第47話:前の監督官の、名前
十月二日に、ソレル先生のところへ参りました。
伺いたいのは一つでございます。十九年前、伯爵家が建国祭の献花を始めたときの契約書付でございます。書かれたのはソレル先生でございます。
先生は棚から箱を出してこられました。木の箱で、蓋に年が書いてございます。
「十九年前ですな。写しがございます」
紙は三枚でございました。一枚目に品目と数、二枚目に日付と場所、三枚目に署名でございます。
三枚目を、見せていただきました。紙は、十九年で縁が茶色になっております。墨は、まだ黒うございました。良い墨は、紙より長う保ちます。
レーンフェルト伯爵家の側は前の伯爵の署名。立会がソレル先生。
王城の側に、二つございました。
式部の書記の名が一つ。もう一つが、王城花壇監督官でございます。
――ヴェルニエ。わたくしはしばらくその字を見ておりました。
「先生」
「はい」
「この方は」
「当時の監督官です。名は……エドモン・ヴェルニエと申しました。二十年ほど務めて、亡くなっております」
「いつでございましょう」
「十一年前です。急でした。冬に倒れて、そのまま」
「そのあとの監督官は」
「ご子息です。セリアン・ヴェルニエ様。当時、三十を過ぎたばかりだったと思います」
わたくしは三枚目を置きました。
「先生。二十四年前の下賜も、この方が書かれたことになりますか」
「二十四年前でしたら、エドモン・ヴェルニエ様が監督官です。系統帳の記載は監督官の手でございますから、そうなります」
わたくしは擦った紙を出しました。ユアン様が持ってこられたものでございます。
「ここに、削った跡がございます」
先生は光にかざされました。それから眼鏡を上げて、また下げられました。
「六文字と、四文字ですな」
「はい」
「削るのは、書いた本人か、書いた者に命じられる立場の者です。系統帳は監督官の手を離れません。ですから、削ったのはエドモン・ヴェルニエ様でしょう」
先生は擦った紙を返されました。返す前に、二本の指で端をつまんで、光の向きを一度変えておられます。凹みは、光を斜めから入れたほうがよく見えます。三十年、書付を見てこられた方の手つきでございました。
「エルシャさん」
「はい」
「順を並べてごらんなさい」
わたくしは紙に書きました。
二十六年前、殿下が輿入れ。南から四十鉢。
二十三年前まで三年で、四十鉢が全部枯れる。
二十四年前、アメリー様が王城へ呼ばれる。第百七号を三株、下賜。名目は奉納の返礼。
二十三年前、アメリー様がレーンフェルト家へ。
十九年前、伯爵家が建国祭の献花を始める。
「先生」
「はい」
「二十四年前の下賜先の欄に、アメリー・レーンフェルトと書いてございます。嫁がれる一年前でございます」
「あとから書き直したのです。名を、嫁いだあとの名に」
「なぜ、書き直しますか」
「書き直したくなるのは、最初の書き方に困ったときです」
先生は、湯呑みを持たれました。
「町の薬師の娘に、王家の株を三つ渡した。そう書けば、どうなりますか」
「……前例になります」
「なります。そして、そのころ王家の株は、家格のある家にしか下りておりません。系統帳を見れば分かります。第一号から第百六号まで、下賜先は全部、家です」
わたくしはユアン様の写しを思い出しておりました。第百八号は第百七号の子だと書いてある、と仰いました。頁は続いております。
「先生。困ったなら、書かなければよろしいのではございませんか」
「書かないと、株の行方が分からなくなります。三株が消えます。監督官は、数を合わせる仕事でもございますから」
先生は、湯を一口飲まれました。
「ですから、名目を変えたのです。返礼にすれば、家でなくてもよろしい。納めた者への礼ですから」
「ですが、納めた記録はございません」
「