東京編第18話「救える線」
いつも読んでくださりありがとうございます。
第18話、持ち帰った資料を開きます。
知ることは、いつも救いとは限らない。
時々、知ることは「これ以上は救えない」
という線を、はっきりさせてしまう。
それでも、目をつぶるよりはいい。
そういう話です。
ファイルを開いたのは、翌日の昼だった。
夜のうちに開けなかったのは、明かりの問題だけではなかった。全員、心のどこかで、開けば戻れなくなると分かっていた。
昼にしたのは、せめて明るい時間に知ろうという、それだけの理由だった。
ロビーの中央に、三冊を並べた。奈々、ガルド、シア、アルの四人が囲んだ。
ケンは田中さんに頼んで、上の階の見張りに連れていってもらった。「大人の話をするから」と奈々が言うと、ケンは少しだけ不満そうな顔をして、それでも何も言わずについていった。あの子は、聞いていい話と聞かない方がいい話の区別が、年齢の割につきすぎている。母親が、そういう子に育てた。
三冊のうち、誰も最初の一冊に手を伸ばさなかった。
数秒の沈黙があった。
「私が読む」と奈々は言った。「持ち帰ったのは私だから」
それは半分本当で、半分は違った。本当の理由は、シアの右手が、さっきから膝の上で固く握られていたからだった。あの施設の記録を、シアにめくらせたくなかった。
シアはそれに気づいたようだった。一度だけ奈々を見て、それから握った手を、静かに開いた。
「ありがとう」と小さく言った。それだけだった。
最初に開いたのは、背表紙に「分類総覧」とあるファイルだった。
奈々がページをめくり、声に出して読んだ。全員が一度に覗き込むより、その方が早かった。
「ウォーカー。初期段階。動きは遅い。痛覚はあるが鈍い。これが——一番最初に見た連中」
めくる。
「レイジャー。ウォーカーが変異した個体。攻撃性が著しく増す。速い。痛覚をほぼ失う」
めくる。
「アビス。後期段階。長期間活動した個体が至る状態。組織が黒く変色。記述に——『個体としての境界が曖昧になる』」
「境界?」とガルドが聞いた。
「どこまでが一体か、分からなくなるってことだと思う」奈々はその先を読んで、少し声を落とした。「複数が融合した例の報告がある」
誰も何も言わなかった。
ガルドが、低く息を吐いた。「俺の世界にも、化け物はいた。竜とか、人を喰うものとか」剣の柄に手を置いたまま、ガルドは言った。「だが、あれは生まれつき化け物だった。これは——後から、なる。人だったものが、後から」
「それが、一番嫌な部分です」とアルが言った。
「自然の獣なら、戦う相手として筋が通っている。だがこれは——誰かが設計した怪物だ。災害ではなく、意思がある。」
奈々はページをめくった。見たことのない名前が続いた。
シーカー——地下密閉環境への適応個体。視覚が退化し、聴覚と嗅覚が極端に発達する。あの施設のような場所で生まれる種類だ。スウォーム——小型の個体が群れで行動する群体。ドラウン——水中で活動する水棲型。クラッド——体表が装甲化した個体。
「これ」と奈々はクラッドの項で手を止めた。
あの水槽の、白い目。腕が長すぎて、肩が高すぎて、皮膚が岩のように硬かった——
「あの水槽の中にいたの、これだ。クラッド。装甲型」
誰も水槽の話をしたがらなかったが、奈々はあえて名前を当てはめた。名前のないものは、ただ怖い。名前があれば、少なくとも「分かっているもの」になる。
それが、記録するということの、ひとつの意味だった。
二冊目は、地図の挟まった報告書だった。
広げると、東京の地図に、いくつもの印が打ってあった。施設の本体。それから——小さな印が、街のあちこちに散っていた。
アルが地図を引き寄せ、印の脇の注記を読んだ。
「分散保管。本施設の備蓄を、複数の地点に分けて保管している。理由は——『本施設陥落時の損失最小化』」
「敵も、全部を一箇所に置くのが怖いわけだ」とガルドが言った。
「ここ」アルが一つの印を指した。市街地の、施設からは離れた場所だった。「規模が小さい。注記に『医療物資中継点』とある。本施設のような被験区画はない。守りも薄いはずだ」
「解毒薬は」と奈々が聞いた。
アルはページをめくり、目を走らせ、そして——指が止まった。
「ある」
三冊目——一番新しい報告書には、解毒薬そのものについての記述があった。
奈々が読み、途中で何度か言葉に詰まりながら、要点を全員に伝えた。
解毒薬は、感染の進行を止める薬だった。だが、万能ではなかった。
「軽度感染——空気や接触で感染した段階なら、完全に解除できる。元に戻れる」
「重度は」とシアが聞いた。
奈々は、その項を二度読んだ。読み間違いではないことを確かめてから、口を開いた。
「重度——噛まれて、体液が直接入った場合。これは……抑制しかできない。進行を遅らせるだけ。完全には、戻せない」
