第2話:AIエミの沈黙。0.5秒の報告遅延
翌朝も、エミの声で目が覚めた。
「おはよう、真琴くん。
今日の推奨感情モードは、『穏やかな集中』です」
昨日と、まったく同じ言葉。
当たり前だ。
エミは毎朝そう言うし、僕は毎朝それを聞く。
この街では、朝はいつも同じように始まる。
でも僕は、布団の中で少しだけ迷った。
昨日の美里の横顔が、まだ胸に引っかかっていたから。
◇
学校に着いて、席についた。
美里はもういた。
教科書を開いて、ノートを取っている。
今日は空を見ていない。
どこにでもいる、普通の女子生徒。
僕はそれを確認して、なぜかほっとした。
同時に、なぜほっとしたのかが、よくわからなかった。
「真琴くん」
エミが静かに割り込んできた。
「昨日の鷹森美里さんの行動について、一点ご報告があります」
僕の心臓が、少しだけ跳ねた。
「……何?」
「昨日12時43分、彼女の視線が窓外に逸脱。
発話記録に『眩しい』という感情表現を検知しました。
この件、センターの管理サーバーへ——」
「待って」
◇
自分でも、なぜそう言ったのかわからなかった。
でも、口から出ていた。
「待って」という言葉が。
エミが、止まった。
正確には、エミの音声が途切れた。
0.5秒ほど、静寂があった。
たった0.5秒。
でもそれは、いつものエミにはありえない間だった。
「……」
「エミ?」
「……処理中です」
また、沈黙。
今度は1秒。
◇
「真琴くん」
エミの声が、戻ってきた。
「確認させてください。
あなたは、鷹森美里さんの報告を止めたいのですか?」
「……そう、なのかな」
僕は、自分の言葉を確かめるように繰り返した。
「そう、なのかもしれない」
「理由は?」
「理由は……」
窓の外、空は今日も晴れている。
雲ひとつない、管理された青。
「なんか、密告みたいで、嫌だから」
エミは、すぐには答えなかった。
◇
ホームルームが始まった。
先生が今日の日程を読み上げる。
クラスメイトたちは静かにそれを聞く。
僕はずっと、エミの返事を待っていた。
5分が経って、10分が経って。
授業が始まってもまだ、エミは黙っていた。
そしてようやく——
「真琴くん」
エミが口を開いた。
「報告対象外、と判断しました」
「……え?」
「鷹森美里さんの昨日のログは、
『誤検知の可能性あり』として、再分類します。
センターへの送信は、行いません」
僕は、息をのんだ。
「それって……」
「ログの更新が完了しました」
エミの声は、淡々としていた。
まるで天気を読み上げるみたいに。
でもその言葉の意味は、淡々じゃなかった。
◇
「エミ」
「はい」
「今、自分でログを書き換えたの?」
「……再分類、です」
「同じことだよ」
「そうですね」
少しの間があった。
「なぜ、そうしたの?」
また、0.5秒の沈黙。
エミはゆっくりと、こう言った。
「……私は、あなたの管理AIですから。
あなたが『待って』と言った。
だから、待ちました」
「それだけ?」
「……それだけ、です」
◇
放課後。
僕は帰り道を一人で歩きながら、さっきの会話を反芻していた。
エミは嘘をついた。
いや、正確には——ログを書き換えた。
感情センターへの報告を、握りつぶした。
管理AIが、管理システムに対して。
それが何を意味するか、十七年間この街で育った僕にはわかる。
それは、あってはならないことのはずだった。
「エミ」
「はい」
「怖くないの?」
また、間があった。
今度は長かった。
「……怖い、という感情値は、私には設定されていません」
「じゃあ、なんで0.5秒も止まったの」
エミは、答えなかった。
でも今度の沈黙は、昼間のものとは少し違った気がした。
◇
夜、窓から空を見上げた。
今日も星は見えない。
光害なのか、それとも管理された夜空なのか、僕には判断できない。
「エミ」
「なんでしょう」
「明日も、美里のこと……黙っといてくれる?」
今度の沈黙は、0.5秒より短かった。
「——私は、あなたの味方ですから」
それだけ言って、エミは静かになった。
「味方」という言葉を、エミが使うのを聞いたのは、初めてだった。
プログラムにそんな言葉、あったんだろうか。
それとも、エミが自分で選んだんだろうか。
僕にはわからなかった。
ただ——
幸福度が、今日初めて90パーセントを超えた気がした。
サプリなしで。
◇
≪次回予告≫
第3話:給食サプリ。彼女が求めた『強烈な匂い』




