三話
【深淵の森】とはその名の通り、その森が終わりの見えないほど奥深く、底知れないことから名付けられた。
そこは、進化して変異種となった異常に強い魔物たちが巣食う場所である、ということで有名な森だ。
【深淵の森】は二つに分かれている。
入り口から境目まで、つまり木々の間から光が射してくる辺りまでは、まだそれなりの力を持つものなら生きて帰れる安全地帯。
そこから先は木々が生い茂り、一筋の光でさえ射し込まない、昼でも夜のような暗さの危険地帯。
空気はよどみ、見るからにおどろおどろしい雰囲気である危険地帯へ入り、帰ってきた者はいないと言われている。
ルティシミアとシドの二人はまさに今、その安全地帯と危険地帯の境目に立っていた。
一寸先は闇、とはこういうことを言うのだろうか。
シドは森のおどろおどろしい雰囲気にあてられ、遠くなる意識の中でそう思った。
「あらまあ、相変わらず不気味な森ねぇ……。」
一方、ルティシミアはのんきにそんなことを呟きながら楽しげに笑う。
そして、唐突に胸元から鍵を取り出した。
鍵には透明感のある紫の宝石……いや、魔力の多さからおそらく魔石が埋め込まれている。
何をするつもりか、と見つめるシドの前でルティシミアは静かに目を閉じた。
遠い記憶が甦っていた。
あれはそう、側室として召し上げられると決まり、最後にここへ来た日。
美しいアメジスト色の瞳を細めて、泣きじゃくるルティシミアをなだめるように、彼は言っていた。
『そんなに泣くな、ルティシミア。望みがあるならば、願え。強く、強く、願い続けるのだ。そうすればお前の願いは叶えられるだろう。』
『ほんと?またここに来れる?』
『ああ。その日が来た時は陽と陰の狭間で我の名前を呼ぶのだ。きっと迎えに行こう。』
(ねえ、聞こえるかしら。……帰ってきたわ。帰ってきたのよ、私。だからー…。)
「迎えに来て、ーー紫水……!」
不意に風が吹いた。
強い強い風はルティシミアの長い髪を巻き上げ、はためかせる。
ルティシミアとシドは両手で顔を庇って、風がおさまるのを待った。
数分経って、風が、止む。
恐る恐る視線を上げたシドは驚いた。
目の前に存在するものが信じられず、目を疑う。
「え……し、神獣……?」
それは、狼だった。
しかし、ただの狼ではない。
その身体はルティシミアとシドが見上げなければ全身が見えないほど巨大であり、その毛は雪で染めたかのような純白で、首まわりの毛だけが銀色に輝いている。
瞳は透き通った美しい紫。
あれは……神獣だ。
その神々しい姿を、シドは本で見たことがあった。
しかし、なぜこんなところにいるのだろうか?
そうシドが考えた時、おもむろに神獣が口を開いた。
『久しいな、ルティシミア。約束通り、迎えに来た。』
「ええ……久しぶりね。会いたかったわ、紫水。」
そう言ってルティシミアは体当たりするかのように、神獣に抱きついた。
シドは混乱する。
一体、何がどうなっているのだ。
ルティシミアの家は【深淵の森】にあって。
そこからなぜか神獣が出てきて。
それはルティシミアの知り合い?
そもそもなぜ、【深淵の森】なんかに家があるのだ。
一気にいろいろなことが起こりすぎて、シドの頭はすでに限界を迎えていた。
「悪いがルティ……そろそろ俺にも分かるよう事情を説明してはもらえないか。」
疲労感あふれるシドの声色にルティシミアは、はっと我に返ると苦笑いを浮かべる。
「ええ、ごめんなさい。貴方にはまだちゃんと説明をしていなかったものね。とりあえず、家に向かいましょう。そこで、全て説明するわ。」
【深淵の森】の奥深く。
人間では絶対にたどり着けない最奥に、それは存在していた。
色鮮やかな花々に囲まれた屋敷。
強力な結界に護られたそこは、不気味な森の中で唯一、神聖な空気を放っている。
何百年……いや、何千年ほど前のこと。
その時代、最も力を持った偉大な魔女がいた。
強大な力はいつ、どんな時代であっても争いの種となってしまうもの。
彼女の力も例外ではなかった。
しかし、彼女はもともと温厚な性格で争いごとも贅沢も地位もとくに欲しいとは思っていなかった。
しかし、どんなに願っても彼女の力を狙う者たちは聞き入れず、逃げても逃げても追いかけてくる。
彼女の力を狙う者たちとの戦いに疲れた彼女は、ついに決心した。
どこへ逃げても追いかけてくるのだから逃げるのはやめて、誰も来れない場所へ隠れよう、と。
そうして、彼女は【深淵の森】の奥深くに家を建てて、住むことにし、二度と世間に姿を現すことはなかったという。
「つまり、ここはその魔女が住んでいた家ってことよ。紫水はこの家を守るために魔女が契約を交わした守護獣。私のお祖父様がまあ色々、やんちゃしていた時代に紫水と出会って契約したらしいわ。」
