終わりのない異界(アノマリー・フィールド)
怪物の泥と岩石の身体は一瞬にして高熱で沸騰し、ボロボロと崩れ落ちてただの泥水へと還っていく。
(これは……やったのか?)
湊はガントレットを構え、直前まで怪物だった泥水を見据えたまま、しばらく身構えていた。
強大なボスを倒したのなら、この異界の空間に何らかの崩壊や変化が起きるはずだと思ったからである。
しかし。一秒。十秒。一分。……何も起こらない。
赤黒い空も、空間のねじれも、何一つとして変わりはしなかった。
(あの怪物は……この超常現象の根源とは、何の関係もないものだったってことか!?)
いくら文句を言いたくても、ここに留まっていては埒が明かない。湊は意を決して、狂い果てた学校の探索へと歩みを進めた。
そして、自身の常識が一切通用しない空間へと湊は足を踏みいれていく。
湊は体育館の重い正面扉を押し開け、廊下へ出た。
――はずだった。
「なっ……!?」
目の前に広がっていたのは、白いベッドと消毒液の匂いが漂う『保健室』。周りを見渡しても、見間違いなどなく、保健室だった。
校庭へ出ようと保健室の窓を開け、意を決して外の足場へと脱出する。
しかし、着地した先は校庭の地面ではなく、なぜか顕微鏡や実験器具が並ぶ『化学室』のテーブルの上だった。
窓から化学室に侵入してしまう形になったのに加え、黒いテーブルの上に着地したことに困惑する湊。
(正面から出たら、きっと別の教室に繋がってしまう。なら……!)
湊は一種の確信を持ちつつ、化学室の奥にある『化学準備室』のドアを開ける。
だが、視界に飛び込んできたのは、無数の石膏デッサンが描かれたキャンバスが不気味に並ぶ『美術室』。
いつもなら、キャンバスがあった所で何も思わないのにも関わらず、湊の背筋を恐怖が伝う。
キャンバスの方から目を逸らし、入って来た扉とは違う方の扉を開けると、今度は歴代の作曲家たちの肖像画がこちらを見下ろす『音楽室』へと繋がっていた。
「クソッ、どうなってやがるんだ!」
あまりの不条理さに頭を抱え、急いで音楽室から廊下へ引き返した。
すると、気がつけば湊は『女子トイレの4番目の個室』の中から出てくる形になっていた。精神的な限界を覚えながら、薄暗いトイレから外へ出る。
――目の前に広がっていたのは、学校の『屋上』だった。
吹き抜ける不気味な風に背を向けて、屋上の扉を開けると、そこは『3階の廊下』だった。
後ろにあった教室の扉を開けると、『職員室』に繋がっていた。そのまま『校長室』に入ろうと扉を開ける。
だが、辿り着いたのはなぜか『2階の廊下』。
そのままさらに下の階へ行こうと階段に差し掛かったその瞬間、周囲の空間がぐにゃりと歪み、目も眩むような光が弾けた。
視界が戻ると、そこは『1年の教室』の中だった。
ここから出ようと扉を開けるが、悪夢は終わらない。1年、2年、3年の教室が、なんの規則性もなく、まるで狂ったスロットマシーンのように湊を弄ぶ。
自分の教室を除く、全ての教室を、ただひたすらに彷徨い歩かされた。そして、幾つもの教室を彷徨った果てに――。
ようやく、湊は『1階の廊下』へと辿り着いた。
「ここから、外に出られるかも知れない…!」
息を切らしながら廊下を走り抜け、そのままロッカーのある昇降口を突き抜けて、
ついに、ついに学校の外――『校庭』へと脱出することが出来た。
歪んだ迷宮と化した学校を抜けた安堵で、湊はその場にへたり込みそうになった。
しかし、その安堵は、校庭の砂埃の向こうにそびえ立つ『影』を見た瞬間、完全に消し飛んだ。
校庭の中央。そこにいたのは、学校の3階まで届くほどの巨体を誇る、全てにおいて圧倒的な質量を持った泥人形の怪物だった。
全身から不気味な地鳴りを響かせるその巨躯を視認した瞬間、今出てきたばかりの昇降口へと急いで引き返した。
下駄箱の物陰に身を隠し、激しい動悸を抑えながら座り込む。
(何だよあれ……っ! さっき研究員があれを倒すのは考えない方が良いと言っていたのも、今なら納得できる……!)
まともに戦えば一瞬で踏み潰されて肉片に変わるだろう。湊は、荒い息を吐きながら必死に思考を巡らせた。
(この世界から、どうすれば出られる……?)
ポケットの中の『ツールカセット:モバイル』を睨みつける。
先ほど奇跡的に繋がった研究所との通信は、すでに完全に途絶えていた。
どれだけ操作しても、返ってくるのは電子のノイズだけ。もう、研究所からのアドバイスは受け取れない。
(……待てよ。校門から外へ出たら、一体どうなるんだ?)
きっとこの異界は、学校のみしか再現できてないはず。もし学校の外へ出ることができたなら、元の世界に戻れるのだろうか。
(いや、迷っている暇はない……。ここに居るだけでは何にもならない。いずれ体力が尽きるだけだ!)
湊は昇降口の向こうに見える、怪物の足を見据える。その足の向こうに、校門がある。
狙うは、禍々しい濃霧の壁に閉ざされた『校門』。そこへ行けば、元の世界に戻れるかもしれない――その一縷の望みに、全てを賭ける。
「ふぅー……、よし!」
深呼吸をした後、昇降口の扉を開け、校庭に出た。
3階建てのビルに匹敵する超巨大な怪物は、校庭の中央で、地響きのような呼吸を繰り返しながら、何かを探している……ように見える。
どうやら、まだ見つかっては居ないようだ。
湊は怪物の背後、視界の死角に滑り込む。
物音を立てないよう、体育館の影や朝礼台の物陰へと滑り込むようにして、校門を目指して慎重に進む。
校庭の端に差し掛かり、端にあるフェンスに沿うように進む。
見つかったら死ぬ。極度の緊張と、怪物の巨躯から放たれる圧倒的なプレッシャーで、肌がピリピリと痺れた。心臓が壊れそうなほどけたたましく脈打つ。
一歩、また一歩。普段なら秒で辿り着くはずの校門までの距離が、今は永遠のように長く感じられた。
校庭を沿うように進んだ果てに、湊はついに校門の前へと辿り着いた。
だが、その眼前にあるのは、いつもの見慣れた道ではない。生き物のようにウネウネと蠢き、世界の終わりを告げるかのように行く手を阻む、赤黒い『濃霧の壁』だった。
(そういえば、これに触れたことはなかっな……。)
この霧の向こう側から、サイレンが聞こえてくる。恐らくは、警察組織『超常対策課』のものだろう。
――すなわち、これが異界の境界線だ。
「ここを、抜ければ……!」
湊は覚悟を決め、赤黒い霧に向かって走りだした。
……霧中を夢中で駆け続ける。
湊は、霧を隔てたすぐ向こう側が現実世界だとばかり思っていた。
だが、霧は晴れない。
遂に疲れ果ててその場に座り込んでしまった。
周囲はもう見慣れた赤黒い霧のみ。
すると、赤黒い霧の向こう側から、『赤く光る何か』が近づいてきた。
その光は時間を経るほどに強く、大きくなっていった――。




