東京編第14話「黄色い目」
いつも読んでくださりありがとうございます。
第14話では、敵が初めて
「形」を持って現れます。
痕跡を追っていた昨日までと、
敵を見てしまった今日からでは、
世界の重さが違う。
そういう話です。
ゆっくり楽しんでいただければ嬉しいです。
朝、目を覚ますと、アルがすでに起きていた。
ロビーの隅で、床に広げた紙を畳んでいるところだった。細い線で描かれた幾何学模様——陣だ。昨日一日かけて描いていたものが、三枚。アルはそれを丁寧に筒状に巻いて、コートの内側に収めた。
「今日、行くんですね」と奈々は言った。
「予定通りだ」とアルは答えた。「明後日動き出す、と言ったのは一昨日だ」
律儀な人だ、と奈々は思った。口には出さなかった。
今日の編成はすぐに決まった。
行くのは奈々、アル、シアの三人。ガルドはマンションに残る——拠点に戦力を残すためだ。非戦闘員が四人いる場所を空にはできない。
「いいのか」と奈々は出発前にガルドへ聞いた。「一番危ないかもしれないのに」
「お前が見つけた場所だ」とガルドは言った。「お前が確かめてこい」
それだけだった。でも、それで十分だった。
玄関でケンが待っていた。今日は「帰ってきてね」とは言わなかった。代わりに、小さな手のひらを差し出した。
乾パンが一枚、のっていた。
「……分けてくれるの?」
「腹が減ったら、判断が鈍るんだって。田中さんが言ってた」
奈々は受け取って、ポケットに入れた。
「ありがとう。判断、鈍らせないようにする」
ケンは頷いた。それから、いつものように泣かなかった。
南へ向かう道は、昨日と同じで、昨日とは違った。
同じ廃墟。同じ静けさ。違うのは、行き先に「何かがある」と分かっていることだった。分からないまま歩くのと、分かって歩くのとでは、足の重さが違う。
「奈々」と歩きながらシアが言った。「昨日の三点、あれからずっと考えていたのだけど」
「うん」
「収束する先が倉庫街だとして——地上とは限らない、と思う」
奈々はシアを見た。
「私が逃げてきた施設は、地下だった」とシアは静かに言った。「入口は地上にある。でも本体は下。RAは、そういう作り方をする」
シアがRAの施設から脱走してきたことを、奈々は知っていた。でもシアが自分からその話をするのは、初めてだった。
「……思い出させて、ごめん」
「いい」とシアは前を向いたまま言った。「使える記憶なら、使った方がいい」
その横顔に、奈々は何も言えなかった。ただ、この人は強い、と思った。強くなるしかなかった人の強さだ、とも思った。
倉庫街の手前で、三人は足を止めた。
昨日の三点が示していた収束点——錆びた大型倉庫が並ぶ一画。その中央に、一棟だけ様子の違う建物があった。
シャッターが、新しい。
周囲の建物はすべて錆びて朽ちているのに、その一棟だけ、シャッターに錆がなかった。最近交換されたのだ。
「ここから先は近づきすぎる」とアルが言った。「ここでやる」
アルは瓦礫の陰に膝をつくと、コートから巻いた紙を一枚取り出し、地面に広げた。幾何学模様が朝の光の中に現れた。中心に小さな円、そこから放射状に伸びる線、外周を囲む文字のような記号。
「それ、何をするんですか」と奈々は小声で聞いた。
「目に見えないものを、見えるようにする」とアルは言った。「私の世界の技術だ。説明は省く。長くなる」
アルは手袋を外した。素手を見るのは初めてだった。細く、白く、指先にだけ薄い文字のようなものが刻まれていた。
その手を、陣の中心に置く。
「一つ、教えておく」とアルは言った。「私の技は、名を宣言しなければ発動しない。私の世界の法則だ。だから——騒がしくなるが、我慢しろ」
そして、静かに、しかしはっきりと言った。
「——解析」
陣の線が、淡く光った。
光は地面を這うように広がって、倉庫の方向へ流れ、そして——消えた。何も起きていないように見えた。
