第拾話 『宋代の碩学「俛棣魯(めん でいる)」』
初夏の風が甲府盆地を吹き抜け、南組屋敷の裏庭は目を見張るほどの生命力に満ち溢れていた。
冬に桔梗屋から運び込まれた生薬の搾り粕が驚異的な地力を発揮し、試験畝に筋蒔きされた大豆や小豆、そして例の「阿蘭陀商館経由で入ってきた異国の豆の種」が力強く青葉を広げている。
縁側には新三郎が組んだ葡萄棚が涼やかな木陰を作り、下男の茂助と丁稚の長吉が、手入れの行き届いた畝の間を甲斐甲斐しく手入れしていた。
「佐々木様、ご免くだされ! 市兵衛にございます!」
長屋門の潜り戸をくぐり、汗を拭いながら現れたのは桔梗屋の当主市兵衛であった。手代の市蔵を従え、その顔にはただならぬ興奮と焦燥が入り混じっている。
「これは桔梗屋殿。今日も精が出ますな。縁側へどうぞ、井戸水で冷やした麦湯でも」
「いえ、それどころではございませぬ! 佐々木様、先だって市蔵がお届けいたしました異国の豆の種……ぜひ、あれをお見せ願いたいのでございます!」
市兵衛は足早に裏庭の試験畝へと歩み寄り、青々と茂る二列の畝を指差した。
「実はあの種、長崎出島を通じて阿蘭陀商館から日本橋の豪商の手へ渡った、唐土と紅毛の豆科生薬でしてな。袋の中には丸い種とシワの寄った種が混ざっており、江戸の薬種仲間でも『育ちの悪い不良品が混ざる粗悪品だ』と匙を投げられていたものなのです。それを佐々木様は……なぜ種を分けただけで、こちらの畝には丸い実をつける苗ばかりが揃い、あちらの畝にはシワの実をつける苗ばかりが狂いなく育っているのですか!?」
市兵衛の目は血走り、新三郎の手元を食い入るように見つめた。
新三郎は「なんだ、そんなことか」とばかりに苦笑し、つい高校生物と園芸部の基本知識を軽やかに口走ってしまった。
「ああ、あれか。大したことではござらぬ。豆の類は、親世代の性質がそのまま表に出るものと、陰に隠れるもの……いわば『表に顕れる性質』と『陰に潜む性質』に分かれるのだ。袋の中でシワが寄っていた種は潜性の性質が固定されたものなので、それを単独で蒔けば同じシワの苗しか出ぬ。一方、丸い種の中には純粋な丸と、シワの性質を隠し持った雑種が混ざっておる。商用で良い実だけを安定して採りたいなら、最初から種の段階で見極めて血統を管理し、掛け合わせなければならぬのだ」
新三郎は手にした竹べらで、黒土の上にさらさらと方陣図を書き記した。
「ほら、親の性質を『甲』と『乙』とすると、交配した子は『甲甲』『甲乙』『乙乙』の組み合わせになり、表に顕れる特徴は綺麗に三対一の割合で分かれるという理屈だ」
だが、その瞬間――。
裏庭の空気が、凍りついたように静まり返った。
市兵衛の顔から、みるみるうちに血の気が引いていく。
市蔵も息を呑み、目を見開いたまま土の上の方陣図を凝視していた。
「……さ、佐々木様」
市兵衛の声が、微かに震えていた。
「佐々木様は……学問とは無縁の一介の御家人とお聞きしましたが、いったいどこでこのような本草学を修められたのですか? 種の性質が分かれる割合が三対一……? 手前も薬種を扱って長いですが、このようなことは聞いたこともない……。もしや……もしやこれは、紅毛人の学問、すなわち蘭学の類でございますかな……!?」
(――しまっ……!!!!)
新三郎の脳内で、大音量の非常警報が鳴り響いた。
寛政異学の禁。キリシタン詮議。出島を通じた海外情報の厳格な統制。そして、止めに蛮社の獄。
学問方でもない一介の左遷武士が、幕府の許可なく異国の先端科学や蘭学に精通していると疑われれば、一発で「不穏分子」として目付に捕縛され、今度こそ切腹か斬首である。
(やばい、やばい、やばい! 完全に口を滑らせた! なまじ理系SEの血が騒いで高校生物のメンデルの法則をドヤ顔で語っちまった!! どうやって誤魔化す!? 蘭学じゃない、怪しくない、誰も確かめようがない権威……ハッ!)