「君のお祖父様、というとアベル=ブルーム様のことかい?確か、才能溢れる人であり、個人の商売で巨万の富を得た天才だと聞いているが……。」
「それも間違ってはないけれど、お祖父様は爵位を継ぐまで冒険者をやっていたそうなのよ。お祖父様は三人兄弟の三男だったから、爵位を継ぐ順番が来ないかもしれなかったの。だからはじめは冒険者になったのね。その時、紫水と出会って屋敷を譲り受けたのですって。でも長男、次男と続けて流行り病にかかって亡くなってしまったものだから、お祖父様に順番がまわってきてしまい、お祖父様はこの家を離れて王都へ。それからずっと向こうで暮らしていたの。……本当は私のお父様に爵位を譲ったら帰って来るつもりだったらしいのだけど、でも病気になってしまったから、そうもいかなくなって。それで、亡くなる前に私にこの家をくれたのよ。」
こぽこぽこぽ、と軽やかな音を立てて紅茶がティーカップに注がれる。
ずっと放置されていたにも関わらず、屋敷の中は三年前のあの日から少しも変わっていなかった。
祖父から聞いていた通り、屋敷を護る者たちがきちんと働き、掃除をしていてくれたようである。
この屋敷には人ならざるものが存在している。
神獣であり、この家の守護獣である紫水を筆頭に、多くの精霊、妖精たちと魔獣たち。
長い時を生きて意思を持った木の精霊なんてものもいるし、ここだけの話、小人族というもう世界から絶滅したと思われている種族も密かに暮らしているらしい。
まあ、これはルティシミアが紫水から聞いた話なので実際に会ったことはないのだが。
それらのものたちはずっと昔、例の魔女の時代からこの家を護り続けてきたそうだ。
ふわり、紅茶の良い香りが辺りに広がる。
ルティシミアは城から持ってきた茶菓子を机の上に出すと、自分も座った。
「まあ、簡単に言ってしまえばこんな感じ。理解したかしら?」
「ああ、何とかね……とりあえずこれからここが俺たちの家なのか。ところで一ついいかい。」
急にシドが真面目な顔になったのを見て、ルティシミアは背筋を伸ばす。
さすがに自分が暴走しすぎたのは理解していた。
重要な情報を直前まで隠して、後に引けなくしたことも意図的にやったことだ。
ルティシミアには、昔から暴走癖がある。
幼い頃から興味があることについつい、突っ走ってしまい、よく祖父にも叱られていた。
夢中になると周りが見えなくなるのだ。
だから、シドが吐き出す文句は全部受け止めなければ……と思っていたのに。
「ルティ……君、家事は出来るのかい?」
「……え?」
シドが聞いたのは全く別のことだった。
思わず思いっきり脱力してしまう。
ルティシミアが怪訝な表情でシドを見つめると、彼はルティシミアが怒ったとでも思ったのか慌てて弁解のようなものを始めた。
「いや、君は貴族の令嬢だろう?家でも城でも周りの事は全てやってくれる使用人がいたはずだ。そういう生活をしてきた君に使用人の一人もいない生活が耐えられるのか?使用人一人くらいなら俺でも雇えるが、こんな場所じゃきっと来てくれないだろう。それなら自分たちでやるしかない。だが正直、俺はそれなりの家事は出来ても料理などはあまり得意じゃないんだ。」
それを聞いて、ルティシミアは笑ってしまう。
心配することは【深淵の森】に家があることでも、滅多に見られない神獣がいることでもないのか。
普通はそちらを気にするものだ。
ルティシミアだって、もしそれらの理由でこの家に住みたくないと言われたら、諦めるつもりだった。
この家に住む、というのはルティシミア個人の夢だ。
一人ならともかく、今はシドがいる。
優先しなくてはならないのは、ルティシミア個人の意見ではなく、シドの意見だろう。
これから二人は夫婦となり、長い間を共にするパートナーになるのだから。
「……ふっふふ、なるほどね。そうね、普通の令嬢なら家事なんて出来るわけないわよね。でも、気にするところはそこなのね……何だか気が抜けちゃったわ。家事のことなら大丈夫、心配ないわ。家事は一通り出来るし、それなりの腕は私の家の使用人たちが保証するから。」
実はルティシミアは昔から貴族令嬢の教育に加え、家事などの仕事も一通り出来るよう教育を受けてきたのだ。
もちろん、それをやらせたのは祖父である。
祖父はルティシミアをよく外へ連れ出し、森で薬草の見分け方を教えたり、料理の仕方、野宿の仕方なんてものまで教えてきた。
ルティシミアが貴族令嬢らしからぬ、おてんば娘にならなかったのは、両親の教育がよかったからなのだろう。
