第拾壱話 『生き神様と感謝の供給過多』
新三郎が庭先で口走った適当なハッタリは、瞬く間に制御不能の濁流となって甲斐国を呑み込んでいった。
発端は、あの日の市兵衛の尋常ならざる執念であった。
宋代の秘術と聞かされ感極まった市兵衛は、すがるように新三郎へ矢継ぎ早の質問を浴びせかけたのだ。一刻も早く帰ってもらいたい一心だった新三郎は、「早く納得して帰ってくれ」とばかりに、高校園芸部と前世の家庭菜園で培った知識をマシンガンのように喋り散らかした。それを手代の市蔵が、狂ったような速度で矢立を走らせ、懐紙の束へ残らず書き留めていたのである。
――いわく、「作物の仲間を三年単位で巡回させ、地力を枯渇させぬべし(輪作)」。
――いわく、「初夏の強い陽光を用い、畝に薄漉きの和紙に蝋引きしたものをぴたりと張り巡らせて土中を蒸し焼きにし、見えぬ病虫の巣を熱で焼き滅ぼすべし(太陽熱土壌消毒)」。
――いわく、「ネギの根とウリの苗を隣り合わせに植え、土中の障りを互いの気で打ち消し合わせるべし(混作・共生植物)」。
――いわく、「かまどの炭焼きより生じる黒き水(木酢液)を注ぎ、土中の病虫の巣を清めるべし(木酢液土壌消毒)」。
――いわく、「米酢に古酒と潰した唐辛子、潰した蒜を合わせ、薄めて葉裏へ散ずべし(天然カプサイシン防虫・ストチュウ液)」。
――そして、「種子の段階で丸とシワ、色と形など特性を見極め、弱き苗を容赦なく間引き、強き血脈のみを選びて残すべし(俛棣魯の血脈連鎖律)」!
いわく、いわく、いわく、いわく……。
当時、甲府近郊の農村では、同じ畑で同じ作物を連作したことによる深刻な地力低下と、群がるアブラムシや土中線虫による「謎の立ち枯れ病」が猛威を振るっていた。
村の年寄りは「土地神様の祟りじゃ」と念仏を唱え、寺に頼んで高い護摩を焚くばかり。打つ手なしで初夏の作付けが全滅しかけていた百姓たちにとって、市兵衛が持ち込んできた「俛棣魯先生の秘術」は、まさに天から垂らされた蜘蛛の糸であった。
半信半疑ながらも藁をもすがる思いで農民たちがその教えを実践した結果――。
わずか半月で、劇的な転換が起きた。
畝に張った蝋引紙の熱で蒸された土からは病の気が消え失せ、ストチュウ液を吹きかけられた羽虫は一撃でポロポロと落ちて全滅した。根腐れと虫害で黄色く萎れかけていた夏野菜の苗が、息を吹き返したように青々とした力強い新芽を噴き出し始めたのだ。
「祟りが……土の祟りが消えただ……!」
「俛棣魯先生の秘術は本物じゃった……!!」
祟りの恐怖に怯えていた百姓たちの目に、青々とした新芽はまさに神仏のお助けと映った。
そして、その宋代の秘術を甲斐の地に授けてくださった生き神様こそ、南組の組屋敷に隠れ住まう若侍佐々木新三郎様であるという噂は、燎原の火のごとく甲府城下の農村全域へと駆け巡ったのである。
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そんな大騒動が起きているとは露知らず。
新三郎は縁側で、ほっと胸を撫で下ろしながら茶を啜っていた。
(……ふう。あの日はどうなることかと思ったが、半月経っても何の沙汰もないな)
あの後、一〜二週間ほどは「いつ役人が『怪しげな邪法を説いたな』と踏み込んでくるか」と生きた心地がしなかったのだ。だが、城下も城内も至って平穏。
(やれやれ、市兵衛も大げさに感動していただけで、ただの世間話として流してくれたか。危ない危ない、これからは余計な園芸知識をひけらかすのは絶対にやめよう)
すっかり気が緩み、縁側に広がる青葉を眺めながら「午後は湯治場にでも行って骨休めでもするか」と至福の二度寝を決め込もうとした、その時であった。
ズズズズズ……と、地鳴りのような重低音が街道の向こうから響いてきた。
(……ん? 馬水槽の普請か?)
