第1話:幸福度85.2%の朝。隣の席の彼女は『バグ』を抱えていた
朝は、いつも同じ声で始まる。
「おはよう、真琴くん。
今日の推奨感情モードは、『穏やかな集中』です」
耳の奥から、やわらかく響くアナウンス。
右のこめかみに埋め込まれた小さなチップ——脳内インプラントAI『エミ』が、毎朝欠かさず僕の感情値を整えてくれる。
起き上がる。
カーテンを開けると、空は今日も澄んでいた。
雲ひとつない。
風もちょうどいい。
この街は、天気すらも最適化されている。
「現在の幸福度、85.2パーセント。
目標値の90パーセントまで、4.8ポイントです。
朝食後のサプリ摂取で、達成見込みです」
「……わかった」
僕は短く返事をして、洗面台の鏡を見た。
橋本真琴、十七歳。
特に不満はない。
毎日が穏やかで、退屈じゃなくて、でも騒がしすぎもしない。
完璧な日常、というやつだ。
◇
学校へ向かう道も、いつも通りだった。
街の公共スピーカーからは、ゆったりとしたBGMが流れている。
すれ違う人たちは皆、穏やかな笑顔をしている。
誰も怒鳴らないし、泣かないし、わけもなく笑い転げたりもしない。
整然としていて、清潔で、美しい。
「真琴くん、歩行ペースが0.3パーセント速いです。
焦りの予兆でしょうか?」
「焦ってないよ」
「ログには記録しません。
では、推奨BGMを変更します。
『穏やかな朝』モードへ」
僕の鼓膜の奥で、ゆるやかな音楽が変わった。
便利だな、と思う。
不満はない。
本当に、何一つ、不満はないはずだった。
◇
教室に入ると、いつもの光景が広がっていた。
みんな、席に座って静かに自習している。
ひそひそ話すクラスメイトも、眠そうにあくびをする子も、いない。
最適化された集中。
僕も席についた。
そして、何気なく——
窓の外を見た。
隣の席の彼女が、空を見上げていた。
◇
鷹森美里。
成績は優秀、幸福度は常に安定圏内、エミの評価も「模範的」とされている女子。
クラスで誰とでも普通に話すし、特に目立つわけでもない。
そんな彼女が、今。
ノートも開かずに、ただじっと、空を見つめていた。
唇が、わずかに動く。
声は聞こえなかった。
でも、口の形だけは、はっきり読めた。
「……眩しい」
たった、それだけの言葉。
なのに、僕の胸が——
---「真琴くん」
エミの声が、すっと入ってきた。
「ただいまの心拍数、平常値から0.1パーセント逸脱しています。
理由を確認してもよいですか?」
僕は、答えられなかった。
美里はもう、何事もなかったように視線を落として、教科書を開いていた。
さっきまでの横顔が、嘘みたいに消えている。
「……理由は、わからない」
「そうですか。
では、感情安定サプリの服用を推奨します。
逸脱値は些細なものですが、早めの対処が——」
「エミ」
「はい?」
僕は窓の外を一度だけ見て、それから目を閉じた。
「今のって、何パーセントのバグだったんだろうな」
しばらく、沈黙があった。
「……幸福度85.2パーセントです。
正常範囲内ですよ、真琴くん」
それは、答えになっていなかった。
でもエミは、それ以上何も言わなかった。
◇
その日の授業はいつも通り進んで、給食のサプリを飲んで、放課後になった。
美里は、ずっと普通だった。
笑顔で友達と話して、先生に礼儀正しく返事をして、帰り支度をしていた。
ただ一度だけ。
廊下ですれ違った瞬間、彼女がちらりと、空のほうを見た。
本当に、一瞬だけ。
「眩しい」って、呟いた口の形で。
◇
「エミ」
帰り道、僕はこっそり話しかけた。
「なに?」
「今日さ、授業中に美里が——」
「記録しています」
エミの返事が、珍しく早かった。
それから、また静かになった。
「……報告、しないの?」
少しだけ、間があった。
「……」
「エミ?」
「問題のある逸脱値は、検知されませんでした」
その声は、いつもと同じ、穏やかなトーンだった。
でも。
なぜか僕は、今日初めて「エミの声」を、ちゃんと聞いた気がした。
◇
夜、布団の中で天井を見上げながら、僕は考えた。
「眩しい」って、感情値で言ったら何パーセントなんだろう。
エミは教えてくれなかった。
幸福度85.2パーセント。
今日もそれは、達成された。
なのに、なぜか。
胸の真ん中のあたりが、4.8パーセント分、ざわざわしたままだった。
◇
≪次回予告≫
第2話:AIエミの沈黙。0.5秒の報告遅延




