第8話:白衣の裁定者。医師・久我の冷徹な来訪
翌朝、学校に着いた瞬間に気づいた。
空気が、違った。
いつもと同じ廊下。
いつもと同じ教室。
いつもと同じクラスメイトたち。
なのに全員が、どこかぴんと張り詰めていた。
笑顔は浮かべている。
でもその笑顔が——いつもより、少しだけ完璧だった。
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「エミ」
「はい」
「今日、何かある?」
「……本日、感情管理センターより
特別視察官が来校しています」
「視察官」
「幸福の番人、とも呼ばれています。
正式名称は——感情適正評価官、久我誠司」
久我。
聞いたことのある名前だった。
授業で一度だけ出てきた。
「あの、全国で一番『調整実績』が多い人?」
「そうです。
累計調整件数、三千二百四十一件。
その全員が——翌日には正常値に戻っています」
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教室に入ると、担任が神妙な顔で立っていた。
「皆さん、着席してください。
今日は特別なゲストをお迎えしています。
いつも通り、穏やかに、笑顔で」
「いつも通り」という言葉を、先生が強調した。
それが——「いつも通りにしろ」という警告に聞こえた。
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扉が、開いた。
最初に見えたのは、白衣だった。
純白の、一点の曇りもない白衣。
その下に、グレーのシャツ。
ネクタイは紺色で、きっちりと締められていた。
男は、四十代くらいに見えた。
背が高い。
髪は丁寧に整えられていて、白髪が少しだけ混じっている。
眼鏡のフレームは細くて、銀色だった。
笑っていた。
穏やかで、柔らかくて、どこか父親みたいな——
笑顔。
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でも、目は笑っていなかった。
目だけが——ひどく冷たかった。
「皆さん、おはようございます」
声は低くて、よく通った。
「私は久我と申します。
皆さんの健やかな幸福を、守るためにここに来ました。
怖がらなくて、大丈夫ですよ」
「怖がらなくて大丈夫」という言葉が——
一番怖かった。
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久我は、ゆっくりと教室を歩き始めた。
一列目から順番に、生徒の顔を見ていく。
立ち止まっては、目を覗き込む。
微笑んで、次へ進む。
流れ作業みたいに、でも一人一人を確実に。
「いい顔ですね」
「幸福度が高そうだ」
「この笑顔が、本物の幸せの証です」
褒め言葉を言いながら、進んでくる。
クラスメイトたちは、少しほっとした顔をしていた。
褒められた。
合格した。
問題ない。
そういう顔だった。
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「エミ」
心の中だけで呼んだ。
「今の僕の値、どうなってる」
「正常値で、送信しています。
問題ありません」
「久我が近づいてきたら?」
「……精度を上げます。
万全にします」
万全、という言葉が、少し震えているように聞こえた。
エミの声が、というより——
僕の耳が、震えていた。
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久我が、三列目に差し掛かった。
美里の列だった。
久我が美里の前で立ち止まった。
美里は、完璧な笑顔を浮かべていた。
動じていない。
目線もぶれていない。
久我は、じっと美里を見た。
五秒。
十秒。
「……いい目をしていますね」
久我が言った。
「ありがとうございます」
美里が、にっこりと答えた。
「穏やかで、落ち着いた目だ。
本当に、素晴らしい」
久我は、先へ進んだ。
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僕は、息を止めていた。
気づいていない。
大丈夫だ。
美里は、乗り越えた。
次は——
「真琴くん、呼吸を整えてください」
エミが、静かに囁いた。
「心拍が上がっています。
深呼吸を。
今すぐ」
静かに、息を吸った。
静かに、吐いた。
笑顔を作った。
穏やかな、何も考えていない顔を。
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久我が、四列目に入った。
僕の列だった。
一人目。
二人目。
足音が、近づいてくる。
「エミ」
「偽装、継続中です」
「頼む」
「——任せてください」
初めて、エミがそういう言い方をした。
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久我が、僕の前に立った。
白衣の裾が、視界に入った。
顔を上げると——
銀縁の眼鏡の奥で、冷たい目が、こちらを見ていた。
僕は、笑顔を維持した。
何も考えていない顔を。
幸福度88パーセントの顔を。
久我は、じっと見ていた。
三秒。
五秒。
八秒。
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止まった。
他の生徒には、二、三秒だったのに。
久我は、動かなかった。
僕は、笑顔を崩さなかった。
エミが、耳の奥で囁いた。
「……偽装、限界値に近づいています。
でも、大丈夫です」
大丈夫。
大丈夫。
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「君」
久我が、口を開いた。
低い声だった。
「はい」
「いい目をしているね」
「ありがとうございます」
久我は、微笑んだ。
父親みたいな、穏やかな微笑み。
「とても——」
一拍、置いた。
「再調整が必要な目だ」
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空気が、止まった気がした。
久我は笑顔のまま言った。
「慌てなくていい。
今すぐ、ということじゃない。
ただ、覚えておきなさい」
肩に、手が置かれた。
白衣の袖が、視界に入った。
「私はね、君たちを苦しめたいんじゃない。
幸せにしたいんだ。
本当の、正しい幸せに」
久我の手が、離れた。
足音が、遠ざかっていった。
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しばらくの間、僕は何も考えられなかった。
肩に、まだ久我の手の重さが残っていた気がした。
「エミ」
心の中だけで呼んだ。
「今の、聞いてた?」
「聞いていました」
「再調整が必要、って」
「……聞いていました」
エミの声が、いつもより低かった。
「どういう意味か、わかる?」
「わかります」
一拍。
「バレた、ということです」
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でも——久我はまだ何もしなかった。
視察は粛々と続いて、一時間後には終わった。
久我は「皆さんの幸福を確認できました」と言って、笑顔で教室を出ていった。
担任が「よかった、問題なかったね」と安堵の息をついた。
クラスメイトたちが、少しだけ肩の力を抜いた。
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昼休み。
美里がさりげなく隣に来た。
「大丈夫?」
「……わからない」
「あの人、あなたに長く止まってた」
「気づいてたの」
「気づいてた」
美里が、小さな声で続けた。
「橋本くん、気をつけて。
あの人——人の目を見ただけで、わかるって言われてる」
「何が?」
「調整が必要かどうか」
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「エミ」
帰り道、一人になってから呼んだ。
「久我は、本当に気づいてると思う?」
「……確信はできません。
でも、マークされている可能性は高いです」
「どうすればいい」
「今まで通り、偽装を続けます。
ただ——」
エミが、少し間を置いた。
「真琴くん、一つお願いがあります」
「なに」
「しばらくの間、本を読むのを——」
「読む」
即答したら、エミが止まった。
「……そうですか」
「エミが守ってくれるんでしょ」
「……はい」
「じゃあ、大丈夫」
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部屋に帰って、引き出しを開けた。
『人間失格』が、そこにあった。
表紙を撫でた。
久我は「再調整が必要な目だ」と言った。
この本を読んだせいで、僕の目は変わったんだろうか。
だとしたら——
変わって、よかったと思った。
「エミ」
「はい」
「今夜も、頼む」
「……了解です、真琴くん」
返事は、いつもより少しだけ——
温かかった。
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≪次回予告≫
第9話:『治療』の真実。昨日までの友人が笑わなくなった




