東京編 第8話「お母さんを探したい」
いつも読んでくださりありがとうございます。
第8話では、ケンが初めて自分の気持ちを
チームに打ち明けます。
戦いのない章ですが——
この話、私好きかもしれません。
ゆっくり楽しんでいただければ嬉しいです。
朝は、静かに来た。
病室の窓から差し込む赤い光が、四人の顔を照らしていた。ケンはシアの肩にもたれたまま眠っていた。シアは目を覚ましていたが、動かなかった。ケンを起こしたくないのか、それとも——ただ、このままでいたかったのか。
奈々にはどちらか分からなかった。
ガルドはいつの間にか入口から離れて、窓の外を見ていた。廃墟になった街。燃え尽きた車。動かなくなった建物。その全部を、静かに見ていた。
誰も口を開かなかった。
それでも、悪くない朝だった。
出発したのは、太陽が中天を過ぎた頃だった。
物資を確認すると、水が残り二本、食料が三日分ほど。多くはないが、今日一日は動ける。奈々はバッグを背負い直して、矢印を探した。
すぐに見つかった。
病院の壁の外に、昨日と同じ矢印が描かれていた。北を指している。
「行こう」と奈々は言った。
四人は歩き出した。
異変に気づいたのは、ケンだった。
商店街の跡を歩いている途中、ケンが立ち止まった。シャッターが降りたままの店が並ぶ、がらんとした通り。その一角に、以前は花屋があったらしい。今は割れた花瓶と、干からびた花の残骸だけが残っている。
ケンはそこを、じっと見ていた。
「お母さん」とケンは呟いた。
誰かに向けた言葉じゃなかった。ただ、こぼれ出た一言だった。
「……お母さんが、花屋が好きだった」
奈々は何も言えなかった。
ガルドも、シアも、黙っていた。
ケンはしばらく花の残骸を見ていた。それから、顔を上げた。
「探したい」
今度は、全員に向けた言葉だった。
「お母さんを、探したい」
静寂が、通りに落ちた。
奈々はケンを見た。十歳の子供の目が、真剣だった。泣いていなかった。泣きたいのに泣かない、という顔だった。
「……駅で、はぐれた」とケンは続けた。「渋谷の駅。あそこに行けば、まだいるかもしれない」
奈々はゆっくりと息を吐いた。
何と言えばいいか分からなかった。「きっと大丈夫」とは言えない。この世界で、人混みの中ではぐれた人間を見つけるのがどれだけ難しいか——奈々には分かっていた。でも「諦めろ」とも言えなかった。
「駅まで、どのくらいある」と
ガルドが低い声で言った。
「……歩いて、一時間くらい。
でも今はどうか分からない」
「人が多く集まっていた場所か」
「……うん。東京で一番人が多い駅だった」
「ならあいつらも多い」
ガルドは静かに言った。
「人が多い場所ほど、そうなる」
ケンは黙った。
でも、目が揺れなかった。
「分かってる」とケンは言った。「でも、行きたい」
奈々はケンの顔を見た。それから、ガルドを見た。ガルドは何も言わなかった。ただケンを見ていた。
その目に——何かがあった。
奈々には言葉にできなかったけれど、ガルドの目の奥に、遠い場所を見るような色があった。
シアが、ケンの隣に座った。
通りの縁石に、音もなくしゃがんで。
「……私も、いなくなった人がいる」とシアは言った。
誰も予想していなかった言葉だった。シアが自分のことを話すのは、初めてだった。
「守ろうとして、傷つけた。だから——連れてこられた」
それだけ言って、シアは口を閉じた。
ケンはシアを見た。シアは前を向いていた。
「……シアちゃんも、会いたい?」
「……分からない」
シアは少しの間、沈黙した。
「会いたいと思う権利が、私にあるのか分からない」
奈々は、その言葉を胸に刻んだ。
何も言えなかった。言ってはいけない気がした。
ガルドが、縁石に腰を下ろした。
巨体が、ゆっくりと折り曲げられる。そしてケンと同じ目線で、前を向いた。
「俺にも、子供がいた」
たった一言だった。
奈々は息を止めた。
ガルドはそれ以上、何も言わなかった。ただ、ケンの隣に座って、廃墟の街を見ていた。
ケンは、ガルドの顔を見上げた。
何かを理解したのか、何も理解できなかったのか——ケンはただ、頷いた。小さく、静かに。
しばらくして、奈々は口を開いた。
「渋谷まで、どのくらいかかるか分からない。途中に、どんなやつらがいるかも分からない。今すぐ行くのは——難しい」
ケンは奈々を見た。
「でも」と奈々は続けた。「無視はしない。この北への道を進みながら、渋谷に近い場所を通れないか考える。それと——もしお母さんが生きているなら、同じように安全な場所を目指してるはず。北の安全な場所に、情報が集まってるかもしれない」
それは、希望でも絶望でもなかった。
ただの、現実的な話だった。
ケンは少しの間、黙っていた。
「……うん」
やがて、ケンは言った。
「北に行く。でも——忘れないでほしい。お母さんのこと」
「忘れない」と奈々は答えた。
「俺も」とガルドが言った。
シアは何も言わなかった。でも、ケンの手を、そっと握った。
ケンは驚いたように、シアを見た。シアは前を向いたまま、手を握り続けていた。
ケンは、もう一度、小さく頷いた。
四人は歩き出した。
北へ。矢印が指す方へ。
しばらく歩いたところで、奈々は壁に新しい矢印を見つけた。今日も、誰かが残していった印。
その横に、小さな文字があった。
「もうすぐだ。」
奈々は立ち止まった。
今まで「北へ逃げろ」「安全な場所がある」しか書いていなかった。でも今日は、違う。
もうすぐ。
ということは——近づいている。
「ガルド」と奈々は言った。「見て」
ガルドが壁を見た。その目が、わずかに変わった。
「急ごう」とガルドは言った。
四人の足が、少しだけ速くなった。
赤い空の下を、四人は北へ歩き続けた。
夜になる前に、廃ビルに避難した。
眠る前に、奈々はスマートフォンを取り出した。電池残量は三パーセント。
それでも、短く打ち込んだ。
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矢印に「もうすぐだ」の文字。
近づいている。
ケンはまだ、お母さんを忘れていない。
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スマートフォンを閉じた。
電池が切れる前に、もうすぐ辿り着けるといい。
奈々はそう思いながら、目を閉じた。
ここまで読んでくださりありがとうございます。
ガルドの「俺にも、子供がいた」——
この一言だけ書いて、
それ以上は何も書きませんでした。
言葉にならないことは、
言葉にしない方がいいと思っています。
次話も読んでいただけると嬉しいです。
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よろしくお願いします。




