北方編:序章「獅子の胎動」8
いつもお楽しみいただきありがとうございます。
獅子の胎動編もラストスパートです。
月、水、土曜 18時の週3回投稿になります。
月水土曜はガハハの日 お忘れなく。
ジョルカス帝国軍九百――
その鉄の波が、ゆっくりと、しかし確実にザウロン方面へと迫っていた。
先頭を行くのは、荒鷲レオニド・ヴァルツァーク将軍。
若き将軍は馬上で風を切りながら、前方の谷を鋭く見据えていた。
「……ここが“狭路の谷”か」
谷は細く、兵が横隊を組むこともできない。
馬は一列でしか進めず、両脇は切り立った岩壁。
風が吹き抜けるたび、砂が舞い上がり、兵たちの頬を打った。
参謀が馬を寄せる。
「将軍、やはり危険です。伏兵がいれば――」
レオニドは鼻で笑った。
「伏兵がいようが、二十名の小クランに何ができる。
金獅子は私が討つ。兵はその後で掃除すればいい」
その傲慢な言葉に、周囲の若い兵たちは士気を高めたように声を上げる。
「将軍に続け!」
「金獅子を討ち取れば、俺たちも出世だ!」
「黒狼を倒した化け物だろうが、九百で踏み潰せばいい!」
だが、年配の兵士たちは黙っていた。
谷の空気が、妙に重い。
風の流れが、どこか不自然。
鳥の声すら聞こえない。
「……静かすぎる」
一人の古参兵が呟いたが、若い兵たちの喧騒にかき消された。
レオニドは馬を進めながら、地図を見下ろす。
「谷を抜ければ小高い丘だ。そこに“鋼鉄の揺り籠”がある。包囲は容易。逃げ場はない」
参謀が慎重に言葉を選ぶ。
「しかし将軍……ガルハートという男は、黒狼隊長を――」
「黒狼など、帝国の中では下位の将だ。その程度を倒したからといって、私に敵うはずがない」
レオニドの声は揺るぎなく、若さゆえの自信に満ちていた。
帝国軍九百は、谷へと足を踏み入れる。
鉄の鎧が擦れ合い、槍の穂先が陽光を反射し、その行軍はまるで巨大な蛇がうねるようだった。
谷の奥で、風が一瞬止んだ。
古参兵が再び呟く。
「……嫌な匂いがする。
まるで、獣の巣に足を踏み入れたような……」
その言葉に、若い兵が笑う。
「獣? 相手は二十名の傭兵だぞ?」
古参兵は首を振った。
「いや……違う。
“獣”じゃねぇ……“獅子”だ」
その瞬間、谷の奥から、かすかな金属音が響いた。
レオニドは馬上で目を細める。
「……来るか。金獅子よ。私の前に姿を現せ」
帝国軍九百は、狭路の谷へと深く踏み込んでいった。
嵐は、もうすぐそこまで来ていた。
◇◆◇
狭路の谷――
ザウロンと鋼鉄の揺り籠を結ぶ唯一の道。
両脇は切り立った岩壁で、馬は一列、兵は二人並ぶのがやっと。
風が吹き抜けるたび、砂が細かく舞い上がり、谷全体がざわめくように揺れた。
その谷の奥で、鋼鉄の牙は静かに動いていた。
「……来るな。九百はいる」
ガルハートが岩壁に手を当て、目を閉じる。
風の流れ、地面の震え、遠くの金属音、それらを“読む”ように、ゆっくりと息を吐いた。
シンバが問う。
「本当に九百も……?」
「九百“くらい”だ。数なんざどうでもいい。問題は、どこで止めるかだ」
ガルハートは谷の中央を指差した。
「ここだ。この狭さなら、奴らは横隊を組めねぇ。盾も槍も活かせねぇ。ただの“列”になる」
ザルカスが頷く。
「……つまり、数の利が消える」
「そういうこった」
ガルハートは淡々と答えた。
◇◆◇
牙の仲間たちは、すでに配置についていた。
ロッカは谷の入口近くの岩陰に身を潜め、耳を澄ませて敵の足音を数えている。
「……来てる。馬の蹄、槍の揺れ、鎧の擦れる音……全部で……多すぎるな」
ミルカは、身重では岩棚に登れないため、揺り籠の裏手――谷を見下ろせる“安全な高台”に座り、観測用の短弓と望遠鏡を手にしていた。
「……見えたよ。旗が三つ。先頭は……あれ、将軍クラスだね」
