29:鴉と狐と露天風呂
「菖蒲……そ、それは!?」
ジャグジーが気になった菖蒲の為に、備え付けの入浴剤で泡風呂を作ってあげたのだが、彼はそれがいたくお気に召したようだ。
浴槽から飛び出る泡だらけの四本の尻尾。
ジャグジーのお湯は、温泉じゃなくてタダの水道水なんだけどなあ……
菖蒲が楽しそうなので、まあ良しとする。
「ふふっ、薊。これは面白いね。うちの家にもあればいいな……」
「じゃあ、私はこれで失礼しますので……分からないことがあったら言ってくださいね。あ、シャワーはこっち向きに回したら出ますから」
最新の水回り設備の解説を終えた私は、そそくさと風呂場を後にした。泡で全身が隠されているとはいえ、異性の風呂を覗き見する趣味なんてないのだ。
大量の水を吸った菖蒲の尻尾が、床を水浸しにしないかだけが心配だった。
私の方は、部屋に付いている露天風呂が気になったので、そちらに入る。
二人でバスタイムはまだ無理だ。私も菖蒲も、清い交際を続けていた。中身が大人の菖蒲は、きちんと私の心を気遣ってくれるのだ。
熱めのお湯に肩まで浸かった私は、眼下に広がる綺麗な景色を見ながら一息つく。
「気持ち良さそうだな。でも、こんな空から丸見えの場所で若い娘が入浴だなんて、ちょっと感心できないけど」
「……っ!?」
聞き覚えのある声に、私は湯につかったまま硬直した。なんで、こんな場所にいるの!?
「ど、ど……うして、躑躅?」
私が、かろうじて口から絞り出せたのは、片言だけだった。
露天風呂の設置されているバルコニーの淵に、黒いシャツにデニムというカジュアルな出で立ちの躑躅が腰掛けている。
鴉だから、空からこの場所に侵入したのだろうか。
「あ、ああのっ。出て行ってもらえませんか? 今、入浴中なんですけど?」
手近にあるタオルで、体を覆い隠すが不十分だ。早く、彼に立ち去って欲しい。
「何で隠すの? ずっげえ色っぽいのに……」
「隠すに決まっているでしょう! 早く出て行って! ち、痴漢!!」
私の大きな声に気が付いたのだろうか、ガラリとバルコニーの扉が開いて、蒼白な顔の菖蒲が顔を出した。もう、泡風呂からは上がったようだ。
「どうしたの、薊! 大丈夫!? 痴漢って!?」
そこで、菖蒲はバルコニーの淵に腰掛けている躑躅に気が付いた。結界の外では、鴉の気配に気付けないらしい。
「害鳥……どうしてこの場所が分かったの」
「なんだ、アンタも近くにいたのか。薊が結界の外に出かけるのが見えたから、後を追って来たんだ」
菖蒲は、真っ赤になって困惑する私にバスタオルを手渡してくれる。
「あ、ありがと。菖蒲」
「薊、先に部屋に入っておいで。覗き魔は、私が退治しておくから」
「う、うん」
菖蒲と躑躅を二人きりにするのは、とても不安だが、いつまでも裸でこの場にいたくはない。
私は、急いで着替えてふたりの元へと戻ることにした。
手早く、旅館で用意された浴衣に袖を通す。早く、早く、急がなきゃ!
「菖蒲!」
浴衣を着終わった私は、濡れた髪のままバルコニーへ飛び出した。
「薊……」
バルコニーには、菖蒲一人が立っている。
「あれ、躑躅は?」
「強制的に帰したよ。でも、宿泊場所が割れたから、また戻ってくると思う」
どうやって彼を帰したのだろうか!? また、天狐マジックなのかな。
黒狐なだけあって、菖蒲はかなり力の強い天狐なのだ。
「……そっかぁ。せっかく旅行に来たのに」
「私の側を離れないで。鴉による誘拐婚は、天狐達の悩みの種だから。中には、そのまま鴉と番になってしまう者もいるくらいで……」
「誘拐!?」
なんだ、その話は? 鴉って、そんなに危ない生き物だったのか!?
「そうだよ。他人の伴侶を連れ去って奪うのが、鴉の常套手段。あの羽が厄介なんだ」
空を飛べる鴉は、天狐達にとっても、手が出しにくい存在らしい。
「分かりました。私、菖蒲の傍にいます」
「うん。必ず、守るからね」
菖蒲の言葉に、私は大きく頷いた。
折角の旅行だったのになあ……
菖蒲に、躑躅や自分の職務のことを忘れてもらうどころか、更に苛立たせる結果になってしまったかもしれない。
「露天風呂も。これからは、控えた方が良いね」
「……そうですね」
覗かれるのは、もう懲り懲りだ。
そう言えば、菖蒲にも見られたのだったな……
思い出すと、急に彼のことを意識してしまう。心臓が激しく脈打った。
「あ、あああの、菖蒲」
「髪、乾かしてあげる。おいで、薊」
「え、は、はい」
旅館に備え付けのドライアーで、菖蒲は楽しそうに私の髪を乾かす。
「薊の髪はサラサラだね」
「……菖蒲の髪もサラサラですよ?」
私がすかさず返事をすると、彼はお揃いだと言って嬉しそうに笑った。
菖蒲の笑顔は、とても癒される。
先程の事件のことは忘れ、私達はその後、仲良く室内で過ごしたのだった。




