表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
終末の証人  作者: GrayAmber
15/20

東京編第15話「預ける夜」

いつも読んでくださりありがとうございます。


第15話は、潜入前夜の話です。


覚悟というのは、

語るものではなく、

手の動きに出るものだと思っています。


剣を拭う手。陣を描く手。

呪紋をなぞる指。


そういう夜の話です。


ゆっくり楽しんでいただければ嬉しいです。


 作戦会議は、夕食の前に終わった。


 決めることは思ったより少なかった。地図の上に、アルが線を三本引いただけだ。


 「正面シャッターは使わない。搬入口も監視があると見るべきだ。使うのは——ここ」


 アルの指が、倉庫の北側、地図の端の小さな印を叩いた。


 「排気口。シアの言った通り、地下三層は空気を回さなければ人が死ぬ。解析で気流の出口が確認できた。格子を外せば人が通れる幅がある」


 「入るのは」とガルドが言った。


 「四人。私、ガルド、シア——」アルはそこで一拍置いた。「奈々」


 誰も驚かなかった。驚いたのは奈々だけだった。


 「……私、足手まといになりませんか」


 「なる可能性はある」とアルはあっさり言った。「だが中は広い。三層。解析で構造は分かるが、構造しか分からない。どこを人が使い、どこを使っていないか——それを読む目が要る。お前の目だ」


 「戦闘になったら下がれ」とガルドが続けた。「お前が下がれる場所を作るのが俺だ」


 それで決まりだった。


 決まってしまえば、あとは夜が来るだけだった。


 会議が終わってしばらく、奈々は地図を一人で見ていた。


 倉庫の北側の小さな印。排気口。そこから五メートルの管を通り、地下へ降りる。施設の電気は生きている。熱源が二十七。うち四つは人間の倍の大きさ。


 地図はただの紙だ。数字はただの数字だ。でも明日、それが全部、本物の重さを持つ。


 「地図を睨んでも、変わらないぞ」


 顔を上げると、ガルドが隣に立っていた。


 「分かってます」と奈々は言った。「でも、見ておきたくて」


 「覚えるためか」


 「……覚えるためでもあるけど」奈々は少し迷ってから続けた。「こわいから、かな。見ていれば、ちょっとましになる気がして」


 ガルドは何も言わずに、地図を一緒に見た。


 しばらく、二人とも黙っていた。


 「ガルドさんは」と奈々は聞いた。「怖いと思うことって、ありますか」


 「ある」とガルドはすぐに答えた。「お前たちが死ぬことが、怖い」


 奈々は、その答えを予想していなかった。


 「自分が死ぬのは?」


 「それは——慣れた」ガルドはそう言って、右目から顎への傷跡を一度だけ指でなぞった。「だが、お前たちに慣れる気はない」


 奈々は、しばらく何も言えなかった。


 「……じゃあ、絶対に死なないでください」とやっと言った。


 「死なん」とガルドは言った。断言だった。根拠のある断言だった。


 夕食は、いつもより少しだけ豪華だった。


 田中さんが、備蓄の缶詰を二つ多く開けたのだ。


 「明日、大事な日なんでしょう」と田中さんは言った。詳細は誰も話していない。でもこの人は、空気で全部分かる人だった。「だったら今日は食べなさい。育ち盛りもいるんだから」


 育ち盛り、のところでケンを見た。ケンは口をいっぱいにしたまま頷いた。


 佐々木さんが、自分の缶からケンの皿に半分移した。「俺、小食なんで」と言った。嘘だった。この三日、誰よりもおかわりをしていたのは佐々木さんだ。


 沼田さんは隅で静かに食べていたが、食べ終わると杖をついて立ち上がり、奈々たちの方へ来て、一言だけ言った。


 「ここはわしらが守っとく」


 守れるはずがない。足の悪い老人と、中年の女性と、若い男性ひとり。それでも沼田さんは本気の顔をしていて、だから誰も笑わなかった。


 「お願いします」とガルドが言った。本気の声だった。


 田中さんが、ガルドの顔を見て、一度だけ深く頷いた。佐々木さんは何も言わなかったが、拳をそっとテーブルの上に置いた。自分なりの、約束の仕方だったのかもしれない。


 夕食が終わり、食器を片付けた後、田中さんが湯を沸かした。


 「お茶くらい、飲みましょう」と田中さんは言った。「備蓄の茶葉、もったいないと思ってたけど——今日みたいな日のためにあるんだと思って」


 湯呑みの代わりになるものを人数分集めて、紙コップや金属のマグカップに、薄い茶を注いで渡してくれた。


 奈々は両手でそれを受け取った。


 温かかった。


 ただそれだけのことが、この夜には必要なものだった気がした。


 ケンが奈々の隣に来て、同じように紙コップを両手で持って、一口飲んだ。


 「おいしい」とケンは言った。


 「うん」と奈々も言った。


 夜、それぞれが、それぞれのことをしていた。


 ガルドはロビーの隅で剣の手入れをしていた。砥石はとうにない。布で刃を拭い、留め具を確かめ、また拭う。同じ動作を何度も繰り返していた。意味のある回数は、とっくに超えているように見えた。


