東京編 第7話「廃病院の夜」
いつも読んでくださりありがとうございます。
第7話では、4人で廃病院に避難します。
初めての本格的な連携。
そしてシアの心に、小さな変化が——
ゆっくり楽しんでいただければ嬉しいです。
日が傾き始めていた。
赤い空が、さらに濃い赤に変わっていく。夜が近い。奈々は4人で歩きながら、そろそろ夜を越す場所を見つけなければと思っていた。
矢印は、まだ北を指していた。
「あれ」とケンが指さした。
通りの先に、大きな建物があった。コンクリート造りの、五階建て。入口の上に、かろうじて読める看板が残っていた。
総合病院。
「物資があるかもしれない」と奈々は言った。「包帯とか、薬とか」
ガルドが建物を見上げた。
「夜を越すには悪くない。だが——病院は、人が多く死んだ場所だ。中にいる数も多い」
「それでも外で夜を明かすよりは安全だよね」
ガルドは頷いた。
その時、奈々はシアの様子に気づいた。
シアが病院を見つめたまま、動かなくなっていた。顔が、青ざめている。呼吸が、少しだけ浅い。
「シア」と奈々は小声で言った。「別の場所を探してもいい」
「……ううん」シアは小さく首を振った。「行く。みんなと一緒に」
奈々はそれ以上、何も言わなかった。
病院の中は、暗かった。
窓から差し込む赤い光だけが、かろうじて廊下を照らしている。床には割れたガラス、倒れた点滴スタンド、そして乾いた血の跡。
ガルドが先頭。奈々とケンが中央。シアが最後尾。
「足音を立てるな」とガルドが小声で言った。「ここは暗い。暗い場所に長くいた個体は、目より耳と鼻が利く。音を立てた瞬間に気づかれる」
奈々はケンの手を握り直した。ケンも黙って頷く。
一階の薬局スペースに物資が残っていた。包帯、消毒液、いくつかの薬。奈々はそれをバッグに詰めた。手早く、静かに。
その時——音がした。
廊下の奥から。ずる、ずる、という——何かを引きずるような音。
ガルドが手を上げた。止まれ、の合図。
全員が静止した。
音が近づいてくる。一つじゃない。複数。
暗闇の奥から、黄色い光が見えた。いくつもの、濁った黄色い目。
でも——様子がおかしかった。
その目は、焦点が合っていない。あらぬ方向を見ている。代わりに、頭が小刻みに動いていた。何かを聞こうとするように。嗅ごうとするように。
「目が見えていない」とガルドが低く言った。「こういう場所に長くいると、そうなる個体がいる。音と匂いだけで追ってくる。声を出すな」
奈々は息を殺した。
シアが、ほんの少し身を強張らせた。暗い廊下。白い壁。奈々には分かった——シアにとって、この場所は。
ゾンビたちがゆっくりと廊下を進んでくる。
4人は薬局スペースの陰に身を潜めた。息を殺して、音を立てないように。
一体が、すぐ近くを通り過ぎた。
頭を動かしながら。空気を読むように。
通り過ぎる——と思った瞬間。
ケンの足が、床の点滴スタンドに触れた。
金属が、かたん、と鳴った。
小さな音だった。でも静寂の中では十分すぎた。
ゾンビたちの頭が、一斉にこちらを向いた。
「——っ」
ケンが息を呑んだ。奈々が咄嗟にケンを抱き寄せる。
ゾンビたちが、動き出した。
「下がれ」とガルドが言った。
もう、声を殺す必要はなかった。
ガルドが前に出た。
剣を抜き、最前列のゾンビを薙ぎ払う。横一文字。二体が同時に崩れた。ただ、剣が弧を描いただけ。でもその一振りには、見ているだけで分かる重さがあった。
でも数が多い。
廊下の奥から、次々と現れる。十、十五——音を聞きつけて集まってくる。
「シア!」とガルドが短く言った。
シアが前に出た。
手の甲の呪紋が、黒く輝く。
「——『影縛り』」
シアの足元から影が広がった。床を這うように、ゾンビたちの足に絡みつく。数体の動きが、止まった。
でも全部は止められない。
