76:置いてきたもの
その日の夜、いつものようにイサクがリオンの部屋に訪れていた。
「昼間は随分と賑やかだったようで」
「ふふっ厨房の方々を驚かせてしまったみたいで。失礼しました」
「いや、マルシアも喜んでいたよ。……これか?作っていたのは」
そうイサクがテーブルの上に置いたクッキーを一つ取った。
「ええ。よければ食べてみてください。昔、人から教えていただいた、私の知っている唯一のレシピです」
そう言うとイサクはクッキーを口に放りこんだ。
「なかなか、面白いなこれは。ハーブの爽やかさとクッキーの甘さが、美味い」
その言葉にリオンは思わず笑顔が溢れた。
「……初めてだな」
イサクが先ほどクッキーを口にした時の綻んだ顔から急に真面目な顔になり、リオンは何がだと思い首を傾げる。
「ここにくる前のことで、リオンが自らやったのは、初めてじゃないか?本は…俺が準備したものだし」
その言葉に、答える言葉が見つからなかった。
いつもなら、そうでしたっけ?とでも簡単に誤魔化せていたはずなのに言葉が喉で詰まった。
そして自分の気が少し緩んでいたことに後悔した。
あのハーブを見てこれを焼こうだなんてここに来たばかりなら思わなかったはずだ。
口にする言葉を探し、目を彷徨わせているとイサクが話し始めた。
「この作り方を教えたのは、誰だ?」
「さぁ、誰でしょうね」
ほのかに笑ったつもりではあるが、実際にどうだったかはわからない。
「リオン」
イサクに名前を呼ばれ彼の瞳へと視線を移す。
「誰だ?」
「誰でも、良いじゃないですか。これが美味しければ、それで」
急な問い詰めに思わず冷めた笑顔でイサクに返す。
教えたのが誰であろうと、イサクには関係のないことだ。それにリオンはその人の名前を口にすることなんてできなかった。
「リオン、もう、やめないか?」
その言葉に思わず立ち上がる。
「やめるも何も、ないですよ」
いつものように柔らかな笑みを浮かべリオンは言った。
けれどもその言葉にイサクはじっとリオンを見続けた。
何か、リオンの心の内を探るかのような視線をリオンに当てながら。
そして、そっと口を開いた。
「……学校の寮で一緒だった娘の、貿易会社があるようだな。こちらでも最近商売を始めるようで」
サラのことだと一瞬でわかり思わず目を見開いた。学校でのことは魔術のことならイサクに話したことはあるが、友人のことは一言も話したことがなかった。
「その会社を通じて、娘から、聞いたよ。もちろん直接ではないけどな。4人で仲良くしていた、と」
「人の過去をあれこれ探るのはあまり良い趣味とは思えませんね」
落ち着けと自分に言い聞かせながら困った笑顔をイサクに向けた。
「……その娘と騎士団にいる男は恋仲のようだから」
「やめてください…」
「もう1人、か?」
「やめて!」
思わず声を荒げてしまう。
「……そんなこと探ったって、なんになるんですか…?私はもう、全部置いてきたんです。取り戻すことなんてできないんです。私が、置いてきたんだから…」
イサクに向かって掠れた声で言い放ったものの、実際は自分に言い聞かせるものだった。
胸が疼いた。
ずっと言葉にしないでいたものたちをイサクに言葉にされたことで何かが溢れ出しそうな感覚に陥り、なんとか蓋をしようとするがそれは止まることを知らなかった。
肩にも握りしめた手にも力が入り、きっと眉根もよっていただろう。
どんどん呼吸が荒くなっていく。
ぽつり、と脳裏に浮かんだ図書室。
そっと目を瞑り、小さく首を横に振る。
目を開き、イサクを見るが彼は何も言わずにリオンを見ていた。
「……置いて、きたの…」
自分の言ったはずの言葉が、他人事のような響きで耳に届く。
「あの、場所に」
目の前に、あの小さな広場が広がった。
もう、何も見たくない。
そう思ってまた目を瞑った。
なのに走馬灯のように頭の中を過ぎ去ったのは、あの人が隣にいた、あの日々のことだった。
「…やめて…」
置いて来たはずだった。
けれども、それは置いて来れてなどなかったのかと思うほどに鮮明で、温かくて、けれども冷え切っていて、襲いかかるようにリオンの前に現れた。
「少しだけ、妬けるな。リオンのことをこんな風にできる人間がいるなんて」
そう言ってイサクは泣き崩れたリオンの頭をそっと撫でた。




