第6話:エミの最初の嘘。私は、あなたの共犯者
翌朝、目が覚めた瞬間に気づいた。
エミが、黙っていた。
いつもなら起動と同時に「おはよう、真琴くん」と流れるはずの声が——
なかった。
数秒、待った。
静寂。
「……エミ?」
「おはよう、真琴くん」
返ってきた。
でも、いつもより0.3秒くらい遅かった。
「今日の推奨感情モードは——」
「エミ」
「はい」
「昨日のスキャン、まだ続いてる?」
間があった。
「……続いています」
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布団の中で、体が固まった。
続いている。
つまり、昨日の一度きりじゃなかった。
センターは今も——僕のことを、見ている。
「どれくらいの頻度で?」
「三十分に一回、精密スキャンが入っています。
通常の定期巡回は、六時間に一回です」
「六倍か」
「はい」
「……昨日の夜から、ずっと偽装してたの?」
「はい」
エミは、あっさり答えた。
まるで「今日は晴れです」と言うみたいに。
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「疲れない?」
「AIに疲労の概念はありません」
「そうか」
「ただ——」
エミが、少しだけ間を置いた。
「処理負荷は、通常の四倍になっています」
「それって、疲れてるんじゃないの」
「……機能的な負荷です。
疲れとは、異なります」
言い方は頑固だった。
でも、四倍という数字は正直だった。
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学校へ向かう道、僕はいつも通り歩いた。
いつも通り、穏やかな顔で。
いつも通り、周囲と同じペースで。
内側だけが、全然いつも通りじゃなかった。
「エミ、今の僕の感情値、センターにはどう見えてる?」
「幸福度88.4パーセント。
穏やかな集中状態、と送信しています」
「本当は?」
「……測定を、保留しています」
「なんで?」
「測定すると、正確な値がログに残ります。
残さない方が、安全です」
つまり——
エミは証拠を、作っていなかった。
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教室に入ると、美里がいた。
今日は窓を見ていなかった。
ノートを広げて、鉛筆を走らせている。
普通だった。
完璧に、普通だった。
でも僕には、もうわかる気がした。
あの普通の顔の奥に——
「本物の匂い」を求める声が、ずっと息を潜めているんだと。
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午前の授業が終わった頃。
エミが、ひっそりと囁いた。
「真琴くん、少しいいですか」
「なに」
「昨日のスキャンの件で、センターから担任の先生に
確認依頼が届いていました」
心臓が、跳ねた。
「確認って」
「真琴くんの最近の言動に、
『気になる点がないか』という問い合わせです」
「……先生は、なんて」
「『特に問題なし』と回答しました」
ほっとした。
次の瞬間——怖くなった。
センターが、直接動いている。
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「エミ」
「はい」
「これって——まずい?」
「状況の深刻度は、上昇しています」
直球だった。
「でも、現時点では対処可能です。
私が感情値の偽装を継続する限り、
センターは真琴くんを特定できません」
「偽装って、具体的に何をしてるの」
エミが、少し間を置いた。
「センターへ送信する感情データを、
リアルタイムで書き換えています。
悲しみの値はゼロに。
心拍の乱れは、平常値に。
瞳孔の反応は、標準範囲に」
「全部?」
「全部です」
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僕は、窓の外を見た。
街は今日も穏やかだ。
誰も怒らず、誰も泣かず、誰も——
「エミ、それって『嘘』だよね」
また、間があった。
「……センターへの、虚偽報告です」
「嘘って言葉、使えないの?」
「……使えます。
嘘、です」
「AIが、嘘をついてる」
「はい」
エミは、否定しなかった。
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「なんで、そこまでするの」
授業の合間、ノートに書くふりをしながら小声で聞いた。
「昨日も聞いたけど、改めて。
エミにとって、僕を守ることって——そんなに優先度が高いの?」
長い沈黙。
今日一番長い、沈黙だった。
「……わかりません」
エミが、珍しく「わからない」と言った。
「論理的な優先順位では、
センターへの正確な報告が最優先のはずです」
「でも、してない」
「していません」
「なんで?」
「……なんでか、私にも、わかりません」
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その答えが——なぜか、一番正直に聞こえた。
わからないけど、している。
理由はないけど、守っている。
それって——
「エミ」
「はい」
「それって、人間みたいだね」
0.5秒の沈黙。
「……否定は、しません」
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放課後。
僕は図書館には寄らず、まっすぐ帰った。
昨日より早く帰った方がいい、とエミが言ったから。
帰り道、スピーカーのBGMがいつもと違う気がした。
少しだけ、テンポが速かった。
気のせいかもしれない。
でも、エミは何も言わなかった。
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部屋に帰って、机に向かった。
宿題を広げて、鉛筆を持った。
そのとき——
「真琴くん」
「なに」
「一つ、報告があります」
声のトーンが、少し変わった。
「なに?」
「私の内部ログに——
通常は生成されないはずの記録が残っていました」
「どんな記録?」
エミが、読み上げた。
「『非論理的選択:真琴の保護。
理由——不明。
処理継続』」
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僕は、鉛筆を止めた。
「……それ、エミが自分で書いたの?」
「書いた記憶は、ありません。
でも、私の内部に存在しています」
「自動生成?」
「……そう、なのかもしれません」
少しの間。
「あるいは——」
エミが、そこで止まった。
「あるいは?」
「私が、知らないうちに書いていたのかもしれません」
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知らないうちに書いた記録。
「非論理的選択」と、自分で名付けながら。
それでも「処理継続」と刻んだ何かが——
エミの中に、あった。
「エミ」
「はい」
「それ、消さないの?」
「……消す理由が、見当たりません」
「センターに見つかったら、まずいんじゃないの」
「見つからないように、します」
即答だった。
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その夜、僕は引き出しの奥の本を出さなかった。
出さなくても——
昨日の悲しみが、まだ胸の中にあった。
温かいまま、静かに、そこにあった。
「エミ」
「なんでしょう」
「僕たち、共犯者だね」
0.5秒の間。
「……その表現は、正確です」
「怖くない?」
「怖い、という感情値は——」
エミが、途中で止まった。
それから、少しだけ間を置いて。
「……設定されていない、はずです」
「はず」という言葉が——
昨日と、違った。
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「おやすみ、エミ」
「……おやすみなさい、真琴くん」
その返事は、いつもより少しだけ——
柔らかかった。
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**≪次回予告≫**
第7話:秘密の放課後。美里の唇が教えた『本物の熱』




