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他国に忍び込んですぐ、朱里は一人の重鎮の娘に目を付けた。
娘の名は、ライナード・チェルシー。宰相家の次女である。
そして次期国王となるエドワード・ルークの幼馴染であり、紅蓮の片腕である紅葉王子の思い人。
朱里はチェルシーの周りの動向を探り、求婚者の一人であるアーロイン男爵家の息子に接触を図った。
その男は非常に扱いやすかった。
汚い手を使うことに躊躇いはないが、うまく使うことが出来ない頭の悪い男。
チェルシー様を言いなりに出来る薬があると言う誘いにまんまと乗り、朱里が思う通りにバラを持ち込んだ。
しかしそこで予期せぬ失敗が起こる。
アーロイン男爵家の息子が、エドワード・ルークの手の者に捕らえられたのを知り、朱里は思わず舌打ちしたくなった。
なぜばれた? 計画は万全で、それが漏れる危険もなかったはずだ。
しかし失敗は取り返せない。
朱里はすぐに計画の変更を練った。
幸運なことに紅葉王子と朱里の姿は瓜二つ。
同母弟でさえ、ここまで類似することなど稀であろう。まして朱里と紅葉王子は、半分しか血が繋がらない。
紅蓮が最も信頼する紅葉王子と、国に混乱を齎そうとする朱里の姿が似て生まれたのは、何という皮肉だろうか。
しかしその姿は、苑にいる時ですら有利に使えた。
他国に置いてもしかり。朱里はじっと機会を待った。
紅葉を殺し、すり替われるその時を。
苑は前王の愚行により、落ち着きを見せない。紅蓮の手腕を持ってしても、あと数年はかかる。
王家に忠誠を誓う影の数も愚王の代に数を減らした。
苑を離れた紅葉を守る者は少ない。
朱里が待ち望んでいた機会が訪れたのは、紅葉王子が宰相の家を辞した時であった。
紅葉とその手の者が馬車を離れた隙に、朱里はうろついていた子供に声をかけた。暇を持て余していた子供は、すぐに言う通りにした。
子供は邪気なく紅葉の馬車に近づくと、朱里が手渡したニンジンを二頭の馬に与えた。
馬車の見張りをしていた男は、子供が楽しそうに馬に餌を与えているのを見て見ぬふりをしていた。
あげてきたよと、と無邪気に笑う子供に礼を言って小遣いをやると、子供は不思議そうに目を瞬かせてから、それを受け取った。
子供は馬に餌をやるだけでなぜ、小遣いを手にできたのか分からぬだろう。
子供が与えたニンジンは、朱里が丹精込めて作った毒物を含んだものなのだとは、到底知らぬのだから。
その毒はじわりと体内を侵すものであるが、体を動かせば動かすほど速く回り出す。
つまり馬車を動かした時、その毒は効果を発する。
朱里は紅葉王子が通るであろう道に身を潜ませ、様子を伺った。
馬車が通り過ぎるその時、紅葉王子と影の首領の声が聞こえた。
油断ならぬので確認できたのは本の一瞬だが、自身のものと似ている紅葉の声を間違うはずがない。
薬に侵されてきた馬の目が常軌を逸したものになり、口元から泡を吹き出し、明らかに興奮状態になってきているのも見えた。
それから先は、別の者に確認をさせたが、朱里の目論見通り自我を失った馬は闇雲に走り続けた。
狂った馬は制御を失う。馬車の車輪は外れ、紅葉がいる屋形は横転した。
馬車は森の中に差し掛かかり、しかし岩や木の根で道が悪いことは馬の妨げにならなかった。
倒れたままの屋形を暫く引きづり続けたのだから、馬の底力は恐ろしい。最も、朱里が与えた薬の効果もあるのだけれど。
朱里は計画通りの事が運んだのを知ると、紅葉が好みそうな服を纏い、チェルシーを迎えに行った。
紅葉になり変わった朱里はチェルシーを伴い、ルークが主催する舞踏会に向かった。
優しい笑みからは、禍々しい毒の気配を微塵も感じさせない。
「チェルシー、喉が渇いたでしょう」
物腰柔らかくグラスをチェルシーに渡す朱里。
