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夫が浮気しましたので、庭ごと出てまいります  作者: 桜井花恋


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第53話:土は、貸すものです

 十一月十日でございます。


 六時に灰坂を出て、七時半に東門へ着きました。並べ終えたのは九時でございます。左右に十五ずつ、三十鉢。白でございます。式は十一時から、一時間半でございました。


 終わって、片づけを始めましたところへ、式部の書記の方が参りました。


「灰坂の者、二人とも参れとのことでございます」


 ノラが荷車の脇で手を止められました。


「あたしもですか」


「二人とも、と伺っております」


 わたくしは、花暦を持ってまいっておりました。写しではございません。もとの一冊を、油紙に包んで箱に入れたものでございます。持ってまいれとは言われておりません。ただ、置いてくる理由もございませんでした。


 通されたのは階段の西の部屋でございます。窓が三つ。十一月の昼でございますので、蝋燭は要りません。卓が一つ、その上に系統帳がございました。


 セリアン様が卓の脇に立っておられます。手袋をしておられません。


 殿下は窓のほうにお立ちでした。


「灰坂の」


「はい」


「三十、ありましたね」


「三十でございます」


 殿下は卓のほうへ歩いてこられました。裾が段を擦る音がいたしません。この部屋は絨毯でございます。四月の階段では、二段ぶん擦っておられました。


「持ってきましたか」


 わたくしは、箱を出しました。油紙を解いて、花暦を卓に置きました。


 殿下はそれを一度もご覧になりませんでした。かわりに、こう仰いました。


「一枚目を、開きなさい」


 わたくしは、開きました。


 紙は十五年ぶん褪せております。上に二行。その下に、わたくしの字で十四のときからの記録が続いております。殿下はその二行の上に指を置かれました。触れずに、一寸ほど上でございます。


「わたくしの字です」


 部屋が静まりました。


 わたくしは、その二行を見ておりました。細うございます。右へ流れます。


「殿下」


「はい」


「これは、いつお書きになりましたか」


「二十四年前です」


 殿下は窓のほうへ目を戻されました。


「二十六年前に、わたくしは四十鉢を持って参りました。サンティエの白い薔薇です。二年で、三十七枯れました。三年で全部枯れたことになっておりますが、そうではありません。残った三つは、三年目に王城の外へ出しました。帳面の上では、枯れたのと同じです」


「はい」


「王城の庭師が十四人、総出で世話をして、それでも枯れました。誰も悪くありません。土が違っただけです」


「はい」


「残った三つも、その年の冬に枯れると言われました。それで、町の薬師の娘を呼びました。土を作るのが上手だと聞いたからです」


「アメリー様でございますか」


「アメリーです。二十一でした」


「あの娘は、その年のうちに三つを掘り上げて、この国の台木に接ぎました。三つとも活着いたしました。土を作り直すのに、そのあと二年かかっております」


「三つとも、残りましたか」


「残りました」


 殿下はセリアン様のほうへ目をお向けになりました。


 セリアン様が、系統帳を開かれました。第百七号でございます。


「監督官」


「はい」


「その頁の、年を読みなさい」


「……二十四年前でございます」


「三つが生きた年に、番号がつきました。この国の台木に接いだのですから、この国の株です」


 殿下はいちばん上の四角をご覧になりました。


「母株の欄は、空白でしょう」


「空白でございます」


「そこには、こう書いてありました」


 殿下はご自分の指で、空の四角の上をなぞられました。


「サンティエ国。王妃殿下」


 わたくしは、擦った紙の凹みを思い出しておりました。六文字と、四文字でございます。


 セリアン様が、頁に手を置かれました。この方が手袋を外されるのを見たのは、三度でございます。七月に灰坂で土を掴まれたとき。十一月三日に蝋燭の芯を摘まれたとき。それと、今でございます。


