東京編第19話「届かない」
いつも読んでくださりありがとうございます。
第19話、東京で最初の「壁」と出会います。
これまで積み上げてきた緊張が、
ここで一度、爆発します。
そして同時に——
勝てない相手が、いる。
その事実とも、出会います。
バトル回です。
ゆっくり楽しんでいただければ嬉しいです。
中継点は、潰れた総合病院だった。
施設本体から二駅分ほど離れた市街地。かつて救急の赤い表示が灯っていたであろう建物は、今は窓のほとんどが割れ、外壁に蔦が這っていた。だが正面の自動扉だけが、不自然に新しいチェーンで施錠されていた。RAが後から手を入れた証拠だった。
行くのは四人。奈々、ガルド、シア、アル。
マンションを出る前、ガルドは鎧を完全に装着していた。潜入のときのように脱ぐ前提ではない。今日は、戦う前提だった。
「中継点には被験区画はない、と資料にはあった」とアルが言った。「だが守備兵がいないとは書いていない。警備は薄い——それだけだ。ゼロではない」
「何人いると思う」とガルドが聞いた。
「分からない。解析の陣は使い切る前に温存したい。——だが、ここで一枚使う」
アルは病院の前に膝をつき、残り二枚のうちの一枚を広げた。手袋を外し、中心に手を置く。
「——解析」
線が光り、地を這い、建物へ吸い込まれ、消えた。アルは目を閉じた。数秒。
「熱源、六。一階に四、二階に二。動きは緩慢だ。適合兵ではない——通常戦闘員だ」
「楽だな」とガルドが言った。油断ではなかった。事実の確認だった。
「楽だ」とアルも認めた。「だからこそ、嫌な感じがする。これだけの備蓄を、これだけの手薄さで守るか?」
誰も答えなかった。だが、全員が同じ引っかかりを覚えていた。
残りの解析の紙は、一枚。
突入は、静かに速かった。
ガルドが先頭でチェーンを断ち切り、扉をこじ開けた。一階ロビーに散っていた四人の戦闘員は、侵入に気づいて銃を構えたが、遅かった。
シアが右手をかざした。
「影縛り」
崩れた六芒星の呪紋が光り、戦闘員たちの足元から黒い帯が伸びて、二人の脚に絡みついた。動きが止まる。その隙にガルドが踏み込み、剣の腹で一人の側頭部を強打して昏倒させ、返す動作でもう一人の銃を弾き飛ばした。
残る二人。シアの影縛りで足を止められた一人に、アルが手をかざす。
「霧陣」
戦闘員の眼前に、足元から霧が噴き上がった。視界を奪われた戦闘員が闇雲に発砲する。だが弾は誰にも当たらない。アルは霧の出る位置を、最初から味方のいない方へ設計していた。
最後の一人へ、奈々が動いた。
戦えない奈々にできるのは、戦いの邪魔をしないことと——時々、戦いを助けることだ。床に転がっていた点滴スタンドを蹴り、戦闘員の足元へ滑らせた。男がそれに気を取られた一瞬、ガルドの拳が顎を捉えた。
四人、制圧。十数秒の出来事だった。
「奈々、今のいい判断だった」とガルドが言った。
「体が勝手に動いただけ」と奈々は言ったが、嘘だった。ちゃんと見て、ちゃんと選んだ。柔道で覚えた「相手の重心を崩す」感覚は、こんな形でも使えた。
薬品は、地下の保管庫にあった。
冷蔵設備が、自家発電でまだ動いていた。棚に、ラベルの貼られた小瓶が整然と並んでいた。「抑制剤」「完全解除剤(軽度用)」——資料の通りだった。
奈々はザックを開け、瓶を緩衝材で包みながら詰めた。
「全部は持てないけど」と奈々は言った。「軽度用を優先する。抑制剤も、できるだけ」
「数えておけ」とアルが言った。「何人ぶんあるか。それが、これから救える人数だ」
救える人数。