大切にパートナーを扱うように見せかけながらも、内心では凡庸なチェルシーを値踏みしていた。
朱里にはチェルシーのどこに紅葉が惹かれたのか、さっぱり分からなかった。
醜女ではないが取り立てて美人ではなし、その体も年頃の娘に比べ、女の魅力が足りない。
いわば、十把一絡げの女。
唯一の長所と言えば、位の高さだろうか。
大国の宰相の娘ならば、例えその顔が見られぬものであったとて、引く手あまたであろう。
この大国と縁を結びたい者は掃いて捨てるほどいる。
しかももう一つの利点として、次期王であるエドワード・ルークと幼友達であるということ。
チェルシーの頼みならば、ルーク王太子殿下も無下にせぬほどの扱いらしい。
さてこの娘がルーク王太子殿下に及ぼす影響力はいか程かと探るために振る舞ってみれば、朱里は思いもよらぬ結果が得られた。
恐らくルーク王太子殿下は、チェルシーに惹かれている。
そうでなければ、チェルシーの体に触れるたびに、あのような苛立ちを宿す目で見てくるはずがない。
ダンスをする際に、必要以上に体を密着させ、耳に触れんばかりに唇を近づかせると、顔を真っ赤にして狼狽えた。
公の場であからさまに拒絶しては、相手に恥をかかすと思ってか、心持ち腰を引くだけに留め、視線をうろうろと彷徨わせている。
男に慣れておらぬと表すその仕草は幼く、そして愛らしかった。
苑は法が多数の婚姻を認めている故に、性に奔放な国である。年頃になれば男も女も色恋を覚え、早くして経験を積む。
チェルシーのような年になってまで、このように男に慣れぬ様子を見せる娘は苑には稀であり。
些細な触れ合いに、過剰な反応を示すチェルシーを見るのは朱里には新鮮であった。
役得であったな、と思いながら朱里がチェルシーの腰を引き寄せれば、ルークの視線を感じた。
立場上、あからさまに感情を露わに出来ぬ男のはずだが、ああも向けられてしまえば、気づかぬ方がおかしい。
主賓に囲まれ、言葉を交わしながらも、ルークはチェルシーに意識を向けている。
この娘、思った以上に使えそうだ。朱里は薄暗く笑った。
チェルシーをルークはやむ得ぬこととして切り捨てることは出来ないだろう。
朱里は純度の高いブトウ酒をチェルシーに飲ませ、再びダンスに連れ出す。
少々酒がまわったのか、チェルシーの頬はほんのりと赤く、目元は潤んでいた。
大広間の熱気もあり、暑さを感じているようであった。
広間の片隅に体を休め、扇子で自身を仰ぐチェルシーに付き添う。
舞踏会も中盤に差し掛かり、ルークの元には引っ切り無しに人が集っていた。
閨に呼ばれる可能性を掛けた姫君たちが、王太子を囲っている。
ある者は豊満な胸をドレスの中から見せつけ、ある者は意味ありげな視線を送り、ルークの腕にしなだれかかっている。
さて、そろそろ頃合いだなと朱里がチェルシーに視線をやれば、チェルシーは何とも言えぬ眼差しで、美姫に囲まれるルークを見ていた。
四方から寄せられる秋波にまんざらでもない様子のルーク。
それを見つめるチェルシーの目は、切なさと諦めを含んでいた。
朱里は二人の関係を計りかねた。
チェルシーにわが物顔で触れる朱里に向ける敵意。
そして控えめながら、上品に飾り立てたチェルシーを見る目。
あれは到底ただの友に向けるものではない。
一人の男が、好いた女に向ける目だ。
色狂いの王が作った後宮で生まれ育った朱里は、そういった心の動きに敏い。
しかし、ルークがチェルシーを手にしようと思えば容易なことであるのに、紅葉がチェルシーを伴うのを許した。
公の場で、それを許すのは二人の関係を許すことに他ならない。
色恋に疎いのはお国柄か? と朱里は面白く思いながら、外の風に当たって少し涼みましょうか? とチェルシーに声を掛ける。
チェルシーはゆっくりと目を伏せてルークの姿を視界から消し、朱里の方へ顔を向けた。
そうだね、と少々寂しげに笑うチェルシーの腰を引き、中庭へと連れ出した。




