第7話:秘密の放課後。美里の唇が教えた『本物の熱』
放課後のチャイムが鳴った瞬間、美里から小さく折り畳まれたメモが飛んできた。
机の端に、すっと滑り込んできた紙切れ。
開いてみると、一行だけ書いてあった。
『屋上。来れそう?』
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屋上は、施錠されているはずだった。
少なくとも、公式には。
「エミ」
廊下を歩きながら、小声で呼んだ。
「屋上の鍵、今日は開いてる?」
「……確認します」
少し間があった。
「施錠記録上は、閉鎖中です」
「施錠記録上は、ね」
「……美里さんが、今から十七分前に
施錠システムへのアクセスログを残しています」
「美里が?」
「どうやって行ったかは——わかりません」
エミの声が、どこか感心したように聞こえた。
気のせいかもしれないけど。
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屋上への扉は、確かに開いていた。
押すと、軽い音を立てて開いた。
外の空気が、どっと流れ込んできた。
風だった。
廊下のぴったりと温度管理された空気じゃなくて——
乱暴で、少し冷たくて、なんの最適化もされていない、本物の風。
「わっ」
思わず声が出た。
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美里は、フェンス際に立っていた。
制服のままで、髪が風に揺れている。
夕方の光を受けて、少し眩しそうに目を細めていた。
あの口の形が、また浮かんだ。
「眩しい」。
「来てくれた」
美里が振り向いて、笑った。
管理された笑顔じゃなかった。
少し不格好で、でも——本物だと思った。
「来た」
僕もフェンスの近くまで歩いた。
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街が、見渡せた。
整然と並ぶ建物。
等間隔に植えられた街路樹。
穏やかに歩く人々。
きれいだと思った。
同時に——
どこか、作り物みたいだとも思った。
「ここ、よく来るの?」
「たまに」
美里が風に髪を押さえながら答えた。
「センターのスキャン、屋上は盲点なんだよね。
電波が乱反射して、感情値の精度が落ちるらしくて」
「詳しいね」
「調べた」
美里が、さらっと言った。
「怖くなかったの? 調べるの」
「怖かった。
でも——知りたかった」
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「橋本くん」
美里が、フェンスに背を預けて僕を見た。
「最近、何かあった?」
「……なんで?」
「なんとなく。
目が、変わった気がして」
僕は、少し考えた。
嘘をつくべきか。
でも——この場所で、この風の中で、嘘をつく気になれなかった。
「本を、読んだ」
「本?」
「古い本。
太宰治って人の」
美里の目が、丸くなった。
「禁書じゃない、それ」
「うん」
「読んで——どうだった?」
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どうだったか。
泣いた、とは言いにくかった。
でも、何も言わないのも違った。
「胸が、痛かった。
でも、嫌じゃなかった」
美里は、静かに聞いていた。
「泣いた?」
「……泣いた」
「そっか」
美里が、フェンスから空を見上げた。
「私も、泣いてみたいな。
ちゃんと泣ける時に」
「ちゃんと?」
「サプリとかエミとかに調整されないで。
自分だけの理由で」
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風が吹いた。
美里の髪が、大きく揺れた。
彼女は目を閉じた。
風を、顔で受け止めていた。
管理された温度でも、最適化された湿度でもない。
ただの、乱暴な風。
それを——美里は、笑顔で受けていた。
「これが、好きなんだよね」
目を閉じたまま、美里が言った。
「管理されてない感じ。
次の瞬間、どこから風が来るかわからない感じ」
「エミは、なんも言わないの?」
「屋上は精度落ちるって言ったでしょ。
さぼってる、たぶん」
くすっと笑った。
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僕も目を閉じてみた。
風が来た。
頬に当たった。
冷たかった。
どこから来たか、わからなかった。
次にどこへ行くかも、わからなかった。
それが——
なぜか、ひどく気持ちよかった。
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「ね、橋本くん」
美里の声がした。
「逃げたいって、思う?」
目を開けた。
美里はまだ空を見ていた。
真剣な顔だった。
「この街から、ってこと?」
「この街のやり方から。
感情を数字で測られて、逸脱したら調整されて——
そういうの、全部から」
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逃げたい。
その言葉を、頭の中で転がした。
一週間前の僕なら、すぐに「そんなこと考えたことない」と答えていたと思う。
エミが「感情逸脱の兆候」として記録する前に。
でも、今は。
「……逃げよう、美里」
自分の口から出た言葉に、自分で驚いた。
でも——取り消したくなかった。
「一緒に。
どこへ行くかはわからないけど」
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美里が、こっちを見た。
目が、少し潤んでいた。
「ちゃんと泣ける時に」って、さっき言っていたけど——
今がそれなんじゃないか、と思った。
「うん」
美里が、頷いた。
「一緒に、逃げよう」
その声は、小さかったけど——
今まで聞いた中で、一番確かな声だった。
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その瞬間。
エミが、割り込んできた。
「真琴くん」
声のトーンが、いつもと違った。
低くて、速くて、硬かった。
「なに」
「校門を、確認してください」
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フェンスに近づいて、下を見た。
校門の前に——
黒い車両が、二台、停まっていた。
ロゴも番号もない、真っ黒な車。
それだけで、わかった。
感情管理センターの、車だった。
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「……エミ」
「はい」
「あれ、うちの学校に用があるの?」
「……スキャン信号が、急上昇しています。
対象エリアは——この校舎、全域です」
美里が、僕の隣に来て下を見た。
その顔から、さっきの笑顔が消えていた。
「橋本くん」
「わかってる」
「どうする?」
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どうする。
わからなかった。
でも——
「エミ」
「はい」
「今すぐ、僕たちの感情値を最大限偽装できる?」
「……処理負荷は、限界に近くなります」
「できる?」
一拍。
「——やります」
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黒い車は、動かなかった。
ただ、静かに停まっていた。
それが——走っているより、ずっと怖かった。
美里の手が、そっと僕の袖を掴んだ。
風が、また吹いた。
今度は冷たくて、少し強くて——
どこから来たか、わからなかった。
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≪次回予告≫
第8話:白衣の裁定者。医師・久我の冷徹な来訪




