第4話:灰坂に、百の鉢を並べる
灰坂は王都の南の外れでございます。昔は瓦を焼いていた土地で、地名もそこから来ております。窯を潰したあとの土は焼けて白く、草も膝までしか伸びません。母が四十年前に借りて、死ぬまで返さなかった土地です。荷馬車を止めたとき、ノラが荷台から降りて、あたりを見回しました。
「奥様」
「はい」
「家がないですね」
「小屋がございます」
「あれ、屋根が半分ないですけど」
「半分ございます」
井戸は埋まっておりました。石を落として塞いだのではなく、風で運ばれた土が三十年かけて埋めたものです。掘れば出ます。ただ、今日は出ません。株は二百十四ございます。麻布に巻いた根はあと二日で乾きます。
「ノラ、水はどこから来ますか」
「井戸が埋まってるなら、川ですかね」
「川は四百歩ございます」
「往復ですか」
「往復です」
ノラは桶を二つ持ちました。
「あたし、一度に四つ持てます」
「四つは無理です」
「持てます」
「持てても、こぼします」
ノラは桶を二つに戻しました。夕方までに、株を仮植えいたしました。鉢がございませんので、地面に浅い溝を掘って、根を並べて土をかけるだけです。仮伏せと申します。根が乾かなければ、それで一月は持ちます。列は十四本になりました。西から東へ、花期の早いものから順に。
日が落ちる少し前に、荷馬車が一台、街道を通りました。止まりました。降りてこられたのは、背の高い男の方でございました。外套の裾に泥が跳ねております。北から来られたのだとわかりました。この時季にあの色の泥がつくのは、王都より北の道だけです。
その方は街道から仮伏せの列を見ておられました。それから、荷馬車の荷台をご覧になりました。麻布に巻いた株が、まだ二十ばかり積んであります。根を上に、枝を下に向けて重ねてございました。
「根を上に向けて積んでいる」
声は低くて、聞き取りにくいものでした。
「……賢い」
わたくしは頭を下げました。
「枝は折れても春に出ますが、根は折れると出ません」
その方はそれに答えられませんでした。代わりに、こう仰いました。
「北は、霜が早い」
「はい」
それだけ仰って、荷馬車に戻られました。名も、行き先も、伺っておりません。井戸のことも、決めておかなければなりません。わたくしは、埋まった跡の中心に縄を張りました。母の代の井戸は、石組みが深さ三間ほどございます。埋めたのは風で運ばれた砂ですから、掘れば戻ります。ただ、三間を一人で掘るのは、ひと月仕事でございます。
「奥様、水はどうするんですか」
「明日から、川を往復いたします」
「井戸は」
「掘ります。ただ、急ぎません」
ノラは、縄の張られた円を見ておられました。
「急がないんですか」
「急いで底まで掘ると、壁の砂が崩れます。一日に一尺ずつ、崩れを均しながら掘ります」
「それだと、いつ水が出るんですか」
「早くて四日目でございます」
ノラは、少し驚かれた顔をされました。
「四日で、間に合うんですか」
「間に合わせます。それまでは、川を往復いたします」
わたくしは、縄の内側に鋤を入れました。夜、小屋の残った半分に麻布を張って寝床にいたしました。ノラは屋根のある側で丸くなって、すぐに寝てしまわれました。手のひらに桶の縄の跡が、四本ついておりました。わたくしは花暦を開きました。七月十一日の頁に、こう書きました。
――灰坂へ移す。二百十四。仮伏せ。井戸なし。土は焼け土。砂は足りている。堆肥がない。
堆肥がございません。これが一番の問題でございます。焼けた土は水を持ちません。水を持たない土では、根が伸びる前に乾きます。堆肥を積むには、落ち葉と、藁と、家畜の糞と、三か月の時間が要ります。
三か月あれば、十月です。九月三日には、間に合いません。翌朝、戸を叩く音がありました。娘が一人、立っておられました。十七か十八でしょう。灰坂の下の、荷馬車屋の娘さんだそうです。名はハンナと申されました。
「あの、ここ、庭師さんが入ったって聞いて」
「庭師でございます」
「うち、藤があるんです」
「藤」
「三日後に、姉の婚礼で。藤の下で誓いを立てるって、去年から決めてて」
ハンナ様はそこで言葉を切られました。
「まだ、一つも咲いてないんです」
わたくしは手を拭きました。
「見せていただけますか」
藤棚は、荷馬車屋の裏にございました。棚は古いものです。竹を組んで、上に藤を這わせております。蔓は太く、二十年は経っております。わたくしは蔓の先を一本、指で挟みました。花芽が、ございました。固く締まった、灰色の芽です。ちゃんとついております。
「ハンナ様」
「はい」
「去年の夏に、この棚を剪られましたか」
「え、あの、父が。伸びすぎて屋根に届くって」
「いつごろ」
「たしか……秋の、終わりごろだったと」
「では大丈夫です」
ハンナ様が、顔を上げられました。
「咲きますか」
「藤は、花芽を前の年の夏に作ります。今年の芽は、去年の夏にできております。もう中にございます」
「じゃあ、なんで咲かないんですか」
「開く合図が来ていないのです」
わたくしは棚の下の土を見ました。固く踏まれております。荷馬車屋ですから、人と馬が毎日通ります。水が入っておりません。
「三日後の何時でございますか」
「朝の、十時です」
わたくしは空を見ました。今日は曇りです。明日は晴れると思います。風は南から来ております。
「間に合わせます」
「ほんとうに」
「ただし、条件が二つございます」
「はい」
「一つ、明日から三日、この棚の下に馬を通さないでください」
「わかりました」
「二つ、堆肥をお持ちでしたら、少し分けてください」
ハンナ様はきょとんとされました。
「馬糞なら、山になってますけど」
「では、荷馬車を一台、お借りできますか」
【今日の花暦】
藤は花芽を前の年の夏に作ります。だから冬に剪ると咲きません。逆に言えば、芽がついているなら、咲かせるのは開く合図を作るだけの話です。合図は、水と温度と、あと一つあります。
荒れ地に着いた奥様が最初に困ったのは、井戸でも屋根でもなく堆肥でした。地味な話ですが、堆肥がないと三か月が消えます。三か月消えると、九月三日に届きません。ここは覚えておいていただくと、あとで少し効きます。
次回、三日後の朝でございます。婚礼は十時です。藤が開くのは、何時になるでしょうか。




