東京編 第4話「影の少女、地下より」
いつも読んでくださりありがとうございます。
第4話では視点が変わります。
奈々たちとは別の場所で、
別の孤独を抱えて生き延びていた少女の話です。
ゆっくり楽しんでいただければ嬉しいです。
東京都内・地下施設 同日早朝
暗かった。
息が白く染まる。地下の空気は冷たく、湿っていて、カビと錆と——もう一つ、別の匂いが混じっていた。鉄の匂い。血の匂い。
シアは壁に背中をつけて、息を殺した。
廊下の向こうから、足音が聞こえる。
普通の足音じゃない。引きずるような、不規則な——感染した人間の歩き方だ。しかも一体じゃない。複数。奥の方から、こちらに向かってくる。
目が見えない。
正確には、この施設の照明が全て落ちているせいで、完全な暗闇の中にいる。シアの目には何も見えない。でも、向こうには見える。
感染した人間は、変異が進むにつれて目が退化する。代わりに、聴覚と嗅覚が異常なまでに発達する。暗闇の中でも、音と匂いだけで獲物を追跡できる。光の届かない地下は——そういう個体にとって、最も有利な場所だった。
暗い方が、強い。
シアは唇を噛んだ。
手の甲が熱かった。呪紋が疼いている。力が、皮膚の下で渦巻いているのが分かる。使えば楽になる。使えば、全部消せる。
でも、使ったら——
また、誰かを傷つける。
シアは力を、奥の奥に押し込めた。鍵をかけるように。檻に閉じ込めるように。
足音が近づいてくる。
この施設に連れてこられたのは、いつのことだったか。
もう分からない。時間の感覚が、ずっと前に消えた。
シアには生まれつき、力があった。闇を操る力。影を動かす力。普通じゃない、と気づいたのは幼い頃だった。怖かった。自分が怖かった。だから隠していた。
でも、ある日——愛していた人を守ろうとして、力が暴走した。
その後のことは、あまり覚えていない。気づいたら、この施設にいた。白衣の人間たちに囲まれて、実験台として。
何のための実験かも、分からなかった。ただ、毎日のように力を引き出される。痛かった。苦しかった。でも一番辛かったのは——
私は、生きていていいんだろうか。
そう思い始めたことだった。
今朝、施設の電源が落ちた。
理由は分からない。外で何かが起きているのは、微かに感じていた。地上から伝わる振動。遠くから聞こえる悲鳴。空気の色が変わった気がした。
電源が落ちた瞬間、シアは動いた。
考える前に、体が動いていた。生きたい、という衝動が——それだけが、シアを動かした。
拘束具を外すのには力を使った。最小限に。細く、鋭く、影の刃を一瞬だけ出して——金属を切断した。手の甲の呪紋が熱を持った。すぐに押さえつける。
そのまま、廊下を走った。
だが施設は広かった。そして——感染した職員たちが、あちこちにいた。
暗闇の中でも音と匂いで追ってくる彼らから逃げるには、足音を殺すしかない。息を殺すしかない。存在を消すしかない。
足音が、すぐそこまで来ていた。
シアは動かなかった。壁に溶け込むように、息を止めて。
感染した人間の足音が、目の前を通り過ぎた。
一体。二体。三体。
シアには見えないが、気配で分かる。幼い頃から、力のせいで感覚が鋭くなっていた。気配を読む。空気の流れを読む。
三体が通り過ぎた。
シアはゆっくりと息を吐いた。
その瞬間——四体目の気配が、真横にあった。
シアは動けなかった。
四体目は、立ち止まっていた。こちらに顔を向けている。暗闇の中で、黄色い目が光っていた。
鼻がひくついている。
嗅ぎつけた。
シアの血の匂いを——実験で負った傷から、まだ少し血が滲んでいた——嗅ぎつけたのだ。微かな血の匂いでさえ、何メートル先からでも感知できる。
四体目が、腕を伸ばした。
シアは——力を、解放した。
一瞬だった。
手の甲の呪紋が黒く輝き、シアの足元から影が広がった。影は四体目の足に絡みつき、動きを止めた。
影縛り。
シアが唯一、制御できる魔法。それ以外は——暴走する。
四体目が身をよじる。影はすぐに消えていく。長くは保てない。
シアは走った。