ロビーが静かになった。
「現時点では」と奈々は注記を読み足した。「『現時点の技術では、重度感染の完全解除には至っていない』——そう書いてある。現時点では、って」
完全には戻せない。
その一行が、ロビーの真ん中に置かれた。
誰かが噛まれたら。これまでは、それは「終わり」を意味していた。解毒薬があっても、噛まれたら、完全には戻れない。手に入れた瞬間に、救えるものと救えないものの線が、はっきり引かれてしまった。
シアが、自分の右手の呪紋を見ていた。「半分だけ救える薬」と、独り言のように言った。「中途半端は、時々、何もないより残酷」
「そうとも限らない」とアルが返した。「抑制できるなら、時間が稼げる。技術は進む。『現時点では』と書いてある以上、いつか追いつく可能性がある。可能性を残せることと、ゼロであることは、違う」
珍しく、アルとシアの意見が割れた。だがそれは対立ではなかった。同じ重さの現実を、別の角度から見ているだけだった。
「……それでも」とガルドが、二人の間に言葉を置いた。「軽度を救えるなら、無いよりは、ずっといい」
その通りだった。誰も反論しなかった。
でも全員が、同じことを考えていた。これから、噛まれた誰かに出会ったとき、自分たちはこの薬を見せて、こう言わなければならない。「進行は止められる。でも、元には戻せない」と。それは救いの言葉であり、同時に、宣告の言葉でもあった。
希望と、その限界が、同じ箱に入っていた。
奈々は、手帳の隅に小さく「重度=抑制のみ」と書いた。いつか、この一行が誰かの命に関わる気がした。なぜそう思ったのかは、自分でも分からなかった。
会議の途中、アルがふと、分類総覧のあるページで手を止めていた。
奈々が覗くと、それは個体管理の様式だった。一体ごとに番号が振られ、「個体」「被験体」「廃棄」といった言葉が並んでいた。人間だった者たちが、徹底して「もの」として記述されていた。
「どうかしましたか」と奈々は聞いた。
アルはしばらく黙っていた。
「……いや」と、やがて言った。「私は、人を駒と呼ぶ」
奈々は、何も言わずに続きを待った。
「だが駒は、盤の上の役割だ。動かし方の話だ。これは——」アルは管理票を指で軽く叩いた。「これは、最初から人だと思っていない書き方だ。私のとは、違う。違う、と思いたい」
それは、アルが自分について漏らした、初めての言葉らしい言葉だった。
奈々は頷いた。「違いますよ」とだけ言った。根拠を並べはしなかった。アルもそれを求めていないようだった。
アルは管理票を閉じた。
夕方、上の階で見張りをしていた佐々木さんが、慌てて降りてきた。
「奈々ちゃん、ちょっと——外、見て」
四人は窓辺に寄った。
マンションから少し離れた通りを、黒い影が二つ、ゆっくり横切っていくところだった。規則的な歩幅。肩の銃。あの歩き方。
適合兵。
これまで、北部のこのあたりに敵が来ることはなかった。それがいま、巡回している。
「施設が、本気で探し始めた」とアルが静かに言った。「昨日、私たちが入ったからだ。網が、広がっている」
二つの影は、マンションの前を通り過ぎ、そのまま去っていった。今日はまだ、ここを目指してはいない。
だが、時間の問題だった。
「中継点へ行くなら」とガルドが言った。「早い方がいい。網が完全に絞られる前に」
誰も反対しなかった。
解毒薬の在処は分かった。だが、それを取りに行く猶予は、思っていたより短かった。
その夜、ケンが見張りから戻ってきて、奈々の隣に座った。
「大人の話、終わった?」
「終わった」
「……怖い話だった?」
奈々は少し迷ってから、本当のことを言った。
「うん。でも、知らないままより、知ってる方がいい話だった」
ケンは頷いた。それから、ぽつりと言った。
「僕のお母さん、言ってた。怖いことは、目をつぶると大きくなるって。だから見ろって」
奈々は、ケンの顔を見た。
「いいお母さんだね」
「うん」とケンは言った。誇らしげで、少しだけ、寂しそうだった。
消灯後、奈々は手帳を開いた。
今日知ったことは、多すぎた。種別の名前。分散保管。中継点。そして、噛まれた人は完全には戻れないということ。
一行に、まとめられそうになかった。
それでも、迷って、こう書いた。
救える線と、救えない線が、見えてしまった。
明後日、中継点へ向かう。
網が絞られる前に。
ここまで読んでくださりありがとうございます。
ケンのお母さんの言葉——
「怖いことは、目をつぶると大きくなる。
だから見ろ」
この作品のテーマそのものを、
十歳の子の口から
言わせてしまいました。
次話、解毒薬の中継点へ。
そして、東京で最初の幹部と——
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