34:鴉と取引!(菖蒲視点)
「さよなら」
元家族にそう告げた薊の声は、淡々としたものだった。
未練も、悲しみも、冷たさすら感じられない。
完全に過去のものを見る目で両親らを一瞥すると、薊は迷いなく狭間へ足を踏み入れたのだった。
※
「すみません、山で迷っていたらこの場所に出ちゃって」
初めて薊に会った瞬間に、私は悟った。
そう告げた少女が、自分にとって生涯にただ一人の「嫁」であると――
真っ赤な、雲一つない茜空から降り注ぐ雨が、それが正しいということを示している。
けれど……
薊と出会った当初の私は、彼女を帰してやるつもりだった。
黒狐の嫁……それが、何を意味するものなのかを分かっていたから……
一生を狭間の境目に縛られる、哀れな生贄。
先々代の黒狐の嫁は、夫である黒狐に殺されていた。
その前の嫁は、自殺したらしい。
自分がこの娘を、過去の黒狐の嫁達と同じ目に遭わせてしまうかもしれないと考えると、素直に喜べない。
どうしようもなく嫁に惹かれる気持ちを押さえつけて、私は言った。
「元の場所に返そうか?」
言ったのに……
薊は、そんな私に向かって「帰らない」と告げた。
止めたのに、彼女に逃げ道を用意したのに……
全ては無意味だった。
しかも、黒狐の嫁になる前に自殺する気のようだ。
狭間に残ると言ったのは、薊の意思である。
残してもいい筈だ。だって彼女がそう言った。
それに……このまま帰せば、彼女はきっと一人で死んでしまうだろう。
大切な愛おしい自分の嫁が、この世から消えてしまう。
そんな現実は耐えられない。
だから、私は薊を捕まえた。
彼女が消えてしまう前に、捕まえて、閉じ込めて……
そうして気が付けば、薊を逃がしてやる気はとっくに失せていた。
私は、多くの天狐が伴侶にそうするように、薊に自分の寿命を分け与えた。
出来る限り、大事に大事に彼女を扱った。
それでも、薊は隙あらば死のうとしていたけれど……
そんな中で、甘え下手な薊は、徐々にだが私に懐いていった。
八重葎薊——
十六歳、独身。両親と妹が一人いる。
身分は学生だが、学校には通っていない。
薄が持って来た薊の情報は、あまりにも少なかった。
通常、天狐が他種族から嫁を貰う際には、予め相手の身辺調査をする。
途中で結婚が破綻するのを防ぐためだ。
「なんで、こんなに薊の情報が少ないの?」
「お前の嫁が実家から出なかったからだ。薊は、他人との接触が極端に少ない」
「他には?」
「……あるにはあるが、お前には聞かせたくない内容だ」
「そんなことを言われると、余計に気になるんだけど」
「人間の世界で、薊の失踪事件が大々的に報道されている。失踪の内容より、薊個人の性癖についてだが……ガセ丸出しの情報が飛び交っていた」
「どういうこと?」
「失踪前に薊が同級生を誘惑したとか。それも、服を脱いで……」
その言葉を聞いた瞬間、頭に血が上った私は叫んでいた。
「薊がそんなことをするわけがないだろう! 薄、お前はその情報を信じるの!?」
私の言葉に、薄は真面目な顔で口を開く。
「人間の発信する情報は、嘘も多いからな。でも、薊が人間の世界で、こういう風に言われているってのは事実だ。薊が自殺に走ろうとしたのも、この辺りが関係しているかもな」
「くだらない話を広めて私の薊を貶めた奴を、全員縊り殺してやる……」
「やめろ。菖蒲が言うと洒落にならないから」
洒落にする気なんてない。確実に仕留めるつもりだ。
目を離すと、薊はすぐに自殺に走るようなことをする。
けれど、彼女は純粋でまっすぐな性格だった。近くで接しているとよく分かる。
他人を誘惑するなんて、薊に出来るわけがないのだ。
薄と話し始めてしばらくすると、不意に結界が揺らいだ。
この家では、薊が結界から抜け出そうとすると、私に分かるようになっているのだ。
けれど……いつもとは様子が違う。
薊は、全速力で何度も何度も結界を突っ切ろうとしていた。
この頃は、自殺をしようという素振りもなくなってきたというのに……
私は急いで薊のもとへと走った。
結果、彼女の自殺を防ぐことに成功する。危ないところだった。
この時、私は彼女の心の傷の深さを改めて思い知った。