「ごめん、これ以上は……!」
「十分だ」
ガルドが止まったゾンビの群れに突っ込んだ。狭い廊下では大きく剣を振れない。剣の柄を使って、一体ずつ確実に。
でも——背後から、影縛りを免れた個体が迫っていた。
「ガルド、後ろ!」奈々が叫んだ。
ガルドが振り向く。間に合わない——
その時、シアが叫んだ。
「——『影刃』!」
シアの手から、影が刃の形になって伸びた。短い。でも鋭い。ガルドの背後に迫っていた個体を、その影の刃が斬り裂いた。
ガルドが、シアを見た。
ほんの一瞬。
「助かった」
それだけ言って、また前を向いた。
シアは、その背中を見ていた。
誰かを、助けた。
この力で。
奈々はケンを庇いながら後退した。逃げ場がない。棚が邪魔をしている。
「奈々ちゃん!」
ケンの声で振り返った。
棚と棚の間に、細い通路があった。大人には通りにくい。でも子供なら——
「ケン、そこ!」
ケンが通路に滑り込んだ。奈々も続く。変異した個体が追ってこようとして——棚に詰まった。体が大きすぎて通れない。
その一瞬の隙に、ガルドが背後から仕留めた。
静寂が戻った。
全員で、息をついた。
「……二体だった」と奈々は言った。
「施設の中だから」とガルドが答えた。「群れは形成しにくい」
ケンが棚の陰から出てきた。顔が青白い。でも立っている。
「大丈夫だった?」と奈々が聞くと、ケンは小さく頷いた。
「うん。奈々ちゃんが教えてくれたから」
シアが壁にもたれていた。使うたびに消耗している。その顔に、疲労が滲んでいた。
4人は二階の病室の一つに身を潜めた。
ドアを家具で塞いで、簡易のバリケードを作る。窓から差し込む赤い光の中で、4人は身を寄せ合った。
ケンが、シアの隣に座った。
「シアちゃん、さっきの『影刃』ってやつ、かっこよかった」
「……かっこよくない。これは、呪いの——」
「かっこよかった」
ケンは繰り返した。理屈じゃなく、ただそれだけを言った。
シアは、ケンを見た。
十歳の子供の、真っ直ぐな目を。
シアの表情が——ほんの少しだけ、緩んだ。
奈々はその様子を見て、静かに思った。
少しずつだ。
その時——奈々は、病室の壁に何かを見つけた。
落書きだった。震えた字で書かれている。
「北へ逃げろ。安全な場所がある。」
そして、その下に——あの矢印のマークが描かれていた。
奈々は壁に近づいた。
「ガルド」と奈々は言った。「この印を残した人、この病院にも来てた」
ガルドが壁の落書きを見て、低く言った。
「少なくとも、敵じゃない」
奈々はその言葉を頭に刻んだ。
夜が更けていく。
ケンは、シアの肩にもたれて眠っていた。シアは最初戸惑ったように身を硬くしたけれど——やがてそっとしてあげた。
ガルドは入口の近くで目を閉じていた。眠っているのか、見張っているのか。たぶん、その両方。
奈々は眠る前に、スマートフォンを取り出した。電池残量は五パーセント。
短く打ち込んだ。
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病院の病室に矢印の人物のメッセージ。
「北へ。安全な場所がある」。
シアが初めて少し笑った。
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スマートフォンを閉じた。
北へ。安全な場所へ。
赤い夜の中を、4人は眠りについた。
ここまで読んでくださりありがとうございます。
シアが「影刃」でガルドを助ける場面。
呪いだと思っていた力が、
初めて誰かを守るために使われた瞬間です。
「北へ逃げろ」という落書きを残した人物——
その正体は、もう少し先で。
次話も読んでいただけると嬉しいです。
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