両親が、きちんと祖父が教えてくれるものと貴族のものとを区別して教育を行ってくれたおかげで、ルティシミアはきちんとした淑女でありながら、やろうと思えば軽いサバイバルのようなものまで出来る器用な娘へ成長したのだ。
「……つまり、家事は任せて!ということよ。」
「なるほど…やはり、君は色々と規格外なんだな……。」
「ええ、まあ……よく言われたわ。後宮に召し上げられる前はね。」
なぜか胸を張るルティシミアにシドは思わず吹き出す。
何だかひどく、愉快な気分だった。
正直、シドはルティシミアとの結婚に乗り気ではなかったのだ。
シドは騎士団に所属していた時から、シドの才能を羨んだ貴族たちに様々な嫌味を言われてきた。
中でも多かったのはシドが平民であることを馬鹿にする内容だった。
おそらく、それが一番言いやすい嫌味だったのだろう。
まあ、でも全ての貴族がそういう嫌なやつだったわけではない。
事実、シドの上司である騎士団の団長や他数名は貴族出身であったが、とてもいい人たちだった。
だが、それでもやはり、シドには貴族というものは一部を除いて傲慢でプライドが高い嫌な性格をしている、というイメージがついてしまっている。
特に貴族の令嬢は苦手だった。
貴族出身ではなかったが将来有望だったシドには色目を使う癖に、庶民の出である騎士見習いたちにきつく当たっているのを何度も見かけたからだ。
庶民の出であることを馬鹿にするのならば、シドに対してもするべきなのに、彼女たちはそうしない。
将来がありそうな人物、地位の高い人物の前でだけころりと態度を変える彼女たちが、シドはあまり好きになれなかった。
だから、シドは貴族令嬢を妻とすることを快く思ってはいなかったのだ。
きっと、その令嬢も傲慢でプライドが高い面倒な人物なのだと思っていた。
しかし、実際に会ってみればどうだ。
ルティシミア=ブルームは変わった令嬢だった。
仕草や話し方には貴族令嬢らしい優雅さがあるのに、いろいろと規格外で変わっている。
普通、貴族令嬢の夢が森の奥で一人暮らしをすることであるなんて思うだろうか。
シドはすっかりルティシミアのペースにはまり、振り回されてここまで来た。
しかもいつのまにか住む場所まで決まっていて、なぜかそこは恐ろしい【深淵の森】で、おまけに神獣なんてものまでいる。
振り返れば怒涛の数日間だった。
目まぐるしくて、やっと今、状況を全て理解できたくらいである。
でも、それが不快だとは思わないのだ。
自分はきっと、この変わった貴族令嬢と夫婦になって、彼女に振り回されながら生きていくのだろうと素直に思ってしまうのはなぜだろう。
だがそれも……きっと悪くはない、とシドは思った。
「シド、せっかくだから私も聞いておきたいの。」
「?」
「私、結構暴走してここまで来てしまったけれど、貴方は後悔していない?もし、嫌ならば私も出来る限りのことはしたいと思ってるわ。貴方、私に振り回されてわけの分からないままここへ来たから。だから、正直に答えて。ー……シド、貴方は今ここにいることを、後悔していない?」
だから、ルティシミアが不安気にそう尋ねてきた時も自然に答えることができた。
「……ああ、俺は何一つ後悔していないよ。君と夫婦になることも。ここに住むことも。騎士の剣に誓って、言おう。」
「そう……よかった。私、夢中になると周りが見えなくなるのよ。それでたまに失敗するの。でも、貴方は後悔していないのね……。」
「ああ、これから末長くよろしく。ルティ。これから少しずつでも君のことを知っていけたらと思う。」
ルティシミアはその言葉に思わず泣きそうになりながら、ふわり、と微笑んだ。
幸せだ、と思った。
これからの生活ではおそらく、多くの人が夢見るものー……地位、お金、名声、何一つ手には入らないだろう。
誰もが羨む生活にはならないかもしれない。
でも、それでもルティシミアは幸せだと、そう思うのだ。
『ルティシミア、幸せというのは一人一人違うものだ。他人から見て決して羨むようなものでなくても、それがその人自身の幸せであるならば、きっとそれは幸せと呼べるのだろう。』
『お前は手に入れられる人になりなさい。お前自身が心から幸せだと思える、そういう幸せを。』
敬愛する祖父の言葉が蘇る。
まだルティシミアとシドは出会ったばかりで、お互いのことを何も知らない。
でも、それでいいのだ。
これから共に過ごして行く中で、お互いのことを知っていけばいいのだから。
そしていつか……お互いに想い合う本当の夫婦になれるといい、とルティシミアは思った。
だから、ルティシミアはシドに向かって明るい声で言ったのだった。
「ええ、私もそう思ってるわ。これからよろしくね、シド!」