奈々は手を動かしながら、頭の隅でその言葉を転がした。これは、命の数を数える作業だった。同時に、ここに入りきらない分は「諦める命」を数える作業でもあった。
二階の二つの熱源は、まだ動いていなかった。眠っているのか、警備の交代待ちか。アルが小さく「二階は触るな。起こすな」と指示した。
ザックが重くなった。瓶の重さではなかった。
異変は、外に出た瞬間だった。
病院の正面。来たときには誰もいなかったその場所に、一人、立っていた。
大きい。ガルドより、さらに頭半分高い。黒い長外套の下に、見たことのない造りの黒い装甲。腰に、刃の幅が異様に広い長剣。風もないのに、外套の裾が微かに揺れていた。
顔は若く、笑っていた。心から愉快そうに、笑っていた。
「やっと、来た」と男は言った。低く、よく通る声だった。「適合兵じゃ、つまらなくてな。誰か、噛みごたえのある奴が来るのを待ってた」
アルが、すっと半歩前に出た。声を低くした。
「……熱源に、いなかった」
「ん? ああ」男は自分の胸を軽く叩いた。「俺の体温、お前らの言う『熱源』ってやつには映らないんだとさ。適合が深すぎて、もう人間の規格じゃない。便利だろ」
奈々の背筋に、冷たいものが走った。
解析に映らない。アルの目を、すり抜けてくる存在。今まで一度も、なかったことだった。
「名乗っておくか」男は笑みを深くした。「ゼノン。RAの——まあ、肩書きはどうでもいい。お前らが覚えるべきは、名前だけだ」
ガルドが、奈々たちの前に出た。
「下がってろ」と、振り返りもせずに言った。「あれは——格が違う」
それは、ガルドが初めて口にする種類の言葉だった。これまでどんな敵にも、ガルドは「下がってろ」とは言っても「格が違う」とは言わなかった。
ゼノンが、その言葉に反応した。目を細め、嬉しそうに。
「お前、分かるのか。いいな。久しぶりだ、戦う前から分かってる奴は」
ゼノンが、腰の大剣を抜いた。
抜いた、と認識した次の瞬間には、もう間合いが消えていた。
ガルドが剣を立てて受けた。金属と金属が噛み合う音——ではなかった。それは、鐘を全力で殴りつけたような、内臓を揺らす衝撃音だった。ガルドの足が、コンクリートを削りながら半歩下がった。約二メートルの巨体が、押されていた。
「おお」とゼノンが笑った。「受けるか。いいぞ。最近の奴は、一撃目で潰れるからな」
ガルドは答えなかった。受けた剣を滑らせて衝撃を逃がし、半身をずらしてゼノンの懐へ潜り込む。下から斬り上げ——ゼノンは、当たる寸前で、信じられない速さで後ろへ跳んだ。
ガルドの刃が、ゼノンの外套の裾だけを裂いた。
「速い」とゼノンが感心したように言った。「だが、届かない」
奈々は、十メートルほど下がった瓦礫の陰から、戦いを見ていた。
見ることしかできなかった。だから、必死で見た。
ゼノンの動きには、無駄が一切なかった。だが、それ以上に異様だったのは——攻撃の「間」だった。ゼノンは、ガルドを仕留められる瞬間が何度かあった。奈々の素人目にも分かるほど、明確な隙が、ガルドに何度も生まれた。防戦に追われ、体勢を崩した瞬間。
その全てで、ゼノンは、止めを刺さなかった。
刺さずに、笑って、次の攻撃に移った。
まるで——長く、遊んでいたいかのように。
奈々は、その違和感を頭の隅に刻んだ。なぜ、と問う余裕はなかった。ただ、刻んだ。後で考えるために。
「シア!」とガルドが叫んだ。初めての、助けを求める声だった。
シアが両手をかざした。
「影刃!」
