第5話:三日後の、十時に
一日目にしたのは土を割ることでございました。藤棚の下の土は二十年踏まれて板のようになっております。鋤では入りません。細い鉄棒を刺して、少しずつ穴を開けます。棚の際から一尺のところに、五寸おきに。
「奥様、これ何してるんですか」
「息をさせております」
「土が息するんですか」
「根が息をします」
ノラは鉄棒を持って、穴を開け始めました。二十本ほど開けたところで、手を止められました。
「奥様。あたし、思ったんですけど」
「はい」
「これ、咲かせるっていうより、起こしてる感じですね」
わたくしは、少し手を止めました。
「そうですね」
穴に、水を入れました。馬糞は使えません。生のものを根の近くに入れると、発酵の熱で根が焼けます。分けていただいた山のうち、下のほうの黒く崩れたものだけを掻き出して、薄く敷きました。三年は経っております。その上から、水を打ちました。
一日目はそれで終いです。二日目、風が変わりました。朝から北風でございました。気温が下がります。藤は温度で開きますので、これは困ります。わたくしは荷馬車屋の物置から古い帆布を借りました。
「これを、棚の北側に張ります」
「風除けですか」
「風除けと、あとは夜の温度を落とさないためです」
ハンナ様のお父上が出てこられて、脚立を出してくださいました。マイエルさんと申されます。無口な方でした。帆布を張るあいだ、一言も仰いませんでした。張り終わって、こう仰いました。
「間に合うのか」
「間に合わせます」
「間に合わなかったら」
「別のものを咲かせます」
マイエルさんが、初めてわたくしをご覧になりました。
「別の」
「灰坂に、鉢がございます。白い薔薇でございます。二十鉢なら運べます。棚の下に並べれば、花の下で誓いを立てられます」
マイエルさんはしばらく黙っておられました。
「……藤がいいんだ」
「はい」
「あれはうちの婆さんが植えた」
「はい」
「娘はあの下で育った」
わたくしは頭を下げました。
「明日の夕方までに、蕾の色が変わります。変わらなければ、薔薇を運びます。どちらにしても、十時には花の下でございます」
二日目の夜、蕾を見に行きました。帆布の中は、外より二度ほど暖かいはずです。灰色の芽が、少し膨らんでおりました。先のところが、わずかに緑がかっております。これで、開きます。ただ、時刻が問題でございました。藤は朝に開きます。日が当たって、温度が上がった順に、房の上から下へ。
十時に房の半分が開いていれば上出来です。ですが、この棚は東向きで、朝の日が入るのは八時からです。二時間では、上の三段しか開きません。わたくしは帆布をもう一枚借りました。
三日目の朝、五時に起きました。帆布を、南側にも張りました。二枚で囲って、下に炭を入れた火桶を三つ置きます。棚の下だけを、朝より先に暖めるのです。
「奥様、これ、危なくないですか」
「炭は熾火にして、灰を被せます。炎が出ればやめます」
六時に、火桶を入れました。七時に、帆布の中の温度が上がりました。手を入れると、外より四度ほど違います。八時に、日が入りました。わたくしは帆布を外しました。九時四十分に、房の上から二段目が開きました。九時五十分に、四段目。十時に、七段目まで。
藤の房は、上が開くと下へ順に落ちてゆきます。開いた花は薄紫で、開く前の蕾は灰色ですから、上が紫で下が灰色の、途中の姿になります。わたくしはそれが一番きれいだと思っております。全部開いた藤は、ただ紫の塊です。途中の房は、まだ続きがあるように見えます。
ハンナ様のお姉様は、その下を通られました。白い簡素な服でございました。荷馬車屋の婚礼ですから、客は二十人ほどです。近所の方と、婿方のご親戚と。誰も、藤の話をなさいませんでした。当たり前でございます。藤は毎年咲くものですから、咲いていて当たり前なのです。
マイエルさんが、わたくしの隣に立たれました。
「いくらだ」
「三リルでございます」
「安い」
「三日でございますから」
「安い」
マイエルさんは革の袋から硬貨を数えられました。三リル出して、それから、もう五リル足されました。
「これは、婆さんの分だ」
その夜、花暦に書きました。――七月十四日。マイエル藤棚。前年夏剪定なし。花芽あり。土は硬結、鉄棒五寸間隔。三年堆肥、薄く。北風のため帆布二枚、熾火三。八時に開始し九時四十分で二段。十時に七段。それから、下にもう一行、書き足しました。――客は誰も藤の話をしなかった。
「奥様」
ノラが麻布の上から声をかけてこられました。
「何を書いてるんですか」
「花暦でございます」
「日記ですか」
「順番の記録です。何をしたら、何日後に開いたか」
「それ、何年ぶんあるんですか」
「十五年です」
ノラは、しばらく黙っておられました。
「――で、それ、いつ咲くんですか」
「藤は、もう咲きました」
「じゃなくて、あの、白いのです。二百十四の」
わたくしは仮伏せの列のほうを見ました。暗くて、土の畝しか見えません。
「九月の初めです」
「間に合いますか」
「堆肥が足りません」
ノラは荷馬車屋の裏の山のほうを見ました。
「馬糞、まだ山になってましたけど」
三日後、灰坂に荷馬車が来ました。王都から来た行商の方です。麦と塩を積んでおられました。井戸を掘っているわたくしを見て、こう仰いました。
「あんた、レーンフェルトの庭にいた人か」
「以前おりました」
「あそこ、いま妙なことになってるぞ」
わたくしは鋤を止めました。
「妙な」
「荷馬車三台ぶん、薔薇の株を買い入れたそうだ。王都の苗屋が三軒、在庫を空にしたって話でな」
「そうですか」
「それがな」
行商の方は、荷台の縁に腰を掛けられました。
「植えて四日で、萎れ始めてる」
【今日の花暦】
藤を咲かせる合図は三つです。水、温度、それに日の当たる時刻。時刻は動かせませんので、動かすのは温度のほうです。帆布と炭で、朝を二時間だけ早めました。
誰も藤の話をしませんでした。婚礼の客にとって、藤は「咲いているもの」です。仕事がうまくいくと、仕事は見えなくなります。マイエルさんが三リルに五リル足したのは、そのことをご存知だったからだと思います。
次回、王都の外れの噂話でございます。丘の上の庭に、荷馬車三台ぶんの薔薇が届きました。四日で萎れているそうです。理由は、土の中にあります。