廊下を、角を、階段を。暗闇の中を、気配だけを頼りに。足音が追いかけてくる。一体じゃない。さっきの三体も気づいたらしい。
一度でも音を立てれば、その音が全員に伝わる。聞こえないふりはできない。この暗闇では、音を出した者が獲物になる。
でもシアは走るしかなかった。
手の甲が熱い。呪紋が疼く。力が「使え」と言っている。全部解放すれば、追ってくるものなど全部消せる。
でも、そうしたら——
シアは奥歯を噛んだ。
走る。走る。階段を上がる。膝が笑っている。いつ最後にまともに食事をしたか分からない。体力の限界が、すぐそこにある。
突き当たりに、扉があった。
非常口だ。
シアは全力で体当たりした。錆びついた扉が、軋みながら開いた。
光が、目に刺さった。
赤い光だった。
空が——赤かった。
シアは扉の外に出て、地面に膝をついた。肺が痛い。足が震えている。手の甲の呪紋が、じくじくと熱を持っていた。
空を見上げた。
赤く染まった空に、巨大な光の紋章が浮かんでいた。
シアはその紋章を見て——
知っている。
と思った。
どこかで、見たことがある。記憶の奥の、もっと深い場所で。力が目覚める前の、遠い昔の——
扉の向こうから、足音が聞こえた。
追ってきている。
シアは立ち上がり、走った。
どこへ行くか分からない。でも止まれない。止まったら終わりだと、本能が告げていた。
路地を曲がった。また曲がった。変異した人間の影が見えた。方向を変える。
膝が、笑っていた。
もう限界だ。
そう思った瞬間——角の向こうから、人が現れた。
女の子だった。
自分とそう歳の変わらない、黒髪の女の子。そして——その隣に、鎧を着た巨大な男。そして、手を繋いだ小さな男の子。
三人が、シアを見ていた。
シアは足を止めた。
反射的に、手の甲を隠した。呪紋を、見せたくなかった。
黒髪の女の子が、一歩前に出た。
「大丈夫?」
シアは答えられなかった。
誰かに「大丈夫?」と聞かれたのが、いつぶりか分からなかった。施設では、誰もそんな言葉をかけなかった。ずっと——ずっと、一人だった。
背後から、足音が聞こえた。
追ってきている。
鎧の男が、シアの前に出た。剣を抜いて、シアを背に庇うように立った。
頼んでもいないのに。
守ってくれようとしている。
シアには、その感覚が分からなかった。誰かに守られるということが——どういうことか、忘れていた。いや、最初から知らなかったのかもしれない。
足音が、角を曲がった。感染した人間が三体、現れた。
鎧の男は動じなかった。
シアはその背中を見ていた。
広くて、重くて——でも、不思議と安心できる背中だった。
三体が倒れた後、黒髪の女の子が改めてシアを見た。
「名前は?」
「……シア」
「シアちゃんね。私は奈々。こっちがガルドで、この子がケン」
ケンと呼ばれた少年が、シアを見上げた。人見知りそうな顔で、でも好奇心もあって。
「どこから来たの?」と奈々が聞いた。
シアは少し躊躇してから、答えた。
「……地下」
「一人で?」
「……一人で」
奈々はシアの手を見た。隠していたけれど、ローブの袖から少しだけ呪紋が見えていた。
シアは咄嗟に手を引っ込めた。
「ごめん、見ちゃった」奈々は言った。「でも——それで、あなたが危ないとか、そういうことは思わないから」
シアは奈々を見た。
嘘をついている様子はなかった。
「私たちと一緒に来る?」奈々は手を差し出した。「一人より、みんなの方が安全だよ」
シアは、その手を見つめた。
長い間、見つめた。
生きていていいのか、という問いは、まだ消えていない。自分が何者なのか、力が何なのか、何も分からないままだ。
でも——
シアは、そっと手を伸ばした。
奈々の手を、握った。
小さく、震えながら。
ここまで読んでくださりありがとうございます。
シアというキャラクターは
「自分は生きていていいのか」という問いを
ずっと抱えている少女です。
その答えは、まだ出ていません。
でも——誰かの手を握ることが
その第一歩になるかもしれない。
次話も読んでいただけると嬉しいです。
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