東京編第15話「預ける夜」
いつも読んでくださりありがとうございます。
第15話は、潜入前夜の話です。
覚悟というのは、
語るものではなく、
手の動きに出るものだと思っています。
剣を拭う手。陣を描く手。
呪紋をなぞる指。
そういう夜の話です。
ゆっくり楽しんでいただければ嬉しいです。
作戦会議は、夕食の前に終わった。
決めることは思ったより少なかった。地図の上に、アルが線を三本引いただけだ。
「正面シャッターは使わない。搬入口も監視があると見るべきだ。使うのは——ここ」
アルの指が、倉庫の北側、地図の端の小さな印を叩いた。
「排気口。シアの言った通り、地下三層は空気を回さなければ人が死ぬ。解析で気流の出口が確認できた。格子を外せば人が通れる幅がある」
「入るのは」とガルドが言った。
「四人。私、ガルド、シア——」アルはそこで一拍置いた。「奈々」
誰も驚かなかった。驚いたのは奈々だけだった。
「……私、足手まといになりませんか」
「なる可能性はある」とアルはあっさり言った。「だが中は広い。三層。解析で構造は分かるが、構造しか分からない。どこを人が使い、どこを使っていないか——それを読む目が要る。お前の目だ」
「戦闘になったら下がれ」とガルドが続けた。「お前が下がれる場所を作るのが俺だ」
それで決まりだった。
決まってしまえば、あとは夜が来るだけだった。
会議が終わってしばらく、奈々は地図を一人で見ていた。
倉庫の北側の小さな印。排気口。そこから五メートルの管を通り、地下へ降りる。施設の電気は生きている。熱源が二十七。うち四つは人間の倍の大きさ。
地図はただの紙だ。数字はただの数字だ。でも明日、それが全部、本物の重さを持つ。
「地図を睨んでも、変わらないぞ」
顔を上げると、ガルドが隣に立っていた。
「分かってます」と奈々は言った。「でも、見ておきたくて」
「覚えるためか」
「……覚えるためでもあるけど」奈々は少し迷ってから続けた。「こわいから、かな。見ていれば、ちょっとましになる気がして」
ガルドは何も言わずに、地図を一緒に見た。
しばらく、二人とも黙っていた。
「ガルドさんは」と奈々は聞いた。「怖いと思うことって、ありますか」
「ある」とガルドはすぐに答えた。「お前たちが死ぬことが、怖い」
奈々は、その答えを予想していなかった。
「自分が死ぬのは?」
「それは——慣れた」ガルドはそう言って、右目から顎への傷跡を一度だけ指でなぞった。「だが、お前たちに慣れる気はない」
奈々は、しばらく何も言えなかった。
「……じゃあ、絶対に死なないでください」とやっと言った。
「死なん」とガルドは言った。断言だった。根拠のある断言だった。
夕食は、いつもより少しだけ豪華だった。
田中さんが、備蓄の缶詰を二つ多く開けたのだ。
「明日、大事な日なんでしょう」と田中さんは言った。詳細は誰も話していない。でもこの人は、空気で全部分かる人だった。「だったら今日は食べなさい。育ち盛りもいるんだから」
育ち盛り、のところでケンを見た。ケンは口をいっぱいにしたまま頷いた。
佐々木さんが、自分の缶からケンの皿に半分移した。「俺、小食なんで」と言った。嘘だった。この三日、誰よりもおかわりをしていたのは佐々木さんだ。
沼田さんは隅で静かに食べていたが、食べ終わると杖をついて立ち上がり、奈々たちの方へ来て、一言だけ言った。
「ここはわしらが守っとく」
守れるはずがない。足の悪い老人と、中年の女性と、若い男性ひとり。それでも沼田さんは本気の顔をしていて、だから誰も笑わなかった。
「お願いします」とガルドが言った。本気の声だった。
田中さんが、ガルドの顔を見て、一度だけ深く頷いた。佐々木さんは何も言わなかったが、拳をそっとテーブルの上に置いた。自分なりの、約束の仕方だったのかもしれない。
夕食が終わり、食器を片付けた後、田中さんが湯を沸かした。
「お茶くらい、飲みましょう」と田中さんは言った。「備蓄の茶葉、もったいないと思ってたけど——今日みたいな日のためにあるんだと思って」
湯呑みの代わりになるものを人数分集めて、紙コップや金属のマグカップに、薄い茶を注いで渡してくれた。
奈々は両手でそれを受け取った。
温かかった。
ただそれだけのことが、この夜には必要なものだった気がした。
ケンが奈々の隣に来て、同じように紙コップを両手で持って、一口飲んだ。
「おいしい」とケンは言った。
「うん」と奈々も言った。
夜、それぞれが、それぞれのことをしていた。
ガルドはロビーの隅で剣の手入れをしていた。砥石はとうにない。布で刃を拭い、留め具を確かめ、また拭う。同じ動作を何度も繰り返していた。意味のある回数は、とっくに超えているように見えた。
——ああやって、心を磨いでいるんだ。
奈々はそう思って、声をかけずにおいた。
