東京編 第3話「守るということ」
いつも読んでくださりありがとうございます。
第3話では、新しい出会いが始まります。
戦えない奈々が、初めて「守りたい」と思う瞬間。
無口なガルドが、言葉ではなく行動で示す場面。
ゆっくり楽しんでいただければ嬉しいです。
朝が来た。
赤い空は夜の間も消えなかった。ただ、夜より少しだけ色が薄くなっている。血の赤から、錆びた茶色へ。まるで世界そのものが、一晩かけて少しずつ腐っていくみたいに。奈々は廃ビルの割れた窓から外を見て、それが「朝」なのだと判断した。
時計は止まっていた。スマートフォンの電池は残り十二パーセント。電波は相変わらず圏外のままだ。
ガルドは入口の近くで壁にもたれて座っていた。眠っているのかと思ったが、奈々が動いた瞬間に目を開けた。浅い眠りだったのか、それとも最初から起きていたのか。
「眠れたか」とガルドが聞いた。
「少しだけ」
目を閉じるたびに、昨日見た光景が蘇る。喰われていく人間。黄色い目。骨を噛む音。眠れるわけがなかった。
「水と食料がいる」奈々は膝を抱えたまま言った。「それと、状況を知るための情報も。このままここにいても何も変わらない」
ガルドは頷いた。
「動くなら早い方がいい」とガルドは言った。「昼の方がまだ安全だ」
「なんで分かるの」
「昨日、追われながら確かめた」
それだけ言って、ガルドは立ち上がった。その動作には迷いがなかった。何度も繰り返してきた動きだ、と奈々は思った。この人はずっと、こうして生き延びてきたんだ。
二人は廃ビルを出た。
外の光景は、昨日よりも静かだった。
通りには車が乗り捨てられ、いくつかは黒く焼け焦げている。割れたガラス。倒れた信号機。そして所々に、動かなくなった人間の姿。感染して死んだのか、感染する前に死んだのか、奈々には判別できなかった。
ガルドは先頭を歩いた。奈々はその少し後ろを、できるだけ足音を立てないようについていく。
「コンビニ」奈々が小さく言った。「あそこなら水と食料がある。たぶん」
通りの角に、見慣れたコンビニの看板があった。ガラスは割れ、中は暗い。
ガルドは足を止め、しばらく中の様子をうかがった。
「二体いる」と低い声で言った。「奥に。動きは鈍い」
奈々には見えなかった。暗くてよく分からない。でもガルドには分かるらしい。
「待ってろ」
ガルドは剣を抜き、ゆっくりと店内に入っていった。
奈々は入口で待った。
心臓が早鐘を打っている。手のひらが汗ばんでいた。中からは何も聞こえない。静寂が続くほど、想像が膨らむ。もし他にもいたら。もしガルドが——
鈍い音が一回。
また一回。
それきり、静かになった。
奈々は息を詰めたまま待った。三秒。五秒。十秒。
「来ていい」とガルドの声がした。
奈々はようやく息を吐いた。
店内に入ると、床に二体の変異体が倒れていた。ガルドは血のついた剣を振って汚れを落としている。奈々はその光景から目を逸らし、棚に向かった。
水のペットボトルをバッグに詰める。日持ちするパンや缶詰も。手が震えていたけれど、作業に集中することで少しだけ気が紛れた。
その時——店の奥から、物音がした。
ガルドが即座に反応した。剣を構え、音のした方へ向く。
奈々も身構えた。
バックヤードに続くドアの奥。何かが動いている。だが、変異体の足音とは違う。もっと小さく、もっと——怯えたような動きだった。
ガルドがドアをゆっくりと開けた。
暗がりの中に、小さな影がうずくまっていた。
子供だった。
十歳くらいの男の子。膝を抱えて、段ボールの陰に隠れている。奈々たちを見上げる目には、限界まで張り詰めた恐怖があった。手には、護身用のつもりなのか、折れた傘の柄を握りしめている。
「……来るな」と少年は震える声で言った。「こっちに来るな」
ガルドは動きを止めた。剣を下げる。
奈々はガルドの前に出た。少年と同じ目線になるように、ゆっくりとしゃがむ。
「大丈夫」と奈々は言った。できるだけ穏やかな声で。「私たちは、あいつらじゃない」