ゼノンの足元の影が、無数の黒い刃となって突き上がった。ゼノンは大剣を振るってその大半を斬り払ったが、一本が肩の装甲を掠めた。火花が散る。
「ほお」ゼノンが、初めてシアの方を見た。「その紋様——お前、どこかの施設の出来損ないか? いや、違うな。それは——」
ゼノンの言葉が、途中で止まった。シアの呪紋を見て、何かに気づいたような顔。だが、それを言葉にする前に——
「霧陣! 爆陣!」
アルの声が重なった。
ゼノンの足元と背後に、二つの陣が同時に発動した。霧が視界を奪い、その霧の中で、爆陣が炸裂した。閃光と轟音。市街の窓ガラスが一斉に砕ける。
爆煙の中心で、ゼノンの巨体が、初めて片膝をついた。
今だ、と奈々は思った。
そして、ガルドも同じことを思っていた。
ガルドが、腰を深く落とした。右腕を、限界まで引き絞る。剣を持つ手の筋肉が、鎧の隙間からでも分かるほど膨れ上がった。
奈々は息を呑んだ。
あれは——全部を懸ける構えだ。
爆煙が晴れる。片膝をついたゼノンが、顔を上げる。その笑みが——初めて、消えていた。
「——おい」とゼノンが言った。「それは」
ガルドの右腕が、振り下ろされた。
空気が裂けた。音より先に、衝撃が来た。ガルドの刃は、ゼノンの大剣ごと——その身体ごと——縦に断ち切る軌道で、地面まで叩きつけられた。
コンクリートが、爆ぜた。
病院前の地面に、深い亀裂が走った。土煙が立ち上り、衝撃で奈々は瓦礫の陰で尻もちをついた。
静寂。
土煙が晴れていく。
亀裂の中心。ゼノンは——立っていた。
大剣を頭上に掲げ、両腕で、ガルドの一撃を受け止めていた。受け止めた両腕の装甲には、深い亀裂が走り、黒い血が流れていた。足元のコンクリートは砕け、ゼノンの膝は半ばまで地面にめり込んでいた。
受けた。だが——死んでいない。
「……今のは」ゼノンの声が、低く震えていた。怒りではない。歓喜だった。「効いたぞ。久しぶりに、効いた」
そして、ガルドの右腕が、だらりと垂れ下がった。
何が起きたのか、奈々には分からなかった。ただ、あの一撃の後から、ガルドの右腕は——動いていない。
ゼノンが、ゆっくりと立ち上がった。砕けたコンクリートを踏みしめて。
その目が、垂れ下がったガルドの右腕を、正確に捉えていた。
「なるほどな」とゼノンは言った。「一発限りか。撃てば、しばらく使えなくなる。——分かりやすい」
ガルドは、左手一本で剣を構え直した。だが、誰の目にも明らかだった。あの一撃を防がれ、左手一本では——届かない。
ゼノンが、大剣を担ぎ直した。今度こそ、止めを刺す動きだった。
奈々の頭が、真っ白になりかけた。
いや。違う。白くするな。見ろ。ケンのお母さんが言った。怖いことは、目をつぶると大きくなる。だから見ろ。
奈々は、見た。
ゼノンの足。砕けたコンクリートに、半ばめり込んだ膝。あの体勢から、すぐには、踏み込めない。一瞬、動きが鈍る。
「アル!」と奈々は叫んだ。「ゼノンの足元! 今、踏み込みが遅れる!」
アルが、即座に反応した。アルは、まだ使っていない陣を、すでに地面に伏せて隠していた。突入前から。「保険」を、ここに。
「封陣!」
ゼノンが踏み込もうとした、まさにその足元。青白い光が走り、砕けたコンクリートの瓦礫が固定された。ゼノンの片足が、その中に囚われた。
ほんの、数秒。
だが、その数秒で、ガルドはシアとアルを抱えるようにして後退し、奈々のいる瓦礫の陰まで戻ってきた。
「走れるか」とガルドが奈々に聞いた。
「走れる」
「全員、走るぞ。——退く」
光の檻が砕ける音がした。背後で、ゼノンが足を引き抜いたのだ。
四人は、廃墟の路地へ走り込んだ。ガルドが殿。アルが角ごとに足を止め、地面に指で素早く線を引いた——もう陣の紙はない。だが、何もない地面に線を引くだけでも、追手は「罠かもしれない」と足を止める。はったりだった。だが、効いた。
追ってくる足音は——なかった。
奈々は走りながら、一度だけ振り返った。
ゼノンは、病院の前から、動いていなかった。追ってこない。ただ、こちらを見ていた。砕けた腕を垂らしたまま、満足そうに、笑っていた。
その口が、何か動いた。距離があって、声は聞こえなかった。
だが奈々には、なぜか読めた気がした。
——また、来い。
マンションに戻ったのは、夜だった。
全員、無事だった。傷はあった。ガルドの右腕はその夜いっぱい上がらなかった。シアは魔力を使い果たして青い顔をしていた。アルは陣の紙を全て失った。
だが、全員、生きていた。そして、解毒薬を持ち帰った。
ケンが玄関で待っていた。四人の様子を見て、何も聞かずに、まず奈々のザックを受け取って、そっと床に置いた。中身が割れないように。
「……重そうだったから」とケンは言った。
その気遣いが、なぜか、一番こたえた。
その夜、ガルドは眠らなかった。
ロビーの隅で、動かない右腕を膝に置いて、壁にもたれていた。奈々が隣に座っても、しばらく何も言わなかった。
「届かなかった」と、やがてガルドが言った。
「でも、全員、帰ってこれた」
「ああ」ガルドは、垂れた自分の右腕を見た。「あの一撃を、受けられた。あんな奴は、初めてだ」少し、間があった。「あいつは——俺と、同じ匂いがした」
「同じ?」
「強い奴と、戦いたい。ただ、それだけで生きてる匂いだ」ガルドの声は、苦かった。「俺も、昔はそうだった。お前らに会う前は」
奈々は、何も言わなかった。ガルドが「昔」の話をするのは、初めてだった。
「あいつは、止めを刺さなかった」とガルドは続けた。「何度も、刺せた。刺さなかった」
「……気づいてたの」
「お前ほど、はっきりとは見えてなかった。だが、感じた」ガルドは目を閉じた。「あいつは、俺たちを——育てる気だ。もっと強くして、それから、喰う気だ。あれは、そういう生き物だ」
育てて、喰う。
奈々は、ゼノンの満足そうな笑みを思い出した。あの「また来い」を。
勝てなかった。それどころか、相手は本気ですらなかったのかもしれない。
でも——今日、全員生きて帰った。そして、いつか、あの男にもう一度会う。その時は。
「次は」と奈々は言った。「次は、勝とう」
ガルドが、薄く笑った。動かない右腕のまま。
「ああ。次は——あの一撃を、受けさせない」
消灯後、奈々は手帳を開いた。
今日のことを、一行で書くのは、難しかった。勝てなかった悔しさ。届かなかった一撃。それでも全員帰れた安堵。育てて喰う、という男の存在。
迷って、迷って、こう書いた。
―――――――――――――――
届かない壁の高さは、次に跳ぶための助走になる。
―――――――――――――――
書いてから、少しだけ、青臭いかなと思った。でも、消さなかった。今日は、これでいい。
明日、傷を癒す。
そして、また、歩く。
あの男に、いつか届くために。
ここまで読んでくださりありがとうございます。
ガルドの言葉——
「あいつは、俺と、同じ匂いがした」
ゼノンという男は、
ガルドが「お前らに会う前」の姿
かもしれません。
勝てませんでした。
でも、全員で帰ってきた。
この作品にとっては、
それが何より大事なことです。
次話、撤退後の傷と亀裂。
感想・評価いただけると励みになります。
よろしくお願いします。