窮地に追い詰められた元社畜の脳裏に、前世で愛読していたあの伝説的少年漫画の記憶が雷光のごとく閃いた。どんな無茶苦茶な拳法や歴史も、圧倒的な説得力で読者を信じ込ませてきた、あの究極の方便――。
新三郎はすっと表情を引き締め、深遠な憂いを帯びた眼差しで遠くの空を仰いだ。
長年の社畜生活で培った、完璧なポーカーフェイスである。
「……ふっ。蘭学などという、日の浅い異国の蛮学と一緒にされては困りますな、桔梗屋殿」
「は……? 蘭学ではないので……?」
新三郎は静かに首を振り、重々しい口調で語り始めた。
「桔梗屋殿は、宋代の学士、俛棣魯をご存じないと?」
「めん……でいる……?」
市兵衛が呆然と呟く。
「左様。今から八百年ほど前、宋王朝の第三代皇帝真宗に重用された翰林学士こそ、かの俛棣魯でございます。学士の友人が西方より来たる色目人の妻を娶り子をなした折、四人の子の髪と瞳の色が、親の外見をそれぞれ受け継いで黒や青、金に分かれたのを知り、『親から子へ性質が伝わる絶対の法則』を解明されたのです。この発見こそが宋の豊かな農業を支え、王朝を大いに繁栄させました」
新三郎は堂に入った所作で袂を払い、もっともらしく言葉を重ねる。
「ちなみに、かの偉人の学問上の好敵手であった北方幽燕の出身で、後に宋学当代随一と謳われた碩学、類仙胡は、『生物の性質は後天的に獲得するものであり、親世代から受け継ぐものではない』と主張し、俛棣魯と激しく衝突したと伝えられておりますが……それがしは、古書にてかの俛棣魯の残された宋代の本草学を、ほんの少しかじっただけにすぎませぬ」
(頼む、信じてくれ! 昭和の少年ジャンプのハッタリなんだ、深く突っ込まないでくれ……!)
新三郎は内心で滝のような冷や汗を流しながら、心の中で男塾の版元に平伏していた。
静寂が支配する。
やがて、市兵衛の肩がワナワナと激しく震え始めた。
「……おお、おおっ……! なんということだ……!」
市兵衛はドサリと土の上に両膝をつき、新三郎に向かって深々と額を擦り付けた。
「明代の『本草綱目』すら遥かに遡る、宋王朝の失われた至高の秘術……! 陰陽五行の枠に囚われぬ、まさに天地開闢以来の実学にございます! 佐々木様、この市兵衛、蘭学などと口にして己の無知蒙昧を恥じ入るばかりです……!!」
市兵衛は顔を上げると、切迫した面持ちで新三郎にすがりついた。
「佐々木様! 実は今、甲府近郊の農村で、原因不明の立ち枯れや虫害が多発し、百姓たちが悲鳴を上げておるのです! 畑の土が痩せ衰え、薬草も野菜も全滅寸前で、我が店の生薬の仕入れすら滞りかけておりました……! ですが、先ほど佐々木様が仰った『作物の仲間を変える輪作』、土を寒さに晒す『天地返し』、そして『俛棣魯先生の性質の見極め』……! これこそが、滅びかけた甲斐の農村を救う唯一の光明にございます!!」
「えっ……いや、あれはうちの庭の話であってだな……」
「長吉! すぐに店へ駆け戻り、番頭に言って、付き合いのある大農家や村名主たちへ触れを出せ! 佐々木様より授かった宋代の秘術『俛棣魯先生の秘術』を以て、畑を立て直す手立てを伝授すると告げるのだ!」
「へへーっ!!」
「待て! 待ちなさい長吉! 触れを出すな! 人を呼ぶんじゃないッ!!」
新三郎の悲痛な叫びを置き去りにし、長吉は風のような速さで走り去っていった。
初夏の青空の下、新三郎は頭を抱えてその場にへたり込んだ。
手元には、完璧に整えられた美しい菜園。
そして、自分の口から出た適当なホラ話によって、農村の危機を背景にした取り返しのつかない「俛棣魯の奇跡」が、甲府全域に解き放たれようとしていた――。
メンデルの法則【めんでる - の - ほうそく】
近代遺伝学の根幹をなす基本原則。一般には十九世紀中葉、オーストリアの修道士グレゴール・メンデルにより提唱されたというのが西洋学会の通説とされているが、これには大きな誤謬がある。
この法則の源流を遡ると、今を去る千余年前、中国は北宋の時代にまで行き着くのである。時の北宋第三代皇帝真宗にその才を愛でられ、翰林学士の重職にあった博覧強記の碩学、俛棣魯その人こそが真の発見者なのである。
ある時、俛の旧友である漢人が色目人(西方異民族)の妻を娶り四人の男子を儲けたが、その四子の容貌はことごとく異なり、頭髪と瞳の配合が「黒・黒」「金・黒」「黒・青」「金・青」と見事なまでに数理的規則性をもって発現した。これを奇貨とした俛は長年の研究の末、親祖先から子孫へと形質が受け継がれる冷徹な血統の定石「血脈連鎖律」を体系化した。
この大発見が宋代の品種改良と農業生産を飛躍的に押し上げ、同王朝に未曾有の富と繁栄をもたらしたのは歴史の示す通りである。
欧州の修道士メンデルはこの宋朝の古文書に多大な感銘を受け、学祖である俛棣魯の名を自らの筆名として名乗ったが、欧州の地において発音が訛り、いつしか『メンデル(Mendel)』と呼ばれるようになったのはあまりにも有名な話である。そのため、現代の歴史学会においては遺伝学の真の起源は中国にあるとする見解が定説となっている。
なお、同時代に俛の論敵であった後に宋学で当代随一と言われた学者、類仙胡は、「生あるものの肉体は後天的な研鑽と鍛錬によってのみ変化し、先祖の血肉など継承されぬ」とする苛烈な獲得形質論を奉じ、幾度となく俛と激しい論戦を交わしたと記録に残されている。
民明書房刊『図説・近代西洋科学のルーツは全て中国にあった』より




