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終末の証人  作者: GrayAmber
17/20

東京編第17話「生きている地下」(後編)

いつも読んでくださりありがとうございます。


第17話、潜入後編です。


水槽の中の腕時計——


この施設で起きたことの全部が、

あの小さな革ベルトに

詰まっている気がして。


そういう話です。


 足音は、二方向から来ていた。


 通路の左右。挟まれている。資料室の出入口は通路側に一つ——そして、部屋の奥にもう一つ。


 「第三層・被験区画」


 全員の視線が、同時にその扉に集まった。


 「下に逃げるしかない」とガルドが言った。


 「下は——」シアが一瞬だけ言葉を切った。「……分かった。行こう」


 その一瞬の間に何が詰まっていたのか、奈々には聞く時間がなかった。


 「待て。三十秒くれ」


 アルが床に膝をつき、コートから巻いた紙を一枚出して広げていた。第十五話の夜に描いていた、あの保険の陣だった。


 「アル、声を出したら——」


 「出さなければ発動しない。私の世界の法則だ」アルは手早く陣の向きを通路側の扉に合わせた。「どうせもう、位置は割れている。なら扉を封じて時間を買う方が得だ」


 通路の足音が、近い。もう走っていない。歩いている。確実に距離を詰める者の歩き方だった。


 アルは手袋を外し、白い手を陣の中心に置いた。


 「——封陣」


 声は、間違いなく通路まで届いただろう。


 だが同時に、陣の線が青白く光った。光は床を走り、通路側の扉の縁を一周して、そこで止まった。扉が、枠ごと一枚の壁になったように見えた。


 直後、扉の向こうでノブが回る音がした。


 回って——開かなかった。


 もう一度。もう一度。金属を叩く音。それから、押し殺した複数の声。


 「保つのは数分だ」


 アルが立ち上がった。床の陣は、もう端から灰のように崩れ始めていた。一度きりの紙。使えば消える。残りは二枚。


 「行け」


 「待って。十秒だけ」


 奈々は資料の棚に走った。


 全部は持てない。選ばなければならない。十秒で。


 頭より先に、手が動いた。


 一冊目——個体分類の総覧ファイル。背表紙に「分類総覧」とある。種別が一冊にまとまっているもの。細部より、全体。


 二冊目——地図の挟まった報告書。さっき開いたとき、東京以外の地名が見えた。他の施設の位置が載っているかもしれない。


 三冊目——机の上の、一番新しい日付の報告書。古い情報より、新しい情報。


 ザックに押し込みながら、棚に残していく無数のファイルが目の端に映った。一冊が、一体。この棚の全部に、元の名前を持っていた誰かの記録が入っている。


 ごめん。全部は、持てない。


 奈々は棚に背を向けた。


 被験区画への階段は、降りるほどに温かくなった。


 空調の温かさではなかった。湿った、生き物の温度だった。薬品の匂いの奥に、別の匂いがあった。動物園の獣舎に似た、生きているものの匂い。


 第三層。


 扉を抜けた先は、広い空間だった。天井が高い。資料室の三倍はある。そして両側の壁に沿って、円筒形のガラス水槽が並んでいた。人が立って入れるよりも、ずっと大きな水槽が、左右に十基ずつ。


 中は薄緑色の液体で満たされ、底から細かい泡が静かに上がり続けていた。


 そのほとんどは、空だった。


 ほとんどは。


 四人は水槽の列の間を、足音を殺して進んだ。逃げ道は区画の最奥にあるはずだった。シアが先頭で、迷いのない足取りで進んでいく。


 奥から四番目の水槽の前を通ったとき、奈々は見てしまった。


 液体の中に、何かが浮いていた。


 大きい。人の形に似て、人の形ではなかった。腕が長すぎる。肩の位置が高すぎる。皮膚は灰色で、ところどころ岩のように硬質化して盛り上がっていた。


 そして、その左手首に——腕時計が、食い込んだまま残っていた。


 革ベルトの、ごく普通の腕時計だった。文字盤は液体の中で白く濁っていた。変質した皮膚が膨らんで、ベルトを半分呑み込みかけていた。


 外し忘れたのではない。外せないまま、体の方が変わってしまったのだ。


 毎朝あれを着けて、どこかへ通っていた人が、いた。


 奈々の足が、止まりかけた。


 「見るな」とガルドが低く言った。「今は、見るな」


 その時だった。


 水槽の中で、それの目が、開いた。


 白い目だった。瞳のない、ただ白いだけの目。それは泡の向こうからゆっくりと——だが確かに——奈々たちの方を向いた。


 ガラスを叩くことも、暴れることもなかった。ただ、白い目だけが、四人が通り過ぎるのを、最後まで追っていた。


 誰も走らなかった。走れば音が出る。全員、歩幅だけを最大にして、視線を前に固定したまま、その水槽の前を抜けた。


 背中に、白い目の感触が残った。振り返らなくても分かった。まだ、こっちを見ている。


 区画の中ほどまで来たとき、シアが急に手を上げた。


 全員がその場で止まった。


 区画の入口——さっき自分たちが入ってきた扉とは別の、正面の大扉が、低い音を立てて開き始めていた。


 隠れる場所は、一つしかなかった。


 四人は手近な水槽の裏に滑り込んだ。空の水槽だった。薄緑の液体越しに、入口の方がゆがんで見えた。


 水槽の台座に、小さな金属プレートが付いていた。番号と、日付。日付は二つあった。開始日と——終了日。


 空の水槽は、最初から空だったわけではなかった。


 奈々は、それ以上プレートを読まないことにした。今は。


 入ってきたのは、二人。黒い戦闘服。規則的な足音。あの、黄色い目。


 適合兵は区画の中央通路をまっすぐ進んできた。一定の歩幅。一定の速度。首だけが左右に振れて、水槽の列を順に確かめていく。


 奈々は呼吸を浅くした。心臓の音が、自分の耳の奥でうるさかった。


 水槽一枚。薄緑の液体一槽分。それだけを挟んで、適合兵が通過していく。黄色い目が、一瞬、こちらの水槽に向いた。


 液体がゆがめてくれている。動かなければ、見えない。動かなければ。


 黄色い目は、二秒だけ水槽に留まり、それから次の水槽へ流れた。


 足音が遠ざかっていく。二人の適合兵は区画の奥——資料室から降りてきた、あの階段の方へ向かっていった。捜索の順路が、入れ違いになったのだ。


 ガルドが指を二本立て、出口の方向を示した。


 今のうちに。


 区画の最奥に、搬入用の貨物通路があった。天井の高い、緩い上り坂のトンネルだった。


 シアが迷わずそちらへ向かった。


 「こういう施設は、被験体の搬入路が必ず別にある」声は乾いていた。「運ばれる側だったから、知ってる」


 誰も何も返さなかった。返せる言葉が、なかった。


 貨物通路は第二層の高さまで戻ったところで、二つに分岐していた。分岐の壁に、案内のプレートが残っていた。


 「←搬出口/医療・薬品保管区画→」


 医療・薬品保管。


 奈々とアルの目が、同時にプレートを読んで、同時に合った。


 「……あの区画に、熱源はなかった」とアルが小さく言った。「無人だ」


 遠くで、鈍い金属音がした。封陣が破られた音かもしれなかった。天井のスピーカーが、また何かを告げている。内容は聞き取れない。だが施設全体が、目を覚ましつつあるのは分かった。


 「今日は出る」とガルドが決めた。「欲をかけば全部失う。——だが場所は分かった。次は、ここだ」


 四人は搬出口へ走った。


 外に出たのは、施設の北側だった。


 重い搬出口の扉を細く開け、隙間から一人ずつ、夜の中へ出た。


 夜気が肺に流れ込んできた瞬間、奈々は自分がずっと浅い呼吸しかしていなかったことに気づいた。薬品の匂いのしない空気が、こんなに軽いものだとは知らなかった。


 振り返ると、倉庫はただの錆びた倉庫として、月の下に静かに建っていた。


 あの下で、今も水が循環している。


 あの下で、白い目が、まだ開いている。


 帰り道、誰も口をきかなかった。


 話すことがないのではなかった。話すには、まだ全部が近すぎた。


 廃墟の影を三つ越えたあたりで、シアが一度だけ足を緩め、奈々の隣に並んだ。


 「さっき」とシアは前を向いたまま言った。「下に逃げるしかない、と言われたとき。一瞬、嫌だと思った」


 奈々は黙って聞いた。


 「私が入っていたのは、ああいう水槽じゃない。もっと小さい部屋。でも、匂いが同じだった。あの温度も」シアの声は、最後まで乾いたままだった。「嫌だと思って、それでも降りられた。それが今日、確かめられたこと」


 「……うん」


 「それだけ」


 シアは歩調を戻して、前へ出た。灰色のローブの背中は、いつもと同じに見えた。いつもと同じに見えるように歩いているのだと、奈々はもう知っていた。


 強くなるしかなかった人の強さは、夜の中でも、形を崩さなかった。


 マンションに着くと、ガルドが先に中の安全を確かめ、それから振り返って一言だけ言った。


 「全員いる。それでいい」


 ロビーの奥で、ケンが起きて待っていた。毛布を肩にかけたまま、壁にもたれて座っていた。眠らずに待っていたのだと、すぐに分かった。


 ケンは何も聞かなかった。奈々の顔をじっと見て、それから立ち上がり、自分の毛布をもう一枚持ってきて、奈々の肩にかけた。


 「……おかえり」


 「ただいま」


 それだけで、今夜は十分だった。


 消灯後、奈々はザックから持ち帰った三冊を出して、膝の上に置いた。


 開かなかった。今夜は開けない気がした。開けば、あの腕時計の人のような記録が、何十人分も出てくる。それを読むには、ちゃんとした明かりと、ちゃんとした覚悟がいる。


 代わりに手帳を開いて、少しの間、何も書けずにいた。


 あの腕時計のことを、考えていた。あの時計を毎朝着けていた誰かのことを。その人の朝が、確かにあったことを。


 やがて、一行だけ書いた。

―――――――――――――――

 記録は、奪われた名前の代わりになるだろうか。

―――――――――――――――

 明日、ファイルを開く。


 全員で。

ここまで読んでくださりありがとうございます。


シアの言葉——

「嫌だと思って、それでも降りられた。

 それが今日、確かめられたこと」


強さとは恐怖がないことではなく、

恐怖と一緒に降りられること。


この作品でずっと書きたいものの

ひとつです。


次話、持ち帰った資料を開きます。

そして「医療・薬品保管区画」へ——

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