第拾弐話 『スローライフ、強制終了』
翌朝。甲府城下の南組屋敷は、前日の熱狂が嘘のように静まり返っていた。
だが、その静寂を破るように、二本の黒塗りの長柄槍を立てた物々しい一隊が新三郎の門前に乗り込んできた。
「南組勤番士佐々木新三郎! 御支配戸川丹後守様より直々の召し状である! 疾く出頭せよ!」
迎えに来たのは、支配直属の徒目付であった。
もはや言い逃れも居留守も通用しない。新三郎は観念し、糊の効いた麻上下に袖を通すと、まるで刑場へ引かれていく罪人のような足取りで甲府城の本丸へと向かった。
案内されたのは、広間などではない。
本丸の最奥、甲府勤番支配戸川丹後守正武の私的な執務室――いわば「甲府株式会社の社長室」であった。
襖が開く。
薄暗い部屋の空気は、前世で幾度となく味わった「連日徹夜が続く炎上プロジェクトのPM執務室」と完全に同じ濃度の絶望と倦怠感に満ちていた。
部屋の四隅には、江戸の勘定奉行所や老中宛ての公文書、甲斐国内の収支報告の和綴じ本が、天井に届かんばかりの地層となって堆積している。
そして、机の前に座すは、甲府勤番支配戸川丹後守。
その双眸には、いつものように光が一切宿っていなかった。完全なるハイライトの消えた「死んだ魚の目」である。
丹後守は苦い薬湯の冷めた碗を握りしめたまま、微動だにせず虚空を見つめていた。カチャリ、と磁器の擦れ合うかすかな音だけが、静まり返った室内に響く。
「……南組勤番士、佐々木新三郎にございます」
新三郎は畳に額を擦り付け、息を殺した。
丹後守は手元の書類から視線を動かさない。
机の上には、三つの束が並んでいた。
一つは、新三郎が代筆した、見出し札付きの寸分の間違いもない南組の出納帳と月報。
一つは、北組や勘定方そして代官所が「佐々木を寄越せ」と喚き立てて南組と小競り合いを起こした記録と助勤の上申書。
そしてもう一つは――、昨日、桔梗屋と甲府中の町名主、村名主が連名で叩き込んできた、「俛棣魯先生の秘術を操る生き神佐々木新三郎の功績」を書き連ねた分厚い上申書であった。
重苦しい静寂の中、丹後守が静かに碗を置いた。
「……佐々木」
掠れた、底冷えのする声が落ちてきた。
「ははッ」
「神保の奴め、其方を『剣術しか能のない木偶の坊』と届け出ておったな」
「は、はい……それがし、生来の不調法者にて……」
「白々しい嘘を申すなッ!!」
ドンッ! と執務机が叩き割れんばかりの勢いで鳴動した。
新三郎がビクッと肩を跳ね上げて見上げると、そこには信じられない光景があった。
丹後守の、あの濁りきっていた「死んだ魚の目」に――。
数年間決して灯ることのなかったはずの瞳の奥に、ギラギラとした恐るべき狂気の燐光が灯っていたのだ。
「わしはな、佐々木……! 江戸から送られてくる二百名の飲んだくれと無能どもの始末書に追われ、計算の合わぬ帳簿を毎日何度も突き返し、江戸の老中どもからは理不尽な年貢の督促を受け……胃の腑から血を流しながら、死ぬ思いでこの甲府を回しておったのだッ!!」
丹後守は立ち上がり、机を乗り越えるようにして新三郎に迫った。
「そこへ何だ、この書類は! 過去三年分の判例が一目で引け、数字の狂いが一文たりともない完璧な帳簿! 詰所の荒くれどもを手懐けて定時交代させ、あまつさえ城下の豪商を心服させ、宋朝の秘術とやらで領内の立ち枯れを一瞬で鎮圧してみせただとッ!?」
「い、いや、あれは民明書……ではなく、ただの園芸の知識でして――」
「黙れッ!!」
丹後守は新三郎の胸ぐらをガシッと両手で掴み上げた! 知行四千石の大身旗本とは思えぬ、溺れる者が藁を掴むような必死の形相であった。
「佐々木……! わしの右筆として、今この瞬間から疾く勤めよッ!」
「ええっ!?」
「城内の帳簿の検算も、領内の農政の差配も、江戸への報告書も、すべてまず其方が目を通し、整えてからわしに上げろッ! 雑務はすべて其方に一任する! 決裁の判だけはわしがいくらでも押してやるッ!!」
「め、滅相もございません! それがしには荷が重すぎ――」
「断ることは許さんッ!!」
丹後守は血走った目をカッと見開き、新三郎の顔面数寸まで詰め寄って絶叫した。
「わしが江戸へ戻る際には、必ずや其方を直参旗本へ取り立て、本家への帰参かそれ以上の家格で召し抱えられるよう、御老中方へ命懸けで進言してやる! 貴様の将来の出世も、生活も、老後の面倒もすべてこの丹後守が保証してやるわッ!! だから……だから頼む、わしの胃の腑に取り返しのつかない孔が開く前に、この激務の泥沼からわしを救ってくれェェェッ!!」
それは命令ではなかった。
過労死ラインを遥かに突破した限界中間管理職が、有能すぎるフルスタックエンジニアの胸ぐらを掴んで泣き叫ぶ、魂の悲鳴であった。
新三郎の脳裏を、走馬灯のように前世の記憶が駆け巡る。
週休六日、残業ゼロ、ノルマなし、広大な庭での家庭菜園、快適な古民家、のんびりとした隠居生活。
それらすべてが、ガラガラと音を立てて崩れ去っていく。
待っているのは、甲府勤番支配直属の激務。
過去五年分の帳簿のデバッグ。全領土の農政改革。江戸との折衝。
実質的な、甲府城の「最高技術責任者(CTO)兼 官房長官 兼 農政大臣」への就任であった。
新三郎は、己を縛り上げる見えない労働の鎖に絶望し、初夏の青空が広がる格子の隙間へ向かって、喉も裂けんばかりに絶叫した。
「――それだけはご勘弁をォッ!! それがし、この甲斐の山奥にて『スローライフ』を満喫したいだけゆえェェェェェェッッッ!!!!」
新三郎の魂の現代用語が、静まり返った甲府城本丸の空へと虚しく木霊していった――。




