」
「いや、通り道だったゆえ、気に病むには及ばん。無事に届いたならそれでいい」
「とんでもございません! ぜひ奥へお入りいただき、心ばかりのお礼を! それに、せめてお名前とお屋敷を教えていただきとう存じます! 謝礼の品を届けさせねば、桔梗屋の義理が立ちません!」
市兵衛はすがりつくような勢いで、新三郎の手を取らんばかりにして引き留めにかかった。
だが、その時――。
『ボォォォォン……』
城下の方角から、時刻を告げる鐘の音が重々しく鳴り響いた。
(……え? あれ、今の鐘って、暮れ六ツ……!?)
新三郎の背筋に、氷水を浴びせられたような戦慄が走った。
やばい。道中を物見遊山気分で進み、宿場宿場でのんびりしたあげく、山道で市蔵を背負って時間を食ったせいで、予定を大幅にオーバーしている。
明日の朝五ツには、甲府城の役宅へ出頭し、甲府勤番支配への着任の挨拶を済ませなければならない。武家において、初日の出仕遅刻は即座にお家お取り潰し、あるいは切腹ものの重罪だ。
しかも自分はまだ、今日泊まる宿も取っていなければ、荷物から麻上下を出してシワを伸ばす作業すら終わっていないのだ。
(呑気に酒飲んで名前教えてる場合じゃねえええええッ!! 明日遅刻したら、スローライフどころか初日でクビ(切腹)になるッ!!!)
前世の社畜時代、客先への初常駐の朝に山手線が遅延した時以上の冷や汗が吹き出す。
「すまぬが、これにて失礼する! 明朝、外せぬ野暮用の刻限が迫っておるのだ!」
「えっ!? お、お武家様、お待ちを! せめてお名前だけでも――!」
「名乗るほどの者ではない! では!」
新三郎はすがる市兵衛の手をすり抜けると、脱兎のごとく店を飛び出し、夕暮れの甲府の街並みを小走りで駆け去っていった。
取り残された市兵衛は、ぽかんと口を開けたまま、遠ざかる若侍の後ろ姿を見送っていた。
手には、市蔵が震える手で認めた手紙。
『此のお武家様、貧しき身なりなれど気品あり、町人の私を泥の中から背負い上げ、一言の愚痴も言わず、ただ命を救ってくだされた高潔なるお方にて候――』
市兵衛は手紙を胸に強く抱きしめ、熱い涙を目に浮かべながら、固く誓うようにつぶやいた。
「町人のために骨を折り、礼も受け取らず、名すら告げずに去っていくとは……なんと、なんという無欲で高潔なお武家様だ……」
主人は店の番頭たちを振り返り、鋭い声で命を下した。
「おい、皆の衆! あの御方は間違いなく、この甲府の地に留まっておられる! 甲府は狭い町だ、人脈を総動員して、あのお武家様をお探し出しするんだ! 桔梗屋の暖簾にかけて、受けた大恩は百倍にしてお返しせねばならんぞッ!」
「「へへーっ!」」
威勢のいい返事が店中に響き渡る。
当の本人はそんなこととは露知らず、今夜の宿探しに必死で街を駆け回っていた。




