北方編:序章「獅子の胎動」2
いつもお楽しみいただきありがとうございます。
獅子の胎動編では二人の獅子の話をしようと思います。
書体ですが、意図的に一人称に変えてあります。
月、水、土曜 18時の週3回投稿になります。
月水土曜はガハハの日 お忘れなく。
ライナル王国北方。
激戦区と言われるここは、山脈と盆地に挟まれた“逃げ場のない地獄”は、夜明け前の冷気を肺の奥まで突き刺してくる。
霧は血の匂いを吸い込み、石畳にこびりついた昨夜の死を白くぼかし、街全体を死装束のように包み込んでいた。
その中の要害ザウロン――北方激戦区の後方にある吹き溜まり。
ここでは、名を捨てた者、家を失った者、戦場に魂を置き忘れた者が、酒と血の匂いの中で今日を生きている。
そのギルドハウスの前で、俺――シンバは、壁に貼られた依頼票を睨みつけていた。
祖父の代に貴種を捨て、傭兵として生きる道を選んだ一族。俺には名乗るほどの家名なんて無い。ただ、十五人の家族を食わせるために剣を振るうだけだ。
壁には、死の匂いを放つ依頼が並んでいる。
遊撃任務
かく乱作戦
物資略奪
報酬は高い。だが、鋼鉄の牙には荷が重い。
隣でザルカスが肩をすくめた。
「遊撃は死人が出る。かく乱は帝国に見つかったら終わり。略奪は……うちの流儀じゃねえな」
俺は依頼票を握りしめた拳を震わせた。
「……臆病でいい。俺が死んだら、十五人が飢える」
それが俺の“責任”だ。若手No.1といわれようが、腕に自信があろうが関係ない。
「いつも通り、商人の護衛だ」
ザルカスは苦笑した。
「堅実でいいじゃねえか。俺たちは“家族”なんだからよ」
ギルドハウスの扉を押し開けると、酒と汗と鉄の匂いが混ざった、北方特有の重たい空気が肺にまとわりついた。
昼間だというのに、薄暗い室内には酔いどれ傭兵たちの怒号が飛び交い、壁に吊るされた油ランプの炎が、戦場帰りの男たちの影を不気味に揺らしている。
そんな喧騒の中、俺とザルカスが依頼票を提出しようとカウンターへ向かった時だった。奥の丸テーブルから、妙に湿った笑い声が聞こえてきた。
「おい聞いたかよ、またあの裸の巨漢が帰ってきたらしいぞ」
「あぁ? あの木刀の化け物か。昨日も帝国の斥候を叩き割ったって話だ」
「笑わねぇし、喋らねぇし、何考えてるか分からねぇ。けど、あいつが混じると依頼の成功率が跳ね上がるんだとよ。気味悪ぃったらありゃしねぇ」
俺は思わず足を止めた。ザルカスも眉をひそめる。
「……裸の巨漢?」
「また妙な奴が増えたな。ここは北方のドン詰まりだぜ。そりゃあ怪物の一匹や二匹、湧いてもおかしくねえ」
ザルカスは軽口を叩いたが、声の奥にわずかな警戒が滲んでいた。
俺も同じだった。
この街には、戦場で心を失った奴らが腐るほどいる。だが――“裸で木刀一本”というのは、さすがに聞いたことがない。
別のテーブルからも声が上がる。
「あいつ、寒空の下で裸で寝てんだとよ。誰も近寄らねぇ。怖すぎてな」
「金は全部、食うか飲むかに使っちまうらしい。住む場所にも服にも興味がねぇんだと」
「でも戦場に行けば必ず帰ってくる。しかも、周りの傭兵の生存率が上がる。
……あれはもう、人じゃねぇよ」
俺は無意識に喉を鳴らした。戦場で“必ず帰ってくる”という言葉は、北方では神話に等しい。
ザルカスが小声で言う。
「……シンバ。関わるなよ。こういう噂の奴は、大抵ロクな死に方しねぇ」
「分かってる」
