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夫が浮気しましたので、庭ごと出てまいります  作者: 桜井花恋


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第50話:監督官の、白い手

 十一月三日でございます。


 監督官の部屋は北向きでございます。十一月の午後は蝋燭が要りました。二本、卓の端に立ててございます。


 卓の上に、系統帳がございました。革の表紙。金の箔。厚さ三寸。


 閉じたままでございます。


「掛けよ」


 わたくしは、腰掛けに座りました。座れと言われたのは初めてでございます。


「そなたに、聞くことがある」


「はい」


 セリアン様は卓の向こうに立っておられました。座られません。


「そなたのところの弟子が、四月四日に来た」


「はい」


「三時間、門の前におった」


「はい」


「そのあと、三棟目の台の上の三十一鉢だけ、水のやり方が変わった」


 わたくしは、答えませんでした。


「五日おき。鉢によって日が違う。土に指を入れて、乾いていればやる。乾いていなければ触らぬ」


「はい」


「あれは、そなたの書いたものだな」


「わたくしが書きました。お渡しはしておりません」


「写しか」


「存じません」


 セリアン様はそこで少し目を閉じられました。北向きの部屋で蝋燭を二本立てて、朝からお仕事をなさっているのだと思います。目を使う仕事は、北の窓のほうが疲れません。光が変わらないからでございます。疲れるのは、光ではなく、変わることのほうでございます。


「エルシャ」


「はい」


「そなたは、なぜ告げに来なかった」


 わたくしは、少し考えました。


「何を、でございましょう」


「五十一枯れる前にだ。三月に、あるいは四月に、床の鉢を台へ上げよと、そなたが来て言えばよかった」


「二度、申し上げました」


「……」


「十二月に一度、二月に一度でございます。どちらも、置き場と、水のことでございました」


 セリアン様は卓に手を置かれました。指の先が、系統帳の表紙の縁に触れております。触れて、そこで止めておられました。開くまでに、しばらくございました。


「覚えておる」


「はい」


「そなたは、それきり来なかった」


「頼まれておりませんでしたので」


 しばらく、何も仰いませんでした。


 蝋燭の芯が一度はぜて、火が小そうなりました。セリアン様は指で芯を摘まれました。素手でございます。


 それから、系統帳を開かれました。


 三分の一ほどのところでございます。慣れた開き方でございました。何度も同じ頁を開いた方の開き方でございます。


「見よ」


 わたくしは、立って、卓の前まで行きました。蝋燭は二本とも卓の端でございます。開いた頁の上には、影が落ちておりません。読ませる置き方でございました。


 系統帳は思っていたより重うございました。紙が厚いのでございます。二百三十枚を綴じて、厚さが三寸。一枚が並の紙の三倍ほどございます。厚い紙を使うのは消して書き直すことがあるからでございます。薄い紙では、削れば穴が開きます。


 綴じ糸は麻ではございません。絹でございました。切れにくく、伸びません。花暦の綴じ糸は麻でございます。三度替えました。この帳面は二百三十枚で一度も替えていないように見えました。


 第百七号でございます。


 ユアン様の写しのとおりでございました。名は空。年の欄は二十四年前。同じ年の追記で、下賜先にアメリー・レーンフェルト。三株。奉納の返礼。


 いちばん上の四角が、空でございます。


 近くで見ますと、擦った紙よりはっきり分かりました。四角の中だけ、紙が薄うございます。光にかざさなくとも指で触れれば毛羽立ちが分かります。


「削ってある」


 セリアン様が、そう仰いました。


「はい」


「わたしではない」


「はい」


「父だ」


 わたくしは、顔を上げました。


「エドモン・ヴェルニエ様でいらっしゃいますか」


「知っておったか」


「十九年前の契約書付に、お名前がございました」


「そうか」


 セリアン様は頁に手を置かれました。指が、四角の縁に触れております。


「二十四年前、殿下が薬師の娘へ株を三つお渡しになった。書付はない。命でもない。お渡しになっただけだ」


「はい」


「父は、それを帳面に書かねばならぬ。株が三つ、王城から出ておる。数が合わぬ」


「はい」


「家格のない娘へ下賜した、とは書けぬ。書けば、前例になる。前例になれば、次から誰でも申し出る」


 セリアン様はそこで一度、息を吐かれました。


「それで、返礼と書いた。返礼なら、家でなくてもよい。……返礼の元がないので、出どころが書けぬ。だから、削った」


「削れば、読めなくなります」


「読めなくするために削るのだ」


 わたくしは、その四角を見ておりました。四角の縁は、線が二本ございます。一本は帳面の罫でございます。もう一本は、削ったときに刃が止まった跡でございました。刃を入れた方は、四角の外へは出しておられません。中だけを、きれいに消しておられます。


「監督官様」


「なんだ」


「この頁を開かせないでいらしたのは、いつからでございますか」


「十一年だ」


「お父様が亡くなられてから、でございますね」


「そうだ」


 セリアン様は、頁を閉じられませんでした。開いたままでございます。


「わたしは、父の書いたものを守っておるのではない」


「はい」


「父が、それを書いた者として残ることを、避けておるのだ」


 わたくしは、蝋燭の火を見ておりました。火は、風のない部屋でもわずかに揺れます。人が息をするからでございます。三人おりましたら、三人ぶん揺れます。この部屋には二人でございました。


「監督官様」


「なんだ」


「血筋のお話は」


「あれは、盾だ」


 セリアン様は、初めてこちらを真っ直ぐご覧になりました。


「品種は血筋である、と言い続ければ、誰も出どころを問わぬ。血筋の話にしておけば、始まりは問われぬ。始まりを問われれば、この四角に行き着く」


「十一年、そう仰っておられましたか」


「そうだ」


 わたくしは、頭を下げました。


「そなたは、何も言わぬのか」


 わたくしは、顔を上げました。


「わたくしは、庭師でございます」


「それは答えではない」


「削ったのはお父様で、守ったのは監督官様でございます。どちらも、わたくしの株とは関わりのないことでございました。ただ、株は八十九、返しました」


「返した」


「返しました」


 セリアン様は、しばらく黙っておられました。開いたままの頁に、手は置いておられません。閉じるおつもりがないのだと思います。閉じれば、この話は今日で終わります。


 それから、こう仰いました。


「十一月五日に、来い」


「はい」


「南の列の土を、見てほしい」


 わたくしは、その言葉を二度、頭の中で繰り返しました。


「見てほしい、と仰いましたか」


「二度言わせるな」


「かしこまりました」

【今日の花暦】


蝋燭の芯を指で摘むのは、火が小さくなったときでございます。芯が長いと、炎が揺れて煤が出ます。煤は紙に落ちます。帳面を開く部屋では、芯は短く保ちます。この所作は、紙を扱う仕事の人の癖でございます。


 監督官が守っていたのは、父の書いた記録ではありませんでした。父が「それを書いた者」として残ることのほうです。十一年、そのために血筋の話をしておりました。


 次回、王城花壇の南の列を掘ります。三寸の下は砂でございます。奥様は、年数を申し上げます。

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