少年は傘の柄を握ったまま、奈々とガルドを交互に見た。
「……そいつ、人間か」
「人間だよ」奈々は答えた。「怖く見えるけど、さっき私も助けてもらった」
少年はしばらくガルドを見つめていた。ガルドは何も言わなかった。ただ静かに少年を見返していた。その目に、敵意はなかった。
少年が、少しだけ傘の柄を緩めた。
「名前は?」
「……ケン」
「ケンくんね。私は奈々。こっちはガルド」
「お母さんは?」奈々が聞いた。
ケンの目が揺れた。
「……はぐれた。昨日、駅で。人がいっぱいで、手を離しちゃって。それで……」
言葉が続かなかった。
奈々は何も言えなかった。慰めの言葉が見つからなかった。「きっと無事だよ」なんて、軽々しく言える状況じゃない。この世界で、はぐれた家族と再会できる確率がどれだけ低いか、奈々にも分かっていた。
代わりに、奈々は手を差し出した。
「一緒に来る? 一人より、三人の方が安全だよ」
ケンは差し出された手を見つめた。
そして、ガルドを見上げた。
ガルドはずっと黙っていた。
奈々が振り返ると、ガルドはケンを見下ろしていた。その表情が、いつもと違った。いつもの疲弊と警戒の奥に——何か、別のものがあった。
ガルドはゆっくりとしゃがんだ。鎧の重みで、ぎし、と音がした。子供と目線を合わせるために、巨体を折り曲げて。
「お前」とガルドは静かに言った。「歳はいくつだ」
「……十歳」
ガルドの目が、わずかに揺れた。
奈々はそれに気づいた。でも、何も聞かなかった。聞いてはいけない気がした。
ガルドは長いこと、ケンを見つめていた。それから、ゆっくりと手を伸ばし——ケンの頭に、大きな手のひらを置いた。
「もう、一人じゃない」
ケンの顔が崩れた。張り詰めていたものが、一気に決壊するように。ケンは声を上げて泣き出した。十歳の子供が、ずっと我慢していた恐怖と心細さを、全部吐き出すように。
ガルドは何も言わず、ただその小さな頭に手を置いたままだった。
奈々は、その光景を見ていた。
この人は、何かを失った。
昨日、廃ビルで「家族を」と言いかけて黙った時のことを思い出す。きっと、ガルドにも子供がいたんだ。今のケンと、同じくらいの。
胸の奥が、締め付けられた。
ケンが泣き止むまで、二人は待った。
やがてケンは、ぐしゃぐしゃの顔のまま、袖で目を拭った。
「……もう泣かない」
「泣いてもいいんだよ」奈々は言った。「我慢しなくていい」
ケンは首を横に振った。
「お母さんが言ってた。泣くのは一回だけにしろって」
奈々は何も言えなかった。その言葉の重さを、どう受け止めればいいか分からなかった。
ガルドも黙っていた。ただ、ケンの頭からゆっくりと手を離した。
ガルドは立ち上がり、入口の方を見る。
「行くぞ。ここは長居する場所じゃない」
奈々はケンの手を取った。小さくて、温かくて、まだ少し震えている手だった。
その手の温もりを感じながら、奈々は思った。
昨日まで、私は自分が生き延びることだけを考えていた。
でも今は違う。
この子を、守らなきゃいけない。
戦えない私に、何ができるか分からない。でも——守りたいと思った。初めて、心からそう思った。
三人はコンビニを出た。
赤い空の下、錆びた色の朝の中を、奈々とガルドとケンは歩き出した。
まだ何も解決していない。世界は壊れたままだ。仲間がどこにいるのかも分からない。でも、昨日より一人増えた。
たった一人。されど一人。
その重みを、奈々は手のひらに感じていた。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
ガルドの「もう、一人じゃない」という言葉——
あの場面を書いた時、自分でも少し胸が痛くなりました。
この物語のテーマは
「一人では生きられない」という当たり前のこと。
でもその当たり前が、一番難しい。
次話も読んでいただけると嬉しいです。
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よろしくお願いします。