そう答えたはずなのに、胸の奥がざわついて仕方がなかった。
まるで、まだ見ぬ何かが、俺の背中を冷たい指で撫でているような感覚。
「裸の巨漢」
「木刀の怪物」
「笑わない男」
噂はどれも荒唐無稽で、どこか作り話めいている。だが、この街では“作り話の方が現実より優しい”ことを、俺は知っていた。
ザルカスが依頼票を提出しながら言う。
「まぁ、俺たちには関係ねぇよ。ああいう奴は、俺たちみたいな“家族で食ってる傭兵”とは住む世界が違う」
「……そうだな」
そう言いながらも、俺の胸のざわつきは、霧のように晴れなかった。
まるで――その“裸の巨漢”が、この先の俺たちの運命に深く食い込んでくることを、
どこかで知っているかのように。
◇◇◇
護衛任務の帰り道。北方の風は、昼でも骨の芯まで冷やしてくる。
荷馬車の車輪が凍土を噛むたび、乾いた音が丘の斜面に反響し、戦場の残響のように耳にまとわりついた。
丘の頂に差し掛かった時、ザルカスが突然、手綱を引き絞った。
「……シンバ。下を見ろ」
言われるまま視線を落とすと、盆地の底で“地獄”が蠢いていた。
黒い点が無数に散り、雪原に血の筋が走っている。よく目を凝らすと、それが人と馬だと分かった。
大手傭兵クラン《蛇の毒》――百名規模の連中が、帝国の重槍騎兵二十に追われ、
蜘蛛の子を散らすように逃げ惑っていた。
「……なんだ、あれ」
武器商人が震える声で呟く。俺も言葉を失った。
重槍騎兵は、北方でも最悪の“死の使い”だ。馬ごと鎧を纏い、突撃の勢いだけで人間を肉片に変える。百名の傭兵が逃げるのも当然だった。
だが――その中に。
一人だけ、逃げない男がいた。
金髪の巨漢。裸同然の上半身。肩に担いだのは、場違いなほど質素な木刀一本。
噂に聞いた“裸の巨漢”――ガルハート。
ザルカスが息を呑む。
「……あいつ、死ぬぞ」
俺もそう思った。いや、誰が見てもそう思うだろう。
重槍騎兵二十が、巨大な影となってガルハートを飲み込もうと迫る。
馬の嘶き。
鉄のぶつかり合う音。
地面を揺らす突撃の振動。
そのすべてが、“死”の到来を告げていた。
だが――ガルハートは、微動だにしなかった。
まるで、自分に向かって突っ込んでくる“死”を、ただの風のように受け止めるかのように。
次の瞬間。
木刀が一閃した。
音は――無かった。ただ、視界が赤く弾けた。
取り囲んだ馬も人も、冗談のように血袋へと変わり、雪原に赤い花が咲いた。
武器商人が腰を抜かす。
「……なんだ、あれは……人間か……?」
俺は答えられなかった。背筋が凍りつき、喉が勝手に鳴った。
ザルカスが震える声で言う。
「シンバ……あれは、関わっちゃいけねぇ奴だ」
分かっている。分かっているのに――
胸の奥が、ざわついて仕方がなかった。
◇◇◇
要害ザウロンの門が見えた頃には、北方の空はすでに鉛色に沈み、街全体が冷え切った鉄の匂いを吐き出していた。
護衛任務を終えた俺とザルカスは、武器商人をギルドへ送り届け、明日の仕事を確認し、家族のための食材を買い込んで帰ろうとしていた。
その時だった。
ギルドハウスの扉が、軋むような音を立てて開いた。中から現れたのは――
血まみれの木刀を肩に担いだ、金髪の巨漢。
ガルハート。
裸同然の上半身は返り血で黒く染まり、ぼろ布を雑に肩と腰へ引っかけただけの姿。
だが、その歩みは異様なほど静かで、まるで“血の匂い”だけが彼の存在を主張しているようだった。
俺の背筋が、勝手に震えた。