ミルカの視力は、誰よりも鋭い。
戦場に立てなくても、その“目”は鋼鉄の牙にとって欠かせない武器だった。
シンバが駆け寄る。
「無理してないか?」
「してないよ。ここなら転ぶ心配もないしね。
……それに、あんたたちの背中くらい、見届けたいじゃない」
ミルカは軽く笑い、腹をそっと撫でた。
「この子にも、父ちゃんの勇姿を見せてあげないと」
シンバは一瞬だけ目を伏せ、深く息を吸った。
「……必ず戻る。お前と、この子のところに」
ミルカは頷き、視線を谷へ戻す。
「敵の先頭、もうすぐ谷に入るよ。槍兵、盾兵、騎兵……全部一列。ガルハートの読み通りだね」
その報告に、ザルカスが低く呟く。
「……よし。ミルカの“目”があるなら、死角はない」
ガルハートも短く言った。
「助かる。お前の目は、戦場の“地図”だ」
ミルカは照れくさそうに肩をすくめた。
「戦えない分、役に立たないとね」
谷の奥から地鳴りが響く。
ロッカが叫ぶ。
「来るぞ! 帝国軍九百、谷に突入!」
谷に吹き込む風が、ひどく冷たかった。その冷たさは、これから起こる惨劇を予感させるようでもあった。
鋼鉄の牙は、すでに配置についていた。
谷の中央には――ガルハートが、ただ一人で立っていた。
いつもの木刀は持たず、肩に丸太を担いだだけの姿。だが、その背中は、九百の軍勢を前にしても揺るがない。
ザルカスが低く言う。
「……本当に一人で囮になる気か?」
ガルハートは肩をすくめた。
「俺には法外な賞金がかかってる。倒せば名が上がる。正規兵でも、喉から手が出るほど欲しいだろ」
シンバが息を呑む。
「……だから、先行してくる兵が“勝手に”突っ込んでくる……」
「そういうこった」
ガルハートは谷の奥を見据えた。
◇◆◇
帝国軍九百の先頭が、谷に足を踏み入れた。
谷間の向こう、丸太を肩にした金髪の巨躯が、こちらを見たまま動かない。
若い兵士たちは、噂の金獅子を目の当たりに興奮を隠せず、我先にと谷に突入した。
「いたぞ! 金獅子だ!」
「賞金首だ! 俺が仕留める!」
「名を上げろ! 突っ込めぇッ!」
レオニドの制止も届かない。若い兵たちは、ガルハートを見た瞬間に“理性”を失った。
九百の軍勢の先頭が、勝手に走り出す。統率が崩れ、列が伸び、谷の中で軍勢が“間延び”していく。兵たちは先を急ぎ、先を追い越し、黄金の獅子へと迫る。軍勢はもはや隊を成してはいない。
参謀が叫ぶ。
「隊列を整えろ! 勝手に前へ出るな! レオニド様、止めないと――」
「黙れ。あれは好機だ。先頭が金獅子を押し潰す」
レオニドはそう言ったが、その目には、わずかな焦りが宿っていた。
◇◆◇
ガルハートは、迫り来る兵たちを見ても動かない。
「押し潰せぇぇぇッ!!」
「名を上げるのは俺だ!!」
「死ねぇぇッ!!」
兵たちが殺到する。
だが、ガルハートは潰れない。
押し寄せる兵の波の中で、彼はただ、肩に担いだ丸太を真横に振るだけ。剣技も駆け引きもない。純然たる力の暴力。それだけで、兵たちは次々と弾かれ、谷の壁に叩きつけられ、後続の兵がその上に転げ落ちる。
「な、なんだ……!? 押し返されてる……!」
「前が詰まってる! 止まれ! 止まれぇッ!」
「後ろから押すな! 押すなって言ってるだろ!!」
谷の中で、帝国軍の隊列が完全に崩壊した。
前はガルハートに阻まれ、後ろは押し寄せる兵に押し潰され、中間は身動きが取れない。
その様相は、まさに地獄谷である。
◇◆◇
その瞬間だった。
谷の上から、鋼鉄の牙の仲間たちが一斉に動いた。
「撃てぇぇぇッ!!」
矢の雨が降り注ぎ、熱湯が頭上から浴びせられ、岩が転がり落ち、悲鳴が谷に響き渡る。
「ぎゃああああッ!!」
「熱いッ!! やめろぉッ!!」
「上だ! 上から攻撃が――」
だが、谷の狭さが仇となり、兵たちは盾を上げることすらできない。
