35:狐と口付け
旅行から戻った私は、菖蒲の部屋で彼と話をしていた。
菖蒲の部屋の棚には、お土産に買った地酒が早速並べられている。
「思ったよりも、ショックは受けていないんです。両親のことも。彼等は、私に対する態度を今までと変えていた訳ではなかった。改めて、彼等のことを再認識しただけです。駄目ですね、離れているとつい相手のことを美化してしまって」
旅行先に、突然現れた両親。
彼等に会って驚きこそしたものの、それ以上の感情はない。
酷く心を傷つけられるようなあの感覚は、狭間に来る以前と同じもの。
却って懐かしい。
菖蒲には心配しないようにと告げたのに、彼は同情するような顔つきで私の髪を撫でてくる。
「でも、今の私がこうして平気でいられるのも、きっと菖蒲のおかげですね。何があっても菖蒲が私の味方でいてくれると思うと、とても強くなれたような気になるんです。菖蒲は、ありのままの私を肯定してくれるから」
彼に逢うまで、私は周囲から否定され続けてきた。
ずっと、消えてしまいたかった。
そんな私を引き止めたくれたのは、菖蒲だけ——
「だから、私は大丈夫。寧ろ、人間の世界への情が完全に消え失せましたよ。それよりも、とんだ新婚旅行になってしまってごめんなさい」
「薊が謝ることはない。私なら、楽しかったよ? 色々あったけれど、薊のことがまた一つ知れた」
そういえば、躑躅はあの後どうしたのだろう……
私の不甲斐なさに失望して、早く他を当たってくれればいいと思う。私以上に素敵な女なんて、ごまんといるのだから。
「ねえ、薊」
「なんですか、菖蒲」
耳に心地良い声に、ゆっくりとそちらを向くと、思いがけず近くに菖蒲の整った顔があった。
思わず仰け反った私の頭を、菖蒲が優しくそして有無を言わせず引き寄せる。
「今日から、一緒の部屋で寝ない?」
「へ?」
突然の菖蒲の提案に、私は瞬きしながら聞き返す。
「だから、これからは寝室を共にしない? っていうお誘いなのだけれど……」
「ええっ?」
彼の意図を察した私は、耳まで真っ赤になった。なんたる不意打ち!
「いきなり薊をどうこうしたりなんてしない。ただ、少しでも早く薊が慣れてくれればと思って……」
「でも、それは」
「ああいったことが、薊のトラウマになっているのは分かっているつもり。だからこそ、それを塗り替えてしまいたい……そう思ってしまうんだ。身勝手でごめんね。無理にとは言わないから」
まだ薊には早かったね、と菖蒲は長い睫毛を伏せた。
「いいですよ」
そう返した私の言葉に、今度は菖蒲が聞き返す。
「へ?」
「だから、菖蒲と一緒に眠ってもいいですよ。一緒に眠ったことは、今までにもありますし」
「いいの?」
「はい。私も、このままでは嫌です」
過去のことをいつまでも未練たらしく根に持って、先へ進めないなんて。
その上、菖蒲に心配をかけて、いちいち気を使わせてしまうなんて。
「急には無理だと思います。でも、少しずつ菖蒲に歩み寄れるようになりたいんです。頑張りたいって言うのはちょっと大げさですけれど、その……」
「ありがとう、薊。私の我が儘を聞いてくれて」
「我が儘だなんて! そんなことはありえません!」
きっと、普通の夫婦ならこんなことで躓かない。彼に我慢をさせているのは、私だ。
これは、私が乗り越えなければならない問題なのである。
これからは、椎になんて負けたくない——
※
寝室を共にすることに同意した直後、私の部屋が移動されていた。またもや、天狐マジックだ。
新しい私の部屋には窓も庭もあり、場所も菖蒲の部屋の近くである。
庭には、春の可愛らしい花々が植えられていた。庭の隅のスズランが、白くて小さな花を風に揺らしている。
部屋の中には、可愛らしい家具が並んでいた。これって、柊の趣味じゃ……
もしかして、この部屋、結構前から準備されていたの?
「部屋、気に入った?」
入口の方から、ひょっこりと菖蒲が顔を出す。
「はい」
「隣の部屋が寝室。寝室を挟んで向こう側が私の部屋だよ」
二人の部屋は、寝室を間に挟んで繋がっている。ちょっと、ドキドキした。
寝室で無造作に寝転んでみると、無機質な木の天井が見えた。
菖蒲の部屋と繋がっている所為だろうか。なんだか酷く安心出来る。
何を思ったのか、私につられて菖蒲も隣に寝転ぶ。まだ、布団は敷いていない状態だ。
「薊……」
伸ばされた菖蒲の両腕に抱きすくめられる。
紺色の着物の袖口から覗く白い菖蒲の手が、私の頬を撫でた。そのまま、顔を菖蒲の方へと向けられる。
ゆっくりと近づいてきた菖蒲が、私に口付ける。それは、旅館で彼にされたような深いものだった。
「ん、菖蒲……」
「口付けは平気?」
「平気、です……深いのはちょっと緊張しますけど」
私がそう言うと、菖蒲は嬉しそうに微笑んだ。金色の目は妖しく細められ、彼の艶やかさが一層増していく。
「なら、少しずつ慣らしていこう。大丈夫だよ、薊の憂いは私が全部絶ってあげるからね」
今日の菖蒲は積極的だ。
静かな部屋の中、私と彼の着物がこすれ合う音だけが響いていた。