不審に思って立ち上がり、長屋門の潜り戸へ近づいた瞬間――。
「――佐々木様ァッ!! 生き神様ァァッ!!」
「俛棣魯先生の申し子、佐々木大明神様ァッ!!」
割れ鐘を叩くような絶叫と共に、屋敷の冠木門がギシギシと悲鳴を上げた。
新三郎がおっかなびっくり潜り戸を開けると、そこには街道の端から端までをぎっしりと埋め尽くす「人の海」が広がっていた。
鍬や背負い籠を手にした近在の百姓、村名主、泥まみれの着物を着た百姓たち、総勢百人以上。
彼らは新三郎が姿を現した瞬間、地響きを立てて道端に一斉に平伏したのだ。
「「「佐々木大明神様ァァァッッ!!!」」」
「ひえええっ!?」
新三郎の喉から情けない悲鳴が漏れた。
大明神って誰だ。俺はただ定時退勤して昼寝したいだけのしがない平勤番士だぞ。
先頭に平伏していた白髪の老名主が、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、両手を合わせて新三郎を拝み倒した。
「佐々木様……! 桔梗屋の旦那様より授かりました『俛棣魯先生』の教えに従いましたところ……! 蝋引紙の熱で畑の祟りが落ち、虫どもが一匹残らず退散いたしましただ! 死にかけていた村中の胡瓜も茄子も、見違えるように力強く息を吹き返しましただッ!!」
「えっ、いや、あれは単に地中の温度を上げて糸状菌を殺菌して、カプサイシンの忌避効果を――」
「難しい理屈はさっぱり分かりませぬが、佐々木様が宋朝千年の秘術を以て、飢え死に寸前だった我ら百姓をお救いくださったことだけは魂に刻みましただッ! これなる品々、貧しい村の者どもがかき集めました心ばかりの感謝のしるしにございます! どうぞ、どうぞお納めくだされッ!!」
老名主が天秤棒を掲げると、百姓たちが雪崩のように敷地内へとなだれ込んできた。
運び込まれるのは、まさに初夏の甲州の恵みそのものであった。
早採りの瑞々しい胡瓜に初茄子、山で採って乾燥させておいた極上の干しゼンマイや干し椎茸、竹筒に詰めた濃厚な野山蜜、渓流で獲れた岩魚の焼き枯らし、そして素朴な濁り酒の入った大瓶の山!
「佐々木様に!」「我が村の命の生き神様に!」と叫ぶ声と共に、百坪の庭先は瞬く間に供物の山で埋め尽くされ、縁側どころか式台の土間まで野菜と乾物で埋まり始めた。
(ちょ……待て待て待て!! なんで男塾のハッタリが農村バイブルになって奇跡を起こしてんだよッ!?)
新三郎は頭を抱えて卒倒しそうになった。
昭和の少年漫画よろしく適当にでっち上げた「俛棣魯と類仙胡の対立」という出任せが、なぜか極上の科学的営農指導として機能し、壊滅寸前だった農村を百パーセント救い上げてしまったのだ。
さらに、人波を割って見慣れた藍色の羽織が飛び込んできた。
桔梗屋の当主市兵衛である。
「佐々木様! 実に、実にお見事でございます!」
市兵衛は紅潮した顔で駆け寄ると、新三郎の手を取らんばかりにして感涙にむせんだ。
「甲府近郊の村々が見事に蘇りました! これぞ俛棣魯先生の実学! そして、民の窮状を見かねて惜しげもなく知恵を授けてくださった佐々木様の無欲高潔なる御仁徳! 我が桔梗屋、このご恩と偉業をただ見過ごすような不義理はいたしませぬ!」
「いや桔梗屋殿、だから拙者は適当に――」
「ご謙遜は無用! すでに甲府勤番支配様の役宅へ、城下の豪商、町名主、村名主の連名にて『佐々木様こそ甲斐の農政を救う稀代の碩学である』と、熱烈なる上申書を提出いたしましたゆえッ!!」
「……は?」
新三郎の頭の芯が、真っ白にフリーズした。
「じょう……しん……しょ……?」
「はい! 御支配の丹後守様に、佐々木様の至高の学識を余すところなく書き連ねてお届けいたしました!」
(お前……何してくれてんだァァァァァァッッッ!!!!)
新三郎の魂の絶叫が喉元を突き破りかけた、その時であった。
ドカッ、ドカッ、と下駄を踏み鳴らす荒々しい足音と共に、長屋門から大男たちが割り込んできた。
南組の古株、原田十兵衛を筆頭とする、南組の荒くれ勤番士たちである。腰の木刀をガチャつかせた連中は、庭を埋め尽くす百姓と食糧の山を見るなり、ぎょっと目を見張ったが、すぐに野太い大爆笑を響かせた。
「がははは! おい佐々木! お前の屋敷に百姓が押し寄せてるって聞いて助太刀に来てみりゃあ、なんだこの馳走の山は!」
「原田殿……! 頼む、助けてくれ、拙者は何も――」
「照れるな佐々木! お前が宋代の秘術で村を救ったって話、城内でも持ちきりだぞ! 官所の役人どもが『佐々木を勧農役として引き抜かせろ』と喚き散らしてやがる!」
原田は獰猛な笑みを浮かべ、新三郎の肩をバシンと力任せに叩いた。
「だが安心しろ! お前を他組や代官所の泥沼に渡してたまるかよ! お前は俺たち南組の飯炊き兼、大事な宝だ! おい野郎ども、この野菜と酒を詰所へ運ぶぞ! 今夜は南組総出で大宴会だァッ!!」
「「「うおおおおおおッ!!」」」
雄叫びを上げ、獲物を担ぐように野菜の山を運び始める南組の荒くれ者たち。
感涙に咽びながら新三郎へ手を合わせ続ける百姓たち。
深く平伏し、満足げに微笑む桔梗屋。
その熱狂の中心で、新三郎は晴れ渡る初夏の青空を見上げ、完全にハイライトの消えた目で立ち尽くしていた。
(終わった……)
もう逃げ場などどこにもない。
組頭同士の縄張り争い、豪商たちの熱烈な推薦、農民たちの感謝の狂乱。
すべての外堀が、悪夢のような完璧さで埋め立てられてしまった。
そしてその視線の先――甲府城の本丸、あの一番関わり合いたくなかった「死んだ魚の目をした御支配様」の執務室の扉が、音を立てて開かれようとしていた――。




