第3話:給食サプリ。彼女が求めた『強烈な匂い』
昼のチャイムが鳴ると、クラス中の生徒が一斉に机の引き出しを開けた。
取り出すのは、全員同じ。
白い小瓶。
一日三粒の、栄養補給サプリ。
無味無臭。
飲み込むと、五秒以内に満足感がじわっと広がる。
空腹感は消えて、必要な栄養素はすべて摂取完了。
効率的で、清潔で、完璧な食事。
「真琴くん、本日の昼食サプリの時間です。
飲み忘れにご注意ください」
「わかってる」
僕は小瓶を開けて、白い粒を三つ、手のひらに乗せた。
◇
飲もうとした、その瞬間。
「ね、橋本くん」
声がした。
隣から。
美里だった。
彼女はサプリの小瓶を手に持ったまま、僕の方をまっすぐ見ていた。
声は小さくて、他の席まで届かないくらいの音量だった。
「……なに?」
「本物の食べ物の匂い、知ってる?」
◇
教室の中は、静かだった。
みんなサプリを飲んで、それぞれ自習を始めたり、穏やかに話したりしている。
誰も、こっちを見ていない。
それでも美里は、声をひそめたまま続けた。
「カレーとか、焼き魚とか。
あんな、強烈な匂いのするもの。
昔の人たちって、毎日食べてたんだよね」
「……そうみたいだね」
「食べたいと思う?」
僕は、少し考えた。
「……わからない。
食べたことないから」
「そっか」
美里は小さく笑って、サプリを一粒、口に放り込んだ。
飲み込んで、目を閉じる。
その顔が、一瞬だけ——
なにかを押し込めるみたいに、見えた。
◇
「真琴くん」
エミが、低い声で割り込んできた。
「鷹森さんの発言に、軽微な逸脱傾向を検知しました。
接触を続けますか?」
「続ける」
即答したら、エミが一拍置いた。
「……了解です」
今日のエミは、0.5秒も待たなかった。
昨日より少し、速くなっていた。
◇
「美里さん」
僕は、初めて名前で呼んだ。
美里が、少し目を丸くした。
「……なに、橋本くん」
「食べたいんだ、本物の食べ物」
断言じゃなくて、確認するみたいな言い方になった。
美里は、また小さく笑った。
でも今度の笑顔は、さっきと違った。
どこか、ほっとしたみたいな。
「うん」
たった一言。
でもその「うん」が、なんか重たかった。
◇
「ずっと思ってた」
美里が続けた。
「サプリ飲んだら満足感は来るんだけど、なんか……足りないんだよね。
胃は満たされてるのに、どこかがずっと、空っぽのまま」
「それって、エミに報告した?」
「したよ。
『栄養素は充足しています。心理的空腹感はシステムが調整します』って言われた」
「……調整されたの?」
「うん」
美里はサプリの小瓶を机の上でくるくると回した。
「でも、また翌日には空腹感が戻ってくる。
なんか、そのたびに調整されると……もう、言うのが嫌になってきて」
◇
僕は、黙って聞いていた。
美里の話は、静かで、穏やかで、でも確実に「逸脱」していた。
エミが定義する正常値から、少しずつ、はみ出していた。
それがなぜか——
怖くなかった。
「橋本くんは、どこか足りないって感じ、ある?」
「あるかもしれない」
正直に答えたら、美里が少し驚いた顔をした。
「そう答える人、初めてだった」
「みんな、ないって言うの?」
「みんな、『サプリで充足しています』って言う。
まるでエミの口調でさ」
美里がくすっと笑った。
その笑い声は、教室に流れるBGMとは全然違う、雑音みたいな音だった。
なのに、妙に耳に残った。
◇
気がついたら、美里の手がそっとこちらに伸びていた。
躊躇いがちに。
でも確かに。
机の端で、彼女の指先が僕の手のひらに触れた。
一瞬のことだった。
でも確かに——温かかった。
◇
その瞬間。
街の公共スピーカーが、鳴った。
いつものBGMじゃない。
低くて、単調な、チャイム音。
教室中の生徒が、反射的に顔を上げた。
チャイムは三回繰り返されて、それから止んだ。
静寂。
「……なに、今の?」
誰かが呟いた。
「定期点検のアナウンスではないでしょうか」
誰かが答えた。
教室の空気は、すぐに元に戻った。
みんな、また下を向いて自習を再開した。
◇
美里は、いつの間にか手を引いていた。
目線を教科書に落として、何事もなかったように鉛筆を走らせている。
僕だけが、まだ手のひらの温もりを感じていた。
「真琴くん」
エミが囁いた。
「今のチャイムは、通常のスケジュールにはないものです」
「……知ってる」
「記録しておきますか?」
僕は少しだけ考えて、答えた。
「しといて」
「了解です」
エミは、それ以上何も言わなかった。
◇
放課後。
美里はいつも通り、友達と帰っていった。
振り返りもしなかった。
でも、靴箱のところで一度だけ——
窓の外を見た。
そして、また「眩しい」って言う口の形をした。
昨日と同じ。
でも今日は、なんだか少し違って見えた。
空腹のまま、笑っていた彼女が——
今日だけは、少しだけ、口角が上がっていた。
◇
夜、手のひらを眺めながら、僕はエミに聞いた。
「今日のチャイム、調べてみた?」
「調べました。
管理センターの内部記録には、該当するイベントログがありません」
「……ないって、どういうこと?」
「記録されていない、ということです」
エミの声は、静かだった。
「存在しないことになっているのか、
意図的に消されているのかは——
私には、判断できません」
窓の外、夜の街は今日も穏やかだった。
誰も怒らず、誰も泣かず、誰も叫ばない。
幸福度97パーセントの世界。
なのに僕の手のひらには、まだ——
説明のつかない温かさが、残っていた。
◇
≪次回予告≫
第4話:禁じられた書庫。埃を被った『太宰治』との出会い




