第壱話 『左遷という名の超ホワイト内定』
江戸城下、御目付支配の役宅。敷き詰められた白砂の照り返しが、容赦なく新三郎の項を焼いていた。
「――佐々木家三男、新三郎!」
上段に構える目付の老武士が、吐き捨てるように言渡書を広げる。その背後には、蒼白な顔で平伏する佐々木本家の用人と、冷たい軽蔑の視線を送る親族たちの姿があった。
「其の方、去る長月、吉原仲ノ町において泥酔の上、他家の旗本と鞘当の末に暴挙に及び、刀こそ抜かざりしものの拳骨にて打擲、相手を吉原のおはぐろ溝へ叩き落とし、あまつさえ止めに入りたる自身番の木戸を叩き壊すなど、言語道断の狼藉! 本来ならば重罪、佐々木家お取り潰しとなるところなれど――父祖の三河以来の勲功に免じ、罪一等を減じ、死罪、牢入りは免ず。されど相手方の面目もあり、江戸御府内におくわけにはいかぬ。其の方を佐々木家より永久に除籍! 召し放ちの上、新たに別家を取り立て……甲府勤番士への奉公を申し付くるものなり!手当は三十俵三人扶持。早々に江戸御府内を立ち退き、甲府城下へ赴くべし!」
言い渡された瞬間、親族の間から低いうめき声が漏れた。甲府勤番、通称「山流し」。それは一度足を踏み入れたら二度と花のお江戸の土は踏めぬ、生ける屍の墓場。出世の道は絶たれ、険しい山奥の城で一生を終える、旗本や御家人にとって死刑に次ぐ過酷な追放刑であった。
「……くっ」
新三郎は畳まれた両拳を震わせ、平伏したまま額を白州の小石にゴツンと打ち付けた。
その刹那、乾いた痛打とともに、頭の中で巨大な濁流が弾け飛んだ。
(……え? あれ、俺……?)
蘇る、膨大な記憶。
徹夜続きのリリース前夜。机の上に散乱するエナジードリンクの空き缶。容赦なく鳴り響くチャットツールの通知音。「仕様変更です」「納期は変えられません」「不具合は自己責任で」。終電を逃したオフィスで胸を掻きむしり、デスクに突っ伏したまま冷たくなった四十路のシステムエンジニア――それが、佐々木新三郎の「前世」であった。
そして、目の前で下された「判決」の単語が、冷徹な理系脳の中で猛烈な勢いでデータ処理されていく。
(待て、今なんつった? 甲府勤番? 三十俵三人扶持?)
江戸の旗本三男坊など、家督も継げず、部屋の片隅で長男の顔色を窺いながら一生飼い殺されるだけの「無職ニート子供部屋おじさん」である。小遣い一つもらうにも兄の妻にペコペコ頭を下げねばならず、結婚もできず、家も持てない。
だが、今の処分はどうだ。
不祥事を起こした厄介者を体よく隔離するため、幕府がわざわざ「新家」として独立させ、直参、つまり国家公務員の身分を与えてくれた。
三十俵三人扶持。令和の世なら200〜300万円程度、贅沢はできぬが、男一人が飯を食うには十分すぎる量の米が国から毎月支給される。実質的なベーシックインカム。
さらに、甲府城下には庭付きの官舎、つまり組屋敷が無償であてがわれるはずだ。
そして肝心の業務内容は――泰平の世における、週に二度か三度の城門警備。敵など攻めてこないから、立っているだけで定時退勤。残業なし、休日出勤なし、ノルマなし、評価面談なし。
(……おいおいおい、嘘だろ?)
新三郎の全身の産毛が歓喜に逆立った。
実家の厄介者への親族からの冷たい視線から解放され! 家賃ゼロの持ち家が手に入り! 生涯の食い扶持が国家保証され! 週休五日で家庭菜園と温泉が楽しめる!?
(これ……左遷や懲罰どころの騒ぎじゃない……『超ホワイトな早期リタイア支援パッケージ』そのものじゃないかッ!!!!)
「どうした新三郎! 聞こえぬのか! 己の不届きを恥じ、悔いる言葉もないか!」
目付の怒号が飛ぶ。白州の敷石に伏したままの新三郎は、溢れ出そうになる満面の笑みを必死に噛み殺し、深く平伏した。
「ははあッ! 恐れ入り奉りまする! 寛大なるお慈悲の沙汰、骨身に染みてありがたく……! この新三郎、身命を賭して甲斐の山奥でご奉公に励み、二度と江戸の土を踏まぬ覚悟でお仕え致す所存にございますッ!!」
声に一切の絶望はなかった。むしろ、内定通知を勝ち取った就活生のような、突き抜けるほど晴れやかな美声であった。
目付は眉をひそめ、佐々木家の用人は「乱行の末についに気が触れたか」と青ざめ、誰もがその異様な気迫に気圧されていた。
それから三日後。
江戸追放の期限は早く、佐々木家からは「二度と敷居を跨ぐな」とばかりに、手切れ金の路銀数両と身の回りの荷物だけが放り出された。
まだ夜明け前の薄暗い日本橋のたもと。
新三郎は、草臥れた旅装束をまとい、腰にはどっしりとした二本差し。背中には甲府の生活で必要な荷物を詰め込んだ行李と、懐には虎の子の路銀。
東海道を行く大名行列の威圧感もなければ、中山道を行く商人たちの喧騒もない。西へと伸びる甲州街道の起点に立ち、新三郎は朝の澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
「さらば満員電車、さらばサビ残、さらば厄介部屋住みの我が身、さらば息苦しい江戸の親族会議……!」
行く手には、果てしない山々と、誰も攻めてこない平和な城と、広大な畑が待っている。
新三郎は誰に見せるでもなくニヤリと笑い、鼻歌混じりに軽やかな足取りで西へと踏み出した。




