東京編 第13話「目を開けたまま」
いつも読んでくださりありがとうございます。
第13話では、奈々が初めて
「自分の武器」を使う場面を描きました。
剣でも魔法でもない——
人を見る目、痕跡を読む力。
それがこの子の戦い方だと、
ずっと思っていました。
ゆっくり楽しんでいただければ嬉しいです。
目が覚めたとき、窓の外はまだ白んでいなかった。
ロビーの床に敷いたマットの上で、奈々は天井を見つめたまま少しの間動かなかった。
隣では誰かが寝返りを打つ気配がした。ガルドだろうか、それともシアだろうか——確かめようとして、やめた。起こしてはいけない気がした。今日はまだ、静かでいい日だ。
明後日から動き出す、とアルは言っていた。ということは今日は、その前日だ。
奈々は静かに体を起こした。
ロビーの片隅では、田中さん——中年の女性で、合流した三人のうち一番よくしゃべる人だ——が毛布を顎まで引き上げて眠っていた。その隣に佐々木さん(若い男性、二十代前半くらい)が丸まっている。一番奥の壁際では、足の悪い沼田さんが杖を胸に抱えるようにして横になっていた。
八人分の寝息が、建物の静寂の中に溶けていた。
奈々は音を立てないようにロビーを出て、階段の踊り場に座った。
窓から外を見ると、東京の空はまだ青黒い。遠くのどこかで火が燃えているのか、水平線の端がわずかにオレンジに滲んでいた。煙か靄か、判別できなかった。
昨夜アルに伝えた言葉が、頭の中でまだ響いていた。
怖いままで行くのが、戦うということだ。
ガルドの言葉だ。奈々が伝えたとき、アルは少し間を置いてから「……ふん」と言った。肯定とも否定とも取れない、アルらしい返し方だった。でも奈々には分かった。あの人はちゃんと受け取った。受け取った上で、それを顔に出すのが癪だっただけだ。
人を「駒」と呼ぶ人間が、一番人を見ている。
奈々はそう思いながら、膝を抱えた。
「眠れなかったのか」
背後から声がした。振り返ると、ガルドが階段を上がってきていた。鎧は着ていない。麻のような素材の、くたびれたシャツ姿だった。右腕の傷が薄闇の中でもはっきり見えた。
「起こしてしまいましたか」
「俺は元々浅い」
ガルドは奈々の隣に腰を下ろした。二人分の重みで踊り場がわずかに軋んだ。
しばらく二人とも黙って、燃えているような空を見ていた。
「今日、何をする気だ」とガルドが言った。
「情報を集めようと思って」と奈々は答えた。「施設がどこにあるか。RAの動き。周囲の安全な経路。アルが地図を持っているけど、地図に載っていないことがたくさんある気がして」
「たとえば」
「気配、とか」奈々は少し迷ってから続けた。「人が生きていた痕跡。最近誰かが動いたかどうか。地図には、そういうものは書いてない」
ガルドは一度鼻から息を吐いた。笑ったのかどうか分からなかった。
「一人で行くな」
「分かってます」
アルが目を覚ましたのは、夜が完全に明けてからだった。
いつも通り、起き抜けから表情の読めない顔をしていた。白髪が少し乱れていて、それだけが人間らしかった。手袋はすでに嵌めている。
「今日の行動方針を話したい」と奈々が言うと、アルは無言でロビーの中央に来た。シアとガルドもすでに起きていた。ケンは田中さんの隣で、まだ丸くなって眠っていた。
「今日は偵察に絞りたいと思います」
奈々は広げた地図の上に手を置いた。アルが昨日までに書き込んだ注釈が、所々に細かい字で並んでいた。
「アルの地図は北部を中心に情報が揃っている。でも施設があるとすれば、もっと南側か地下だと思う。RAは生存者が少ないエリアを好む。人目を避けたいから」
「根拠は」とアルが言った。批判ではなく、確認するような声だった。
「来るとき、北側よりも南側の方がゾンビの密度が高かった。ゾンビが多い=人間が逃げた=元々人が多かったエリア。でもRAが施設を作るなら、逆に人が少なかった場所を選ぶ。工場地帯か、倉庫街か」
短い沈黙があった。
「……悪くない」とアルが言った。「だが仮説だ。裏付けが要る」
「だから今日、動きたい」
南に向かう経路はアルがその場で引いた。
行くのは奈々、ガルド、シアの三人。アルは残ると言った。
「私は準備がある」
「準備?」
アルは答える代わりに、床に広げた紙を顎で示した。幾何学的な図形が、細い線で丁寧に描かれていた。奈々には何の記号か分からなかったが、アルが「陣」と呼んでいるものだということは、以前から何となく知っていた。
「使う場所に合わせて描き直す必要がある。時間がかかる」
それだけ言って、アルは紙に視線を戻した。
ケンはマンションに留まる。それは最初から決まっていた。
出発前、ケンが玄関まで見送りに来た。
「何か持ってく?」とケンが言った。
「いい。荷物は軽い方がいい」