 ——ああやって、心を磨いでいるんだ。


 奈々はそう思って、声をかけずにおいた。


 シアは窓際で、自分の右手を見ていた。崩れた六芒星の呪紋。月明かりの下で、それは何の変哲もない古い痣のように見えた。シアは時々、指先でそれをなぞった。確かめるように。あるいは、問いかけるように。


 奈々はシアのそばに、一度だけ行った。何も言わずに隣に立って、同じように窓の外を見た。三十秒ほどそうしていた。


 「あの施設に、また入るのね」とシアが言った。


 「うん」


 「……私は、平気だと思う」シアは呪紋から目を離さずに言った。「でも、平気かどうかは、入ってみないと分からない」


 「入ってから、もし辛くなったら言って」と奈々は言った。「何かできるか分からないけど」


 「何もできなくていい」とシアは言った。「でも——言う。言える相手がいるのは、初めてだから」


 シアが「初めて」と言ったとき、奈々は胸の奥が痛くなった。痛みの正体は、うまく言葉にできなかった。ただ、この人がここにいてよかったと思った。


 しばらくして、シアの肩の力が、少しだけ抜けたように見えた。それだけで十分だった。


 アルは床に三枚目の陣を描いていた。明日使う分だ。線は定規で引いたように真っ直ぐで、でもアルは定規を使わない。手袋を外した白い手が、迷いなく動いていた。


 「アル」と奈々は声をかけた。「それ、何の陣ですか」


 「保険だ」とアルは手を止めずに言った。「使わずに済めば、それでいい」


 「……使わずに済みますかね」


 「分からない。だから描く。分からないから、できることをしておく」


 奈々はしばらく、アルが線を引く手を見ていた。


 「アルは、怖くないんですか」


 「怖い、という感覚が私にあるかどうか——」アルは線を引きながら言った。「正直、よく分からない。だが、失敗したくない、とは思う。駒を無駄に失いたくない」


 「それって、怖いってことじゃないですか」


 アルの手が、一瞬だけ止まった。


 「……そうかもしれない」と、少し間を置いてから言った。「そうかもしれないな」


 それきり黙って、また線を引き始めた。奈々も何も言わなかった。


 アルが「駒を失いたくない」と言うとき、その「駒」の中に、確かに奈々たちの顔がある。この人はそれを「怖い」とは呼ばないかもしれないが、奈々には十分だった。


 アルが描き終えた陣を丁寧に巻いてコートの内側に収める姿を、奈々はしばらく見ていた。この人は、勝つための準備ではなく、負けないための準備をしている。その違いが、今夜は妙に大事なことに思えた。


 ケンは、なかなか眠らなかった。


 毛布にくるまったまま、目だけ開けて、天井を見ていた。奈々が隣に座ると、ケンは天井を見たまま言った。


 「明日、僕も行くって言ったら、怒る?」


 「怒らない」と奈々は言った。「でも、連れて行かない」


 「……だよね」


 「ケン」


 「分かってる」ケンは毛布の中で少し丸くなった。「足手まといだから、でしょ」


 「違う」


 奈々は少し考えてから、ちゃんと言うことにした。


 「明日、私たちは全員、帰ってくるつもりで行く。でも絶対は、ない。もし——もしものことがあったとき、田中さんたちだけだと、きっと立ち上がれない。ケンがいれば、立ち上がれる。あの人たちはケンのためなら歩ける。だからケンの仕事は、ここにいること」


 ケンは長いあいだ黙っていた。


 それから、毛布から目だけ出して言った。


 「……それ、本当? 慰めじゃなくて?」


 「本当。あと——昨日の乾パン、ありがとう。言いそびれてた」


 ケンは少しだけ笑って、それから目を閉じた。


 「判断、鈍らなかった?」


 「鈍らなかった。おかげで」


 しばらくして、寝息が聞こえてきた。


 奈々はその寝顔を少しの間見ていた。この子は、泣くのは一回だけにしろ、とお母さんに言われている。どんな夜も泣かずに、ここまで来た。


 ケンのために、絶対に帰ってくる。


 そう思ったとき、初めて、明日が少しだけ怖くなかった。


 消灯前に、奈々はもう一度だけ皆の顔を見た。


 剣を拭うガルド。手の甲の紋を見るシア。陣を巻き終えて静かに目を閉じているアル。眠るケン。田中さんが毛布を直している。佐々木さんは壁に背を預けて目を閉じていた。沼田さんはもう眠っていた。


 明日、と奈々は思った。


 明日、私はこの人たちと一緒に地下へ降りる。私の判断ひとつが、誰かの命に触るかもしれない場所へ。


 怖い、と思った。


 怖いままでいい、とも思った。


 手帳を開いて、一行書いた。


 命を預かるとは、自分の命も預けることだ。


 目を閉じる直前、ガルドの声がした。独り言のような小ささだった。


 「——寝ろ。夜は、明日のためにある」


 奈々は目を閉じた。


 今夜は、すぐに眠れた。

ここまで読んでくださりありがとうございます。


沼田さんの一言——

「ここはわしらが守っとく」


守れるはずのない人の本気の顔を、

誰も笑わない。

そういうチームになってきました。


次話、ついに潜入です。

前後編でお届けします。

感想・評価いただけると励みになります。

よろしくお願いします。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