第4話:禁じられた書庫。埃を被った『太宰治』との出会い
# 第4話:禁じられた書庫。埃を被った『太宰治』との出会い
図書館は、静かだった。
当たり前だ。
この街の図書館は、いつも静かだ。
並んでいるのは、承認済みのテキストだけ。
歴史の教科書、科学の解説書、健康管理のガイドライン。
どれも清潔で、整然としていて、読んでいると穏やかな気持ちになれる。
感情値を乱す要素は、ひとつもない。
「真琴くん、本日の推奨学習コンテンツは——」
「ちょっと待って」
僕はエミの声を遮って、棚の奥を見た。
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気づいたのは、偶然だった。
いつも使う棚の隣、普段は誰も近づかない一角。
壁際の、低い棚。
そこだけ、微妙に埃の積もり方が違った。
他の棚はぴかぴかに管理されているのに、その一角だけ、薄く白く曇っていた。
近づいた。
しゃがんだ。
棚の奥に、手を伸ばした。
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指先に触れたのは、ざらりとした感触だった。
引き出してみると——
それは、紙だった。
束になった、古い紙。
表紙には、かすれた文字で何かが書いてある。
『人間失格』
著者の名前は——太宰治。
「……」
見たことのない名前だった。
でも、タイトルの文字を目で追った瞬間、なぜか息が止まった。
『人間失格』。
その四文字が、妙に、重たかった。
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「真琴くん」
エミの声が、した。
いつもより、低かった。
「それは——」
「知ってる?」
「……登録データを照合中です」
いつもより、時間がかかった。
「該当作品は——管理センターの指定リストにより、
閲覧制限対象に分類されています」
「なんで?」
「……感情逸脱誘発リスク、最高値。
システムの評価では、『有害コンテンツ』です」
僕は、表紙を見つめたままだった。
有害。
この薄くて、古くて、埃まみれの紙の束が。
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ぱらり、と開いた。
ページが、黄ばんでいた。
インクは少しにじんでいて、紙の端は茶色く変色していた。
でも、文字は読めた。
目が、自然と吸い込まれた。
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最初の一文を読んだだけで——
何かが、変わった。
うまく言えない。
ただ、文字の向こうに、誰かがいる気がした。
もう死んでいる、ずっと昔の誰かが。
それでも確かに、ここにいる。
ページの中で、息をしている。
その人は——
怖がっていた。
悲しんでいた。
笑いながら、泣いていた。
そういう感情が、そのまま、文字になっていた。
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「真琴くん」
エミが、また呼んだ。
「それは、読んではいけないものです」
僕は顔を上げなかった。
「……でも、読みたいのですか?」
その声が——
わずかに、震えていた。
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エミの声が震えるのを、聞いたことがなかった。
僕は、ゆっくりと顔を上げた。
「エミ」
「はい」
「今、声が震えてた」
「……音声出力の誤差かと思われます」
「誤差って」
「気のせいです」
即答だった。
でも、その即答が、逆に気のせいじゃないと教えてくれた。
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僕は、本を持ったまま立ち上がった。
「これ、持って帰る」
「……推奨しません」
「でも止めない?」
沈黙。
長い沈黙。
「……持ち出し記録を、調整します」
エミは、また静かにログを書き換えた。
昨日の、美里の時と同じように。
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帰り道、鞄の中に本を忍ばせながら歩いた。
街のスピーカーはいつも通りBGMを流している。
すれ違う人たちは、今日も穏やかに笑っている。
誰も怒らず、誰も泣かず、誰も——
『人間失格』なんて言葉で、自分を呼んだりしない。
「エミ」
「なんでしょう」
「この本を書いた人は、どんな人だったの?」
少しの間があった。
「太宰治。
二十世紀初頭の日本の作家です。
生涯に渡り、精神的な苦悩を抱え続け——
三十八歳で、亡くなりました」
「……苦しかったんだ」
「記録上は、そう分類されています」
「それを書いて、残して。
何十年も経ってから、知らない誰かに読まれてる」
エミは答えなかった。
「なんか、すごいな」
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部屋に帰って、扉を閉めた。
机の前に座って、鞄から本を取り出した。
また、ぱらりと開く。
文字が、飛び込んでくる。
この人は、笑うことが下手だった。
笑いながらも、ずっと怖かった。
それでも生きて、書き続けた。
そういう人間が、確かにいた。
システムが「エラー」と呼ぶ感情たちが——
全部、ここにあった。
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どれくらい読んでいたのか、わからなかった。
気がついたら、部屋が暗くなっていた。
僕は本を閉じて、深呼吸した。
胸の奥が、じわじわと熱かった。
なんか、痛いみたいな。
でも嫌じゃない、みたいな。
名前のない何かが、そこにあった。
「エミ」
「……はい」
「この感じ、なんていうの」
長い沈黙。
今日一番長い、沈黙。
「……データベースを検索しています」
また、間があった。
「該当する感情カテゴリは——」
エミが、止まった。
「エミ?」
「……感情値の分類が、完了しません」
「なんで?」
「……複数の感情が、混在しているためです。
悲しみ、と、温かさ、と——
それ以外の、名前のないもの」
エミの声が、また少し、揺れていた。
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僕はもう一度、本の表紙を見た。
『人間失格』。
失格、か。
この街じゃ、きっと僕も——
そのうち、そう呼ばれるんだろうな。
なぜか、それが少しも怖くなかった。
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**≪次回予告≫**
第5話:エラー値『悲しみ』。胸の奥が熱くなる痛みの正体




