エピローグ
穏やかな風が、長い髪をふわりと弄ぶ。
庭の花々に水をやっていたルティシミアは思わず微笑むと、大きく深呼吸して、目を閉じた。
耳をすませれば、きゃっきゃっと嬉しそうにはしゃぐ精霊や妖精たちの声が聞こえる。
ひらり、ひらり、と美しい蝶が花々の間を舞い、小鳥たちは高らかに歌い出す。
木々は枝を揺らしながら、ざわめいて。
満開になった、薄紅色の花が風に吹かれて舞い踊っている。
ー……季節はすっかり、春になった。
「気持ちのいい朝だな……おはようルティ、髪に花びらがついているぞ。」
不意に声が聞こえたかと思うといつの間にか、ルティシミアの隣にはシルバーホワイトと薄紫の混ざり合った美しい瞳を、楽しげに細めたシドが立っていて。
くすり、と微笑をこぼしながらルティシミアの髪に手をのばすとくっついていた薄紅色をつまみ上げる。
「あら、気づかなかったわ。ありがとう。それからおはよう、シド。もう行く時間なの?」
ルティシミアはシドを見上げて、問いかけた。
「ああ、そうだな。今日は早く行くと約束してしまったから、そろそろ行くよ。」
ルティシミアとシドが【深淵の森】の奥深くにある屋敷で暮らし始めて、三年程たった。
王都ではどうやらルティシミアの予想した通り男爵令嬢が王に見つかってしまい、そのまま気に入られて、後宮内が荒れているのだと噂で聞く。
いかにも面倒くさそうな状況を耳にして、巻き込まれずにすんだことをルティシミアは心から喜んだ。
男爵令嬢と王の前にはこれからいくつもの障害があるだろう。
公爵令嬢や侯爵令嬢が黙っていないことは確実だ。
でも、きっと彼らはハッピーエンドを迎えられるはず。
これまでに読んだ数多くの小説の結末がハッピーエンドであったように。
だって彼女……一度だけ見た男爵令嬢は、そのヒロインにそっくりだったのだから。
ルティシミアは密かに願う。
男爵令嬢と王が幸せになれるように、と。
(だって、公爵令嬢や侯爵令嬢が王妃なんかになったらこの国の財政が傾きそうだもの……彼女たち浪費家だと言うしね。それなら身分が低くても正義感に溢れてそうな男爵令嬢に王妃になってもらいたいわ。この国が荒れると困るのは国民である私たちなんだから。)
それは、かなり打算的な考えがまざった願いではあったが……。
まあ、それでも王と男爵令嬢の恋がうまくいくといいという気持ちは本当だから問題ない……はずである、多分。
三年程の年月でルティシミアとシドは少しずつお互いのことを知り、時には喧嘩をしつつも距離を縮めてきた。
お互いの親に挨拶もしたし、式も正式に挙げた。
今、シドのことをどう思っているか、と聞かれたらルティシミアは迷わず答えられるだろう。
愛している、と。
ルティシミアは今、間違いなく幸せだった。
「それじゃ、ルティ。行ってくるよ。」
「ええ、行ってらっしゃい。」
仕事に出かけるシドを、手を振って見送る。
姿が見えなくなると、ルティシミアは小さく伸びをしながら空を見上げた。
吸い込まれそうな青い青い空。
ふふっと思わず笑いがこぼれる。
さて、今日は何から始めようか。
疲れて帰ってくるシドのために今日も美味しい夕食を作らないと。
天気がいいから洗濯もしないとね。
ああ、この前とれたベリーでジャムも作らないといけない。
今日もやることはたくさんあった。
「さて、と。今日も一日頑張りましょう!」
ルティシミアはそう呟いて、身を翻し家の方へ向き直る。
すると突然、庭を強い風が庭を吹き抜けた。
ざあああっと木々が音を立てて、ルティシミアの目の前で薄紅色の花びらが舞い上がる。
くるくる、と宙を舞うそれを見ていて思い出すのは、やはり祖父のことで。
『ルティシミア、幸せというのは一人一人違うものだ。他人から見て決して羨むようなものでなくても、それがその人自身の幸せであるならば、きっとそれは幸せと呼べるのだろう。』
『お前は手に入れられる人になりなさい。お前自身が心から幸せだと思える、そういう幸せを。』
(ねえお祖父様、私、見つけたわ。私自身の幸せ。)
目を閉じて心の中で小さく呟くと、祖父が笑って頷いてくれたような、そんな気がした。
それは、誰もが羨む物語の結末ではないのかもしれない。
しかしきっと、これも一つのハッピーエンドと呼べるはずだ。
……そうして、彼女はハッピーエンドを迎えた。
(これは、少女と王様がドキドキハラハラの恋……をしている脇で、)
(一人の騎士と普通に幸せになった、ある貴族令嬢の物語。)