「……なんだ、あの気配は」
ザルカスも息を呑む。戦場で何度も死線を越えてきた俺たちでも、あれは“人の気配”ではなかった。
ガルハートは俺たちに気づいた様子もなく、ただ無言で通り過ぎようとした。
その瞬間――目が合った。
ほんの一瞬。
だが、胸の奥を氷の指で掴まれたような感覚が走った。
俺は思わず道を譲った。本能が叫んでいた。
「関わっちゃいけねぇ。俺は十五人食わせなきゃなんねぇんだ」
ガルハートはそのまま歩き去り、ギルド前の石畳に腰を下ろす。血まみれの木刀を脇に置き、まるで“死体のように”横になった。
そこへ、蛇の毒の頭領ズーザが近づく。
「今日は助かったぜ、ガルハート。ほらよ、銀貨五枚だ」
銀貨五枚。
騎兵二十を屠った男への報酬とは思えない。
さらにズーザは、薄汚れた毛布を一枚、投げつけるように渡した。
「これもやるよ。寒いだろ?」
ガルハートは何も言わず、ただ毛布を受け取るとその場で丸くなった。
俺は拳を握りしめた。
「……ふざけんな。あれが報酬かよ」
だが、相手は百名規模の大手クラン。関われば、鋼鉄の牙が潰される。
ザルカスが低く言う。
「シンバ、行くぞ。ああいう連中に義憤を燃やすのは……死にに行くようなもんだ」
分かっている。分かっているのに――
振り返ると、ガルハートは血まみれのまま毛布をかぶり、道路の隅で静かに眠っていた。
その姿が、なぜか胸に刺さった。
「……なんでだ。なんであいつが気になる」
◇◇◇
鋼鉄の牙の小屋に戻ると、北方の夜風よりも冷たい空気が、胸の奥を刺した。
焚き火の火は弱々しく揺れ、湿った木材がくぐもった音を立てている。
その前で、俺の祖父が青ざめた顔で膝を抱えていた。
「……シンバ。帰ったか」
声が震えていた。嫌な予感が、背骨をつたって這い上がる。
布団の中では――一人の子どもカンナが、火のような熱にうなされていた。
頬は真っ赤に染まり、呼吸は浅く、汗で濡れた髪が額に張り付いている。
手足は冷たいのに、身体だけが焼けるように熱い。
祖父が唇を噛みしめた。
「……流行り病だ。医者はいる。薬もある。でも……金が足りねぇ」
焚き火の光が、祖父の影を大きく揺らした。
その影は、まるで“家族を守れない自分”を責めているように見えた。
俺は拳を握った。
爪が掌に食い込み、血の味が口の中に広がる。
「……クソッ。なんでこんな時に」
ザルカスが続ける。
「無難な仕事じゃ、間に合わねぇ。でも危険な依頼は……誰かが死ぬ」
分かっている。分かっているのに――
胸の奥で、昼間見た“金髪の巨漢”の姿がよみがえった。
血まみれの木刀。毛布一枚で道路に寝転ぶ巨躯。そして、あの一瞬だけ交わった視線。
「……なんでだ。あいつのことが頭から離れねぇ」
ザルカスが俺の顔を見て、目を見開いた。
「おいシンバ……まさか、あの化け物に頼る気じゃねぇだろ」
俺は答えなかった。ただ、布団の中で苦しむ子どもを見つめた。
その小さな胸が、必死に呼吸を繰り返している。その度に、俺の胸の奥で何かが軋んだ。
「……金を作る。なんとしてもだ」
ザルカスが叫ぶ。
「無茶すんなよ! 危険な依頼は受けねえって決めただろ!」
俺は振り返らない。
「……カンナを助ける。それだけだ」
扉を開けると、北方の冷たい風が吹き込んだ。
その風の向こうに――血まみれの毛布で眠る、金髪の巨漢がいる。
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