シアは窓際で、自分の右手を見ていた。崩れた六芒星の呪紋。月明かりの下で、それは何の変哲もない古い痣のように見えた。シアは時々、指先でそれをなぞった。確かめるように。あるいは、問いかけるように。
奈々はシアのそばに、一度だけ行った。何も言わずに隣に立って、同じように窓の外を見た。三十秒ほどそうしていた。
「あの施設に、また入るのね」とシアが言った。
「うん」
「……私は、平気だと思う」シアは呪紋から目を離さずに言った。「でも、平気かどうかは、入ってみないと分からない」
「入ってから、もし辛くなったら言って」と奈々は言った。「何かできるか分からないけど」
「何もできなくていい」とシアは言った。「でも——言う。言える相手がいるのは、初めてだから」
シアが「初めて」と言ったとき、奈々は胸の奥が痛くなった。痛みの正体は、うまく言葉にできなかった。ただ、この人がここにいてよかったと思った。
しばらくして、シアの肩の力が、少しだけ抜けたように見えた。それだけで十分だった。
アルは床に三枚目の陣を描いていた。明日使う分だ。線は定規で引いたように真っ直ぐで、でもアルは定規を使わない。手袋を外した白い手が、迷いなく動いていた。
「アル」と奈々は声をかけた。「それ、何の陣ですか」
「保険だ」とアルは手を止めずに言った。「使わずに済めば、それでいい」
「……使わずに済みますかね」
「分からない。だから描く。分からないから、できることをしておく」
奈々はしばらく、アルが線を引く手を見ていた。
「アルは、怖くないんですか」
「怖い、という感覚が私にあるかどうか——」アルは線を引きながら言った。「正直、よく分からない。だが、失敗したくない、とは思う。駒を無駄に失いたくない」
「それって、怖いってことじゃないですか」
アルの手が、一瞬だけ止まった。
「……そうかもしれない」と、少し間を置いてから言った。「そうかもしれないな」
それきり黙って、また線を引き始めた。奈々も何も言わなかった。
アルが「駒を失いたくない」と言うとき、その「駒」の中に、確かに奈々たちの顔がある。この人はそれを「怖い」とは呼ばないかもしれないが、奈々には十分だった。
アルが描き終えた陣を丁寧に巻いてコートの内側に収める姿を、奈々はしばらく見ていた。この人は、勝つための準備ではなく、負けないための準備をしている。その違いが、今夜は妙に大事なことに思えた。
ケンは、なかなか眠らなかった。
毛布にくるまったまま、目だけ開けて、天井を見ていた。奈々が隣に座ると、ケンは天井を見たまま言った。
「明日、僕も行くって言ったら、怒る?」
「怒らない」と奈々は言った。「でも、連れて行かない」
「……だよね」
「ケン」
「分かってる」ケンは毛布の中で少し丸くなった。「足手まといだから、でしょ」
「違う」
奈々は少し考えてから、ちゃんと言うことにした。
「明日、私たちは全員、帰ってくるつもりで行く。でも絶対は、ない。もし——もしものことがあったとき、田中さんたちだけだと、きっと立ち上がれない。ケンがいれば、立ち上がれる。あの人たちはケンのためなら歩ける。だからケンの仕事は、ここにいること」
ケンは長いあいだ黙っていた。
それから、毛布から目だけ出して言った。
「……それ、本当? 慰めじゃなくて?」
「本当。あと——昨日の乾パン、ありがとう。言いそびれてた」
ケンは少しだけ笑って、それから目を閉じた。
「判断、鈍らなかった?」
「鈍らなかった。おかげで」
しばらくして、寝息が聞こえてきた。
奈々はその寝顔を少しの間見ていた。この子は、泣くのは一回だけにしろ、とお母さんに言われている。どんな夜も泣かずに、ここまで来た。
ケンのために、絶対に帰ってくる。
そう思ったとき、初めて、明日が少しだけ怖くなかった。
消灯前に、奈々はもう一度だけ皆の顔を見た。
剣を拭うガルド。手の甲の紋を見るシア。陣を巻き終えて静かに目を閉じているアル。眠るケン。田中さんが毛布を直している。佐々木さんは壁に背を預けて目を閉じていた。沼田さんはもう眠っていた。
明日、と奈々は思った。
明日、私はこの人たちと一緒に地下へ降りる。私の判断ひとつが、誰かの命に触るかもしれない場所へ。
怖い、と思った。
怖いままでいい、とも思った。
手帳を開いて、一行書いた。
命を預かるとは、自分の命も預けることだ。
目を閉じる直前、ガルドの声がした。独り言のような小ささだった。
「——寝ろ。夜は、明日のためにある」
奈々は目を閉じた。
今夜は、すぐに眠れた。
ここまで読んでくださりありがとうございます。
沼田さんの一言——
「ここはわしらが守っとく」
守れるはずのない人の本気の顔を、
誰も笑わない。
そういうチームになってきました。
次話、ついに潜入です。
前後編でお届けします。
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