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30:狐とトラウマ

「おやすみなさい、菖蒲」

「おやすみ、薊」


 風呂に入った後は、旅館の豪華な夕食を頂いた。勿論、内容は高いコースに変更されている。

 菖蒲は、メインで出て来た高級和牛が気に入ったらしい。今度、短冊に書くと言っていた。


「こうやって、新しい物を知るっていうのも良いことだね。薊」

「菖蒲……」

「ありがとう。旅行に連れて行ってくれて」

「……いいえ、菖蒲こそ一緒に来てくれてありがとうございます。素敵な部屋に泊まれたのも、菖蒲のおかげですし」


 私は、ほんの少し、宿代を負担しただけである。

 それに、新しい物を知ったのは、なにも菖蒲だけではない。私も、初めて誰かと一緒に旅行する楽しさを知ることが出来たのだ。


「ねえ、薊。そっちへいってもいい?」


 不意に菖蒲が、私の方に顔を向けて言った。


「えっ?」


 私と菖蒲は、結局布団を敷かずにベッドにそのまま横になった。

 シングルサイズのベッドに、一人ずつ眠っている。


「いいかな?」

「あの、狭いですよ?」

「かまわないよ。薊の近くにいたい」

「……どうぞ」


 菖蒲が切なそうな声をだすので、私はつい彼が自分のベッドに入ることを許してしまった。


「ありがとう」


 私の隣に潜り込んだ菖蒲の体からは、石鹸の良い匂いがした。

 温かい体温を感じながら、私はうとうとし始める。菖蒲が近くにいると、心が安らいだ。


「薊……もう寝てしまうの?」

「え? 菖蒲は寝ないんですか?」


 疑問符を浮かべる私に向かって、菖蒲は困ったように眉尻を下げた。イケメンは、そんな顔も様になっている。

 じっと菖蒲を見ていると、鼻の頭に口付けられた。それを皮切りに、瞼にも唇にも菖蒲の唇が降ってくる。

 くすぐったくて、私は少し笑ってしまった。

 もう一度、唇が深く重なる。私は、少し戸惑った。

 これ、ディープなやつだ……

 勿論、こんな経験は初めてである。いつもは軽い口付けなのだ。

 さっきまでの安らぎはどこへやら……眠気も吹き飛んでしまった。


「可愛い……薊」


 暗闇の中でも、菖蒲の金色の瞳が熱を帯びているのが分かる。就寝時は二人とも、カラーコンタクトを外しているのだ。


「……菖蒲」


 彼の白魚のような細い手が、私の首に回される。

 菖蒲は、期待しているのだろうか。そういうコトを望んでいるのだろうか。

 確かに私達は夫婦だ。

 けれど、でも……


「……!」


 迷っていたその時、私の頭の中にとある光景が浮かび上がった。

 その光景に、わたしの心は、深く傷つく。


「……薊? どうしたの?」


 異変に気が付いた菖蒲が、心配そうに声をかける。

 私はハッと我に返った。


「な、何でもないですよ」

「震えてる……嫌、だった?」

「そんなこと!」


 あるわけがない!


「菖蒲が好きです。菖蒲になら、何をされたっていいです!」


 この状況で、あの体育倉庫での記憶が蘇ってしまっただけだ。

 暗くて、怖くて、痛くて、冷たくて……真っ黒に塗りつぶして消してしまいたいような辛い記憶。

 よりにもよって、こんな時に……思い出すなんて。

 あれは、もう終わったことだ。今の私は幸せなんだ。

 私は、必死に自分に言い聞かせて正気を保つ。

 そんな状態の私に、菖蒲は優しく語りかけた。


「薊、無理をしないで。君にそんな顔をさせたい訳じゃない」

「違うんです、これは……」


 菖蒲の所為じゃないのに、彼は関係ないのに。

 どうしよう、また菖蒲を傷つけてしまったかもしれない。

 私が、椎に暴行されたことを思い出したばっかりに……!


「菖蒲、菖蒲……ごめんなさい! 私……ちがっ」

「謝らなくていいよ。少し、性急すぎたよね」

「違うんです! その、ちょっと昔の嫌なことを思い出しただけで……私が、狭間に来た切っ掛けの事件と言うか……」


 このままでは、気まずい空気になってしまいそうだ。

 そんなのは嫌だ……!

 私は、意を決して菖蒲を見つめた。


「わ、私! 過去に同級生に、その……暴行されそうになったことがありまして。あのニュースの噂は、その時の出来事が原因で……! なんか、変なタイミングで、そのことを思い出しちゃっただけで……菖蒲が嫌な訳じゃないんです!」


 私は、必死になって菖蒲に弁明する。

 体育倉庫での話をするのは、私を信用してくれなかった両親以外では、菖蒲が初めてだ。

 そして、彼以外にこの話をすることは、この先ないだろう。


「暴行って……どういうこと?」


 金色の瞳が、僅かに細められる。

 私は、彼に過去に起こった出来事を全て話した。

 学校でのこと、椎のこと、その後の噂のこと、家族のこと……

 私が言葉に詰まる度に、菖蒲が「辛いなら、無理しないでいい」と言ってくれたが、それでも、私は話すのを止めなかった。彼に、知っていて欲しかった。


「薊……」


 菖蒲は、きつくきつく私を抱き締めた。


「辛かったね。ずっと、一人で抱え込んでいたんだね」

「あ、菖蒲……」

「私が守るよ。もう二度と、薊をそんな目に遭わせたりはしない」


 そう宣言する菖蒲の言葉に、私は泣きそうになった。

 菖蒲は、菖蒲だけは、私の絶対的な味方なのだ。


「何もしないから、一緒に眠ってもいい? いつもみたいに」

「……はい」


 その夜、私は菖蒲に抱き締められて眠った。

 彼の体温を間近に感じながら眠るのは、ドキドキするけれど、同時に安心もする。

 私は、徐々に深い眠りに落ちていった。


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