第9話:『治療』の真実。昨日までの友人が笑わなくなった
久我が来た翌朝のことだった。
教室に入ると、一つだけ空席があった。
窓際の、三列目。
田中浩二の席だった。
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田中は、目立つやつだった。
目立つ、といっても——この街の基準では、という話だ。
笑い方が少し大きくて、授業中に独り言を言って、昼休みに窓の外をぼんやり見ていることがある。
エミの評価では「軽微な逸脱傾向、経過観察中」だったはずだ。
でも、悪いやつじゃなかった。
というか——
たぶん、普通のやつだった。
この街の「普通」じゃない、本当の意味での。
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「エミ」
「はい」
「田中が来てない」
「……登校記録に、該当がありません」
「昨日、久我が来た後——何かあった?」
少しの間があった。
「昨日の放課後、田中浩二くんの自宅に
センターの車両が訪問した記録があります」
「……連行された?」
「正式には——任意同行、です」
「任意って、断れるの?」
「……記録上は、断れます」
「記録上は」という言葉の意味を、
僕はもう、ちゃんと理解できるようになっていた。
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午前中の授業は、何事もなく進んだ。
誰も田中の話をしなかった。
先生も、空席について何も言わなかった。
クラスメイトたちは、穏やかな顔で教科書を読んでいた。
美里だけが、一度だけちらりと空席を見た。
それだけだった。
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昼休みが終わって、五時間目が始まろうとした頃。
教室の扉が、開いた。
「失礼します。
出席します」
田中の声だった。
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僕は、顔を上げた。
田中が、そこにいた。
制服は乱れていない。
髪もきれいに整っている。
表情も——穏やかだった。
穏やかで、柔らかくて、どこか——
見覚えのある笑顔だった。
昨日、久我がしていた笑顔と、似ていた。
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「田中くん、着席してください」
先生が言った。
「はい」
田中は、まっすぐ自分の席に歩いていった。
椅子を引いて、座って、教科書を開いた。
何も、おかしくなかった。
何も——
おかしく、なかった。
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授業が始まった。
先生が黒板に数式を書いた。
クラスメイトがノートを取った。
田中も、ノートを取っていた。
丁寧に、正確に、一文字ずつ。
いつもの田中なら、ここで独り言を言う。
「なんでこんな計算するんだろ」とか、
「腹減ったな」とか、
そういう小さな、システムが「軽微な逸脱」と記録するような言葉を。
言わなかった。
ただ、書いていた。
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「エミ」
心の中で呼んだ。
「田中の感情値、今どうなってる?」
「……幸福度、91.3パーセント。
完全正常値です」
「昨日まで、何パーセントだったの」
「平均、78パーセント。
逸脱傾向による変動あり」
78から91。
一晩で、13ポイント上がった。
「それって——」
「調整、です」
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休み時間になった。
隣の席のやつが田中に話しかけた。
「田中、昨日どうしたの?」
「ちょっと体調が悪くて」
田中が、にっこりと笑って答えた。
「もう大丈夫。
おかげさまで、すっきりしました」
「そっか、よかった」
会話が終わった。
それだけだった。
田中は、また静かに前を向いた。
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放課後。
僕は田中に話しかけた。
自分でも、なぜそうしたのかわからなかった。
でも、足が勝手に動いた。
「田中」
「あ、橋本。何?」
田中が振り返った。
笑顔だった。
穏やかな、完璧な笑顔。
「昨日……大丈夫だった?」
「うん、全然。
ちょっと体調崩しただけだよ」
「そっか。
あの——センターに行ったって聞いて」
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田中の顔が、少しだけ動いた。
ほんの一瞬。
なにかが、横切った気がした。
でも——すぐに消えた。
「センター?
いや、行ってないよ。
家で休んでた」
「……そう」
「うん」
田中が、また笑った。
完璧な笑顔だった。
僕は、もうそれ以上聞けなかった。
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「橋本もちゃんと休んでね。
体が資本だから」
田中が言って、鞄を持って歩いていった。
その背中を、僕は見ていた。
背筋が、まっすぐだった。
いつもの田中は、少し猫背だったのに。
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「エミ」
廊下に一人残って、呼んだ。
「見てた?」
「……見ていました」
「田中は、センターに行ってないって言った」
「はい」
「嘘だよね」
「……記録上は、訪問が確認されています」
訪問が確認されている。
でも田中は覚えていない。
あるいは——
覚えていても、言えなくなっている。
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胸の奥で、何かが燃え始めた。
悲しみとは、違った。
もっと熱くて、鋭くて——
じっとしていられない何かが。
「エミ、これって——」
「真琴くん」
エミが、素早く割り込んできた。
「今の感情値、急上昇しています」
「わかってる」
「怒り、の値が——レッドゾーンに近づいています」
「わかってる」
「偽装が——」
「わかってる!」
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声が、出た。
廊下に響いた。
近くにいた生徒が、ちらりとこちらを見た。
僕は、深呼吸した。
笑顔を作った。
何でもない顔を。
生徒が、前を向いた。
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「真琴くん」
エミの声が、低くなった。
「視界を、少し調整させてください」
「何を——」
次の瞬間、視界の端が、わずかにぼやけた。
田中の背中が、滲んだ。
「エミ、何してるの」
「見ないで」
エミが、静かに言った。
「真琴、あなたが壊れてしまう」
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「真琴」と呼んだ。
「真琴くん」じゃなくて。
初めてだった。
エミが、「くん」をつけなかったのは。
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視界のぼやけが、少しずつ晴れた。
田中の背中は、もう廊下の向こうに消えていた。
代わりに——
胸の奥の、熱いものが、まだそこにあった。
怒り。
それが、怒りだと——今度は、すぐにわかった。
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「エミ」
「はい」
「田中は、元に戻らないの?」
沈黙。
「……調整は、完全に行われています。
自然に戻ることは——難しいと思われます」
「難しい、って」
「ほぼ、ない、ということです」
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ほぼ、ない。
笑い方が少し大きくて、
独り言を言って、
窓の外をぼんやり見ていた田中が。
一晩で。
消えた。
「それが——『治療』なんだ」
「センターの定義では、そうなります」
「……おかしい」
「はい」
エミは、即座に答えた。
その「はい」には——何かが、込められていた気がした。
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帰り道、ずっと田中の笑顔を思い出していた。
穏やかで、完璧で、何も逸脱していない笑顔。
久我が「これが本物の幸せだ」と言いそうな、笑顔。
でも——
あの背中を見ていたら、泣きそうになった。
怒りと、悲しみが、ぐちゃぐちゃに混ざって。
どっちが先かわからなかった。
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「エミ」
「なんでしょう」
「さっき——『真琴』って呼んだね」
間があった。
「……そうでしたか」
「くん、がなかった」
「……誤作動です」
「本当に?」
長い沈黙。
「……わかりません」
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夜、窓から街を見た。
穏やかな街。
整然とした街。
誰も怒らず、誰も泣かない街。
田中も、今頃——
穏やかに笑って、ごはんを食べているんだろうか。
サプリを、何も感じずに飲んでいるんだろうか。
「エミ」
「はい」
「僕は、調整されたくない」
「……はい」
「絶対に」
「——わかっています」
その返事は、静かだったけど。
誰よりも、確かだった。
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≪次回予告≫
第10話:久我の執着。完璧な管理こそが至高の愛