「殿下」


「はい」


「これを削らせたのは」


「わたくしです」


 セリアン様は動かれませんでした。


「あの三つは、わたくしのものです。わたくしが渡しました。書付はありません」


「はい」


「けれど帳面には、三つが王城から出たことを書かねばなりません。監督官がそう申しました。数が合わぬ、と」


 殿下は卓に手を置かれました。


「町の薬師の娘へ渡した、と書けば、あの娘が困ります。二十四年前は、そういう時代でした」


「それで、返礼と」


「わたくしが、そうしなさいと言いました。返礼なら、家でなくてもよいと」


 殿下はそこでセリアン様をご覧になりました。


「返礼と書けば、母株の欄が書けません。わたくしのものだと書けば、返礼になりませんから」


「……削るよりほかに、なかった」


「ありませんでした。監督官は、三度断りました。四度目に、削りました」


 セリアン様は頁を見たまま、しばらく黙っておられました。それから、こう仰いました。


「父は、そのことを、一度も申しませんでした」


「申せません。わたくしが命じました」


 わたくしは、二人のほうを見ておりませんでした。花暦の一枚目を見ておりました。


「殿下」


「はい」


「この二行は、なぜお書きになりましたか」


 殿下は少しのあいだ、お答えになりませんでした。


「サンティエの、借地の証文の決まり文句です」


「伺っております」


「わたくしは、この国の土を借りました」


 殿下は二行のほうへ目を落とされました。


「三つが残ったのは、わたくしの手柄ではありません。ですから、あの娘に渡すときに、紙を一枚つけました。何も書くことがなかったので、あの言葉を書きました」


「はい」


「あの娘は、その紙を綴じずに置いておいたようです」


「十五年前に、わたくしがいただきました。義母様は、白い紙だと仰いました」


 殿下はそこで初めて、少し目を細められました。


「白い紙、ですか」


「はい。書いておきなさい、と。あなたの頭は、あなたが死ぬときに一緒に死ぬから、と」


 殿下はしばらく黙っておられました。


「そう」


「殿下」


「はい」


「四月に、帳面はまだ二冊かとお尋ねになりました」


「アメリーは、二冊にしておりました。納屋が一棟なら、火が出たときに一度で消えると、あの娘が申しました」


「はい」


「同じことをする者が灰坂におると、式部から聞きました。十二月に、紙を八十六枚と、綴じ糸を求めた者がいる、と」


 紙屋と糸屋の帳面でございます。買った先までは考えておりませんでした。


 それから、殿下はセリアン様のほうへ向き直られました。


「監督官。母株の欄を、書きなさい」


「かしこまりました」


「それと、新しい頁を立てなさい」


 セリアン様が、顔を上げられました。


「番号は、第二百三十一号です」


「名はアメリー。母株は第百七号。育てた者の欄を作って、そこに名を入れなさい」


「……名は」


「エルシャです」


 わたくしは、頭を下げました。顔を上げたときに、セリアン様が筆を持っておられました。


「監督官」


「はい」


「第百七号が王家の株でないのなら、返還の根拠はどうなりますか」


 セリアン様は筆を置かれました。


「……ございません」


「では、どうしますか」


「三十八株、返します」


 殿下はうなずかれました。


「灰坂の」


「はい」


「あなたは、何か望みますか」


 わたくしは、少し考えました。


「一つ、ございます」


「言いなさい」


「王城の三棟目の温室で、母株を替えるお許しをいただきとうございます。若い枝から採り直しませんと、あと三年で立ちません」


 殿下はセリアン様のほうをご覧になりました。セリアン様は少し間を置いて、こう仰いました。


「それは、わたしが許す」


 部屋を出るまで、ノラは何も仰いませんでした。廊下へ出てから、袖を引かれました。


「奥様」


「はい」


「あたし、いま、系統帳の字、見えてました」


「読めましたか」


「三つだけ読めました。〈土〉と、〈白〉と、〈アメリー〉です」


 灰坂へ帰る乗合で、前の席の方が話しておられました。


 レーンフェルト伯爵家の丘が、売りに出たそうでございます。馬場は途中で止まっているとのことでございました。

【今日の花暦】


接ぎ木は、品種を運ぶ道具でございます。土の合わない場所へ来た株でも、その土地の台木に接げば根が持ちます。上は南のもの、下はこの国のもの。二十四年前に三つ生き残ったのは、そういう株でございました。


 削らせたのは、殿下でした。前の監督官は三度断って、四度目に削りました。その息子は十一年、父を庇うために血筋の話をしておりました。誰も、得をしておりません。


 系統帳の第二百三十一号に、アメリーという名の頁が立ちました。育てた者の欄は、この日に新しく作られたものでございます。


 次回、丘が売りに出ます。買った方が、奥様に一つお尋ねになります。


 ブックマークと評価は、苗の土代に充てさせていただきます。

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