「……そっか」
ケンは少し間を置いて、それから「帰ってきてね」と言った。命令でも祈りでもなく、確認するような言い方だった。
奈々は頷いた。「帰ってくる」
ケンは頷いた。
東京の朝は静かだった。
静かすぎた。
本来なら人の声がするはずの時間帯だ。車の音。電車の音。誰かが誰かに挨拶する声。それが全部ない。代わりにあるのは風の音と、遠くから聞こえる低い唸りだ。奈々は最初、それを風だと思っていた。今はもう、そうではないと知っている。
三人は廃墟の影を縫うように南へ進んだ。ガルドが先頭で障害物を確認し、シアが左右の気配を拾い、奈々が全体を見ていた。
全体を見る。それが自分の役割だ。
奈々は思いながら歩いた。剣もない。銃もない。柔道の基礎があっても、ゾンビ相手に寝技は使えない。自分が戦えないのは最初から分かっていた。でも、見ることはできる。感じることはできる。
人が生きていた痕跡を、見逃さないことができる。
工場地帯の入り口に差し掛かったとき、奈々は足を止めた。
「待って」
ガルドが振り返った。シアが周囲に目を走らせた。
「何かいるか」とガルドが声を低くした。
「いない」と奈々は言った。「でも、いた」
錆びた金属フェンスの支柱の根元。土が、不自然に踏み固められていた。一人ではなく、複数の人間が繰り返し通ったような固まり方だった。雑草が折れている向きが、奥へ向かって一方向に揃っている。
「最近、人が通ってる」
「生存者か」とシアが言った。
「分からない。でも——」奈々はフェンスの上部を見た。錆の中に、一本だけ新しい引っかき傷があった。何かを引っ掛けて超えた痕だ。高さからして、大人の腰のあたりに当たる。「荷物を持って、定期的に通ってる人間がいる。逃げ回ってる人は、こんなに規則的な痕跡は残さない」
ガルドが傷跡を見た。「……RA か」
「か、その周辺にいる誰かか」
三人は顔を見合わせた。
「追うか」とガルドが言った。判断を求める声だった。
奈々は少し考えた。正確には、「考えた」ふりをした。答えはもう出ていたから。
「追わない。場所を記録して、アルに渡す。今日は情報を集める日。戦う日じゃない」
ガルドは一度奈々を見て、それから小さく頷いた。
午後、三箇所で同じような痕跡を見つけた。
踏み固められた土。折れた草の向き。壁の低い位置についた黒い擦れ跡——重い荷物を引きずった痕かもしれなかった。
三点を地図に書き込むと、線で繋いだとき一点に収束する可能性があった。
工場地帯の奥。倉庫が密集しているエリア。
奈々は地図を見ながら、静かに息を吐いた。
あそこに何かある。
確信ではなかった。でも、確信に近い何かだった。
マンションに戻ったのは夕方前だった。
アルはロビーの床に陣の下書きを広げていた。帰ってきた三人を見て、手を止めた。
「収穫はあったか」
奈々は地図を広げて、三点を示した。
「ここ、ここ、ここに痕跡がある。定期的に人が通ってる。荷物を持って。逃げている人じゃない、目的を持って動いている人間の痕跡だと思う」
アルは地図を手に取った。しばらく眺めて、線を引くように指でなぞった。
「……収束する」と静かに言った。
「そう思った」
また短い沈黙があった。
アルは奈々の方を見た。何かを値踏みするような目だったが、奈々はもう慣れていた。
「一つ聞いていいか」
「どうぞ」
「なぜ追わなかった」
「今日は情報を集める日だから」
「それだけか」
奈々は少し考えた。
「それだけじゃない」と正直に答えた。「あそこで戦いが起きたら、倉庫の奥が騒ぐ。そうしたら場所が分からなくなる。静かなまま帰ってきた方が、次に使える」
アルはしばらく黙っていた。
「……私には見えなかった」と、ようやく言った。
声は平坦だった。でも奈々には分かった。それはアルにとって、かなりの言葉だった。
夜、消灯前にケンが奈々の隣に来た。
「今日どこ行ってたの」
「南の工場地帯」
「何かあった?」
「少し、分かったことがある」
ケンは少し間を置いた。
「危なかった?」
「危なくなかった」
「……そっか」
ケンはそれ以上聞かなかった。ただ隣に座って、しばらく一緒に暗い窓の外を見ていた。
奈々は何も言わなかった。ケンも何も言わなかった。
それで十分だった。
消灯後、奈々は手帳を開いた。
今日のことを、一行だけ書いた。
痕跡は嘘をつかない。
明日も、目を開けたまま歩く。
ここまで読んでくださりありがとうございます。
アルの台詞——
「……私には見えなかった」
この一言が書きたくて、
この章を書いたと言っても
過言ではありません。
次話からRA施設の場所が
いよいよ絞られていきます。
次話も読んでいただけると嬉しいです。
感想・評価いただけると励みになります。
よろしくお願いします。