でもアルは目を閉じて、動かなかった。一分。二分。
奈々とシアは息を殺して待った。
やがてアルは目を開けた。
「……地下だ」
シアの肩が、わずかに動いた。
「地上部は倉庫一棟分。だが下に空洞がある。広い。倉庫の三倍はある。深さは——三層」
「人は」と奈々は聞いた。
「熱源が動いている。数えられただけで、二十七」
二十七。
数字を聞いた瞬間、奈々の中で何かが固まった。痕跡でも仮説でもない。二十七の、動いている熱源。
「うち四つは——」アルはそこで一度言葉を切った。「大きい。人間の倍はある」
誰も何も言わなかった。
言わなくても、全員が同じものを想像していた。
帰り際に、それは起きた。
倉庫街を離れて二つ目の交差点。先頭のシアが、急に手を上げた。
三人は崩れたバスの陰に滑り込んだ。
足音。二人分。規則的な——規則的すぎる足音が、交差点を横切っていく。
奈々はバスの割れた窓の隙間から、それを見た。
人間だった。少なくとも、輪郭は。黒っぽい戦闘服。肩に銃。歩き方に乱れがない。疲れも、警戒のための緩急もない。機械のように等間隔の歩幅。
そして、目が——黄色かった。
白目があるべき場所まで、薄く黄色に染まっていた。瞬きが、少なかった。
二人組は交差点を渡り、倉庫街の方向へ消えていった。最後まで、一度もこちらを向かなかった。
足音が完全に消えてから、誰も、しばらく動かなかった。
「……レベル2」とシアが小さく言った。「適合兵。施設で見た。あれは——元は、普通の人間」
元は。
その二文字が、奈々の中に沈んでいった。
ゾンビは、もう「そういうもの」として受け止められるようになっていた。怖いけれど、嵐や火事と同じ、災害の一種として。
でもあれは違う。あれは誰かが作ったものだ。普通の人間だった誰かを、誰かが、ああいうものに変えた。
「行こう」とアルが言った。「日が落ちる前に戻る」
奈々は頷いて、立ち上がった。膝が少しだけ震えていることに、立ち上がってから気づいた。
怖いままで行くのが、戦うということだ。
震えたまま、歩いた。
マンションに戻ると、ガルドが玄関の内側に立っていた。最初からそこで待っていたような立ち方だった。
「あったか」
「あった」と奈々は言った。「地下三層。熱源二十七。うち四つは人間の倍の大きさ。それから——帰り道に、適合兵を二人見た」
ガルドは順番に全部聞いた。途中で口を挟まなかった。
聞き終わってから、一度だけ頷いた。
「なら、次は入り方だな」
それだけ言って、ガルドは奥へ戻っていった。怖がる時間も、騒ぐ時間も、最初から飛ばしていた。この人のそういうところに、チームの全員が支えられている——奈々はそう思った。
夜、ロビーの隅で地図を囲んだ。
アルが解析の結果を書き込んでいく。地下三層の概形。熱源の分布。地上シャッターの位置。
「入口は正面だけとは限らない」とシアが言った。「私のいた施設には、搬入口と——排気口があった」
「換気系か」とアルが手を止めた。「……あり得る。地下三層なら、必ず空気を回している」
地図の上で、計画が形になり始めていた。
まだ穴だらけの計画だ。でも昨日まではゼロだった。ゼロと穴だらけの間には、大きな差がある。
ふとケンの方を見ると、毛布にくるまって眠っていた。乾パンの礼を、ちゃんと言えただろうか。言えていなかった気がして、明日言おう、と思った。
消灯後、奈々は手帳を開いた。
今日の一行を書くのに、少しだけ時間がかかった。
迷って、迷って、結局こう書いた。
―――――――――――――――
誰かが、人間を兵器に変えた。
―――――――――――――――
——明日も、目を開けたまま歩く。
ここまで読んでくださりありがとうございます。
次話は潜入前夜。
それぞれの覚悟の話になります。
感想・評価いただけると励みになります。
よろしくお願いします。




