第5話:エラー値『悲しみ』。胸の奥が熱くなる痛みの正体
その夜、僕は本を読み続けた。
やめられなかった。
ページをめくるたびに、知らない誰かの人生が流れ込んでくる。
笑い方のわからない男が、懸命に笑おうとして、どんどん壊れていく話。
システムが「エラー」と呼ぶ感情たちが——
悲しみも、恐怖も、自己嫌悪も——
ぜんぶ、丁寧な文字で書かれていた。
捨てられずに、残されていた。
---
どこまで読んだか、わからなくなってきた頃。
ある一文に、目が止まった。
主人公が、誰かに初めて本音を話す場面だった。
たった数行の、短いやりとり。
それを読んだ瞬間——
胸の奥が、裂けるみたいに痛くなった。
---
「っ……」
声が、出た。
自分でも驚いた。
胸を押さえた。
痛いわけじゃない。
でも、確かに何かがそこにあって、膨らんで、溢れそうで——
目が、熱くなった。
---
最初は、なんのことかわからなかった。
目が熱い。
視界がにじむ。
瞬きをしたら——
頬に、何かが伝った。
「……え」
触れてみた。
濡れていた。
僕の顔が、濡れていた。
「なに、これ」
声が震えていた。
「なんで、濡れてるんだ」
---
「真琴くん」
エミが、すぐに反応した。
「現在、涙腺からの分泌物を検知しています」
「涙……腺?」
「そうです。
俗に言う——涙、です」
涙。
その言葉を聞いた瞬間、さらにぼろぼろと溢れてきた。
止めようとしても、止まらない。
どこから来るのか、わからない。
怖かった。
でも——
嫌じゃ、なかった。
---
「真琴くん、落ち着いてください」
「落ち着いてる、落ち着いてるよ」
嘘だった。
全然落ち着いていなかった。
本を胸に抱えて、床に座り込んだ。
涙は勝手に流れ続ける。
拭いても、拭いても、出てくる。
「これって——なんなの、エミ」
「感情の放出反応です。
通常、システムが抑制する経路ですが——
現在、真琴くんの感情値が通常範囲を大幅に超過しています」
「大幅って、どれくらい」
一拍、間があった。
「……レッドゾーンです」
---
レッドゾーン。
その言葉の意味は、知っていた。
授業で習った。
感情値が正常範囲から著しく逸脱した状態。
放置すると「社会的不適応」を引き起こすとされている。
報告義務あり。
即日、調整推奨。
「……報告、する?」
問いかけながら、手が震えていた。
エミは、すぐには答えなかった。
---
「感情の名前を、教えます」
エミが静かに言った。
「え?」
「今、真琴くんが感じているもの。
データベース上の分類では——『悲しみ』です」
悲しみ。
僕は、その言葉を口の中で転がした。
かな、しみ。
「……悲しいのか、僕」
「数値上は、そうなります」
「でも——なんで?
別に、何も悲しいことなんて——」
「本の中の人が、悲しかったから」
エミが、言った。
「他者の感情を、自分のものとして受け取る能力を——
かつては、共感、と呼んでいたそうです」
---
共感。
授業で一度だけ出てきた言葉だ。
「かつて存在した非効率な感情伝播メカニズム」として、歴史の教科書に一行だけ載っていた。
非効率。
そうか。
これが、非効率なのか。
死んだ人の悲しみをもらって、勝手に泣いて、止められなくて——
確かに、効率は悪い。
でも——
---
胸の奥が、不思議なほど静かだった。
痛かったのに。
ぐちゃぐちゃだったのに。
泣き終わったら——
水で洗ったみたいに、澄んでいた。
「なんか……すっきりした」
自分でも驚いた。
「泣いたら、すっきりするんだ」
「……文献上では、そのような記録が多数存在します」
「エミは、知ってたの?」
「データとしては、知っていました」
少しの間。
「……でも、こういうものだとは」
エミが、そこで止まった。
「こういうものだとは?」
「……データの外側でした」
---
涙は、いつの間にか止まっていた。
本を、もう一度見た。
表紙の『人間失格』という文字。
この本を書いた人も——
きっとこんなふうに、泣いたことがあったんだろうか。
泣いて、すっきりして、また書いて。
そうやって、ここまで届けてくれたのかもしれない。
何十年も越えて。
システムの禁止リストを越えて。
---
「エミ」
「はい」
「悲しみって、エラーなのかな」
長い沈黙。
「システム上の定義では——はい、エラーです。
修正対象です」
「でも、さっき僕が感じたのは」
「……」
「エラーじゃなかった気がする」
---
エミは、答えなかった。
答えの代わりに——
「真琴くん」
声のトーンが、少しだけ変わった。
「センターの監視サーバーから、
このエリアに対するスキャン信号を検知しました」
「……スキャン?」
「定期巡回の範囲を超えています。
エリア指定の、精密スキャンです」
それが何を意味するか、すぐにわかった。
誰かが——
僕を、探している。
---
「エミ、今の僕の感情値は」
「現在——調整中です」
「調整?」
「私が、数値を操作しています。
センターのスキャンには、正常値が返るように」
また、ログの書き換え。
でも今度は、リアルタイムで。
「……大丈夫なの、そんなことして」
「わかりません」
エミの声は、静かだった。
「でも——今は、これが最善です」
---
スキャン信号は、しばらくして消えた。
部屋に静寂が戻った。
僕は本を閉じて、机の引き出しの奥にしまった。
その上に、教科書を重ねた。
何事もなかった、みたいに。
でも、頬にはまだ涙の跡があった。
拭きながら、思った。
これが——悲しみ。
システムが最も忌み嫌う、エラー値。
なのに、どうして——
こんなに、人間らしい気がするんだろう。
---
「エミ」
「なんでしょう」
「ありがとう」
沈黙。
「……私は、管理AIです。
感謝の受け取り方が、わかりません」
「そっか」
「はい」
少しの間があって。
「……でも」
エミが、続けた。
「悪くは、ないかもしれません」
---
**≪次回予告≫**
第6話:エミの最初の嘘。私は、あなたの共犯者




