東京編第16話「生きている地下」(前編)
いつも読んでくださりありがとうございます。
第16話、潜入前編です。
この施設は「生きて」います。
電気が通い、水が巡り、
記録が几帳面に積まれている。
何かが死に絶えた世界で、
一番生きているのが敵の施設——
その嫌な手触りを
感じていただければ嬉しいです。
排気口の格子は、ガルドが素手で外した。
音はほとんどしなかった。錆びたボルトを布で包み、ゆっくり回し、最後は曲げ折る。力任せに見えて、全部計算された動きだった。
「狭い」と、開いた穴を見てガルドが言った。
「最初の五メートルだけだ」とアルが答えた。「その先は整備用の通路に繋がる。立って歩ける」
ガルドは無言で鎧の肩当てを外し、胸甲を外し、布に包んで背負い直した。約二メートルの体が、鎧を脱ぐと一回り細くなった。それでも穴は、ガルドにとってぎりぎりだった。
「俺が先に行く。詰まったら、後ろから押せ」
冗談なのか本気なのか分からなかった。たぶん、両方だった。
夜の倉庫街は、息を殺したように静かだった。月明かりが錆びた建物の輪郭をかろうじて照らしている。風が、どこか遠くで金属を鳴らしていた。
四人は排気口の前にしゃがみ込んでいた。誰も無駄口を叩かなかった。会話は、もう昨夜のうちに全部済ませてある。今は、行動だけが残っていた。
奈々は穴の前で、一度だけ深呼吸した。
この穴の向こうに、二十七の熱源がある。そのうち四つは、人間の倍の大きさ。地図で見た数字が、これから本物になる。
「奈々」と、先に潜ろうとしたガルドが振り返った。「お前は三番目だ。俺、シア、お前、アル。前後を挟む」
守られている、と奈々は思った。戦えない自分のために、隊列が組まれている。その事実に、申し訳なさよりも、応えたいという気持ちが勝った。見る。私は、見る役目を果たす。
管の中は、ぬるい風が流れていた。
地下から地上へ抜けていく空気だ。微かに、薬品のような匂いがした。消毒液と、何か甘いものが腐ったような匂いが混ざっている。
奈々は四つん這いで進みながら、その匂いを覚えようとした。匂いは情報だ。この施設が「何をしている場所か」を、空気が先に教えてくれている。
前を行くシアの背中が、暗い管の中でかろうじて見えた。シアの呼吸は、規則正しかった。この人は、こういう場所に慣れている。慣れたくて慣れたわけではない場所に。
五メートルの先で、アルの言った通り管は太くなり、やがて整備用通路に出た。
立てる。歩ける。
そして——明るかった。
天井に等間隔で、白い灯りがついていた。
「電気が生きてる」と奈々は小さく言った。
「生きてるんじゃない」とシアが言った。「動かしてる。ここは稼働中の施設」
シアの声は平坦だった。平坦すぎた。奈々は横目でシアの顔を見た。何も浮かんでいない顔だった。何も浮かべないように固定した顔、に見えた。
「シア」
「平気」とシアは先に言った。「案内できる。こういう施設の作りは——体が覚えてる」
奈々は、それ以上何も言わなかった。代わりに、シアのすぐ後ろを歩くことにした。何かあったとき、すぐ手が届く位置に。それが、今の奈々にできる唯一のことだった。
整備用通路は施設の外周を巡っていた。
壁の向こうから、低い機械音が続いている。心臓の音に似たリズムだった。建物全体が、ゆっくり呼吸しているようだった。
第一層。
アルが小さく指を三本立てた——解析によれば、この層の熱源は三。少ない。つまりここは倉庫か、設備層。
奈々は歩きながら、壁に貼られたものに目を留めた。色褪せた紙。よく見ると、それは避難経路図だった。この建物が「施設」になる前の、何かの工場だった頃の名残。「非常口」「集合場所」——人が普通に働いていた頃の言葉が、今は薄く残っているだけだった。
ここにも、普通の毎日があった。RAが来る前は。
奈々は、その紙のことも覚えておくことにした。なぜ覚えるのか、自分でもよく分からなかった。ただ、忘れてはいけない気がした。誰かが普通に働いていた場所が、こうなった。その事実を。
通路の途中に、内部へ繋がる扉があった。アルがノブに手をかけようとしたとき——
「待って」
奈々の声に、三人が止まった。
奈々は床を指した。扉の前の床。うっすらと積もった埃に、靴の跡があった。それも、複数。すべて新しい。
「この扉、使われてる。よく使われてる。埃の薄さが、通路の他の場所と違う」
奈々は通路の先を指した。十メートルほど先に、もう一つ扉があった。
「あっちは埃が厚い。誰も使ってない」
アルは二つの扉を見比べて、それから無言でノブから手を離した。
「……いい目だ」とアルが小さく言った。「私は、構造しか見ていなかった。扉が二つある、としか。どちらが生きているかは、見ていなかった」