◇◆◇
その混乱の中で、谷の出口から、シンバとザルカスが飛び出した。
「参謀を落とす! レオニドを孤立させろ!」
「了解!」
二人は、混乱でむき出しになった後方部隊へ突撃した。
参謀が叫ぶ。
「護衛! 護衛を前へ――ぐっ……!」
ザルカスの刃が参謀の喉を裂いた。
レオニドが振り返る。その瞳には怒りではなく、確かな“自負”が宿っていた。
「貴様ら……どこから来ようと関係ない。
私は帝国で負けなし。
王国との交流戦でも、“天下十剣”に引けを取ったことはない……!」
若き荒鷲レオニド・ヴァルツァーク。
その剣速と突進力は帝国軍随一。金獅子を討つという野望は、傲慢ではなく“実力”に裏打ちされたものだった。
シンバは剣を構え、静かに言った。
「……来い」
レオニドの足が地を蹴った。砂が爆ぜ、風が裂ける。
レオニドの突きが雷のように走る。帝国兵が憧れた“荒鷲の初撃”。帝国では最速とされ、止める者無しとさえ言われた鋭い一撃。
だが――レオニドの剣とシンバの剣が火花を散らし、両者の眼前で拮抗する。
「軽い……いや、違う。レオニドの武器は……“速さ”だ!」
シンバは半歩、レオニドの懐へ踏み込んだ。
「なっ……!」
レオニドは初めて押し込まれた。帝国で負けなしの男が、たった一合で。
シンバの踏み込みに合わせて、レオニドは間合いを取らんと後ずさる。
「まさか、傭兵ごときが、俺を追い詰めんとするかぁ!」
レオニドは歯を食いしばり、剣を振り下ろす。二合目。その一撃はさらに重く、鋭く、帝国の将軍として荒鷲の威を示すものだった。
だがシンバは――その軌道を読み切っていた。二合目は受けない。剣を刃の腹で受け流し、
「そこだ」
返す刃でシンバの剣が、レオニドの革と鋼鉄製の胸甲を斜めに叩き割った。金属が裂ける甲高い音が谷に響く。
「馬鹿な……!?」
レオニドの目が大きく見開かれる。
(速い……!いや、違う……読まれている……!?この私が……?)
レオニドは叫びと共に剣を振り上げた。
「金獅子を討つのは、この私だァッ!!」
その瞬間、シンバの剣が、レオニドの剣を真っ向から叩き折った。
「な……ッ!?」
折れた剣が宙を舞い、レオニドの身体が大きく揺らぐ。
シンバは迷わず踏み込んだ。
「終わりだ」
レオニドの胸に、鋭い一撃が突き刺さる。
「ぐ……ッ……!」
荒鷲レオニド・ヴァルツァークは、わずか三合のうちに――その場へ崩れ落ちた。
胸甲には、“若き将軍の自負”を砕くように深い亀裂が走っていた。
倒れながら、レオニドはかすかに笑った。
「……よもや……獅子が……二頭とは……恐るべし……鋼鉄の牙……」
その瞳から光が消えた。
指揮官の死により谷の中は、完全な恐慌状態に陥った。
前はガルハート。上からは鋼鉄の牙の仲間たち。シンバとザルカスは谷の上へと引き上げ、敗走する兵の道を開けた。狙い通り、兵たちは一目散に谷から逃げ出した。
ガルハートは、倒れた兵たちを見下ろしながら呟いた。
「……言ったろ。狭路は、獅子の縄張りだって」
戦いが終わり、逃げ帰った帝国兵たちは震えながら語った。
「金の獅子だけじゃねぇ……!」
「もう一頭……鋼鉄の獅子がいた……!」
「谷に入ったら最後だ……あそこは獅子の巣だ……!」
鋼鉄の牙は、わずか二十の手勢で九百の帝国軍を狭路の谷で撃破した。
それは、北方の激戦区、血と鉄と錆の匂いのする要害ザウロンに、新たな伝説が生まれたことを意味している。
この戦いにて、シンバは“鋼鉄の獅子”の通り名を受け、北方最強の一人として名を連ね、
“金の獅子と鋼鉄の獅子” の噂は、ジョルカス帝国のみならず周辺各国へと広がっていくことになった。
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