「許さない。無責任な噂を散蒔いた張本人も、それに便乗して薊を貶めた輩も」
「やめろ、菖蒲。ストーップ! お前が本気を出すと、相手が死ぬだけじゃ済まずに大事件になる。それに、薊は相手の身の破滅なんて望んでいないだろう? もう思い出したくもないし、関わりたくないはずだ」
確かに、薊ならそう思うだろう。
彼女は相手を消そうと考えるよりも、自分が逃げることで厄介事を避けるような性格だ。
だが、そんな彼女の優しさにつけ込んで、のうのうとデマを広めて生きている人間が存在することが許せない。
「もし、次があれば……」
まっすぐに薄を見て、告げる。
「私は、自分を抑えることは出来ないと思うよ」
本気が伝わったのだろう。薄は、諦めの溜息をつく。
「次がないことを祈る」
いろいろあって、最終的に薊とは正式な夫婦になることが出来た。
薊が自ら狭間へ残ることを選び、私の元へと嫁いでくれたのだ。
彼女の口からその言葉を聞いた時、私は嬉しさのあまり耳と尻尾を隠すことが出来なかった。
一生、薊を守る。大切にすると自分に誓う。
薊は、ことのほか狭間に馴染むのが早かった。
私の力を分け与えた彼女の瞳は既に金色で、気配も人よりは天狐のそれに近い。
あと数百年もすれば、きっと並の天狐程度の力は使えるようになるだろう。
元々薊が人の世に馴染めなかったのは、この性質のせいかもしれない。
よかった。薊が命を絶つ前に自分の前に現れてくれて……
私は、心からそう思った。
※
「薊、薊……」
「ん……菖蒲。恥ずかしいですよ。薄の前で抱き締めるのは止めてください」
私と薊は、あの後、無事に狭間へと帰ってきた。
入口を繋いでくれた薄と合流し、二つの世界の境目にある我が家に戻る。
腕の中の薊は、頬を赤らめながらモジモジと身じろぎした。動作が一々可愛らしい。
「大丈夫だよ。薄は部屋を出て行ったからね」
「遠慮して出て行ってくれたんじゃないですか!? 悪いことをしちゃいました……」
「機嫌は良さそうだったけどね。薊が選んだお土産が気に入ったみたいだよ」
「それは良かった。迷った甲斐がありました」
そう言って、薊は荷物を片付けるために、私の傍を離れて一人自室へと向かう。
その隙に、私は玄関から外へ出た。
あいつの気配がしたのだ。
鴉――
今回の新婚旅行を引っ掻き回し、薊を傷つけた憎き相手だ。
勿論、タダでは奴を帰さないつもりである。
「よく、堂々と顔を出せたものだね……鴉」
「……薊に、謝りに来たんだ。あんなことになるなんて思わなかった」
「薊を傷つけた浅慮なお前を、私は許さない。今後、一切あの子に会わす気はないよ」
「そんな……!」
鴉は焦ったような声を上げた。
今更、薊に再会出来ると思える方が間違っている。
躑躅は、まだ年若い鴉だ。奴自身の力も、たいしたことはなかった。
千年を生きた私にとっては、赤子同然である。
「人間の世には、薊を傷つける存在が多すぎるんだよ……そうだ、鴉」
私は、あることを思いついた。
今回ばかりは、この鴉が役に立つかもしれない。
「鴉。もし、お前に贖罪の気持ちがあるのなら……ある人物達について調べて欲しい。情報収集は鴉達の十八番でしょう?」
私がそう言うと、鴉は神妙に頷いた。
本当に、あの一件を反省しているらしい。
「あの報道番組で……匿名で薊のことを好き勝手抜かした奴らを、一人残らず洗い出してみせてよ」
「……それは、鴉なら可能だけれど」
「出来ないならば、今この場でお前を消すよ。私は、それくらい腹を立てているんだから……逃げられないことは分かっているだろう? 薊の前でなければ、私は殺生も厭わない」
今の私は、とても気が立っているのだ。
腹立ち紛れに、鴉一匹を葬ることなど容易い。
私がそう言うと、鴉は焦ったように返事をした。
「黒狐からの攻撃を受ける気はない。分かった、調べる。僕も、虚言で薊を侮辱する人間は気に入らないからな……あの報道は嘘なんだろ?」
「当たり前だ……あの子は、そんなことをしない。見れば分かるよね?」
鴉と約束を取り交わした私は、何食わぬ顔で薊の部屋へと戻った。
薊の憂いを一つでも多く取り除いてやりたい。
そして、いつか薊のトラウマが完全になくなればいいと思う。