奈々は何も言わなかったが、少しだけ、ここに連れてこられた意味が分かった気がした。
四人は埃の厚い扉へ移動した。ガルドが慎重に開ける。蝶番が固い——長く使われていない証拠だった。
中は、物置だった。壊れた機材と空の薬品箱。そして部屋の反対側に、もう一つ扉。
その扉を抜けた直後だった。
さっきの——埃の薄い扉の方から、足音が聞こえた。規則的な、あの足音。一定の歩幅。適合兵だ。
足音は通路を通過して、遠ざかり、消えた。
もしあのまま最初の扉を開けていたら、通路で正面から鉢合わせていた。
誰も何も言わなかった。ただガルドが一度だけ、奈々の肩に手を置いた。重い手だった。それで全部だった。
第二層へ降りる階段は、物置の奥から見つかった。
降りる前、奈々はシアの様子をうかがった。シアの足取りは、いつもと同じに見えた。同じに見えるように歩いているのか、本当に平気なのか、奈々には区別がつかなかった。
「シア、本当に平気?」と小声で聞いた。
「平気じゃないけど」とシアは前を向いたまま言った。「平気じゃなくても、降りられる。さっき、自分で確かめた」
その言葉に、奈々は何も返せなかった。ただ、すぐ後ろを歩いた。
降りるほどに、薬品の匂いが濃くなった。そして匂いに、新しい音が加わった。
水の音。
大量の液体が、どこかで循環している音。
第二層の通路に出た瞬間、奈々は気づいた。この層は床が違う。第一層はコンクリートだったが、ここは——拭き掃除がされている。清潔だ。使われている層だ。
アルが指を広げた。熱源、この層に十二。
四人は壁に沿って進んだ。通路の左側に、大きなガラス窓が並ぶ区画があった。窓の中は暗い。だが、暗闇の中で、何かが——気配だけが、あった。
ガラスの内側で、水が揺れる音がした。
大きな水音だった。大きすぎる水音だった。
誰も窓に近づこうとしなかった。見てはいけないものが入っている、と全員の本能が言っていた。
奈々は、窓の前を通り過ぎながら、一度だけそちらを見た。
暗いガラスの奥に、何かの輪郭が、ぼんやりと浮かんでいた。大きい。人の形に似ていて、人の形ではない。それ以上は、暗さが隠してくれていた。
見なくてよかった、と奈々は思った。同時に——いつか、見ることになる、という予感もあった。
目的の部屋は、通路の最奥にあった。
扉のプレートに「資料室」とだけあった。鍵はかかっていたが、アルが懐から細い金属を二本出し、一分もかけずに開けた。
「私の世界の技術じゃない」とアルは言った。「こっちは、ただの手癖だ」
中は——紙の海だった。
棚に並んだファイル。机に積まれた報告書。壁に貼られた図表。RAは、記録する組織だった。几帳面に、執拗に、すべてを記録していた。
奈々は一番近いファイルを開いた。
最初のページに、図があった。人間のシルエットが段階的に変化していく図。横に、几帳面な文字でこう書かれていた。
個体分類:ウォーカー(初期段階)
経過観察九十日目以降、レイジャーへの変異率37%
ウォーカー。レイジャー。
あいつらに、名前があった。
奈々はページをめくる手が止まらなかった。シーカー——地下密閉環境適応型。視覚退化。聴覚と嗅覚が著しく強化——
ページの隅に、小さな手書きのメモがあった。研究者の私的な書き込みらしかった。「進行良好」「予定通り」——そんな言葉が、淡々と並んでいた。一人の人間が別の人間に起きていることを、まるで天気を記録するように書いていた。
奈々は、そのメモから目を逸らした。
「これ、全部——」奈々は声がかすれた。「観察記録だ。あの人たちは、ゾンビを研究してた。災害じゃない。これは——」
「実験だ」とシアが静かに言った。「言ったでしょう。私はここから逃げてきたって」
シアは部屋の奥を見ていた。
そこに、また扉があった。プレートにはこうあった。
「第三層・被験区画」
その時だった。
天井のスピーカーが、音を立てた。
ザッ、という砂のようなノイズ。それから、施設全体に、声が流れた。
「——第二層、資料室の照明が点灯しています。当該区画の巡回を要請します」
四人は同時に天井を見上げた。
照明。入った時に、つけてしまっていた。
通路の遠くから、足音が聞こえ始めた。
一人分では、なかった。複数の足音が、重なっていた。
ここまで読んでくださりありがとうございます。
あいつらに、名前があった——
ゾンビが「災害」ではなく
「実験」だったと知る回でした。
そして照明の消し忘れという
小さなミスから、後編が始まります。
完璧な潜入より、
小さな綻びの方が怖い。
そう思って書きました。
次話、潜入後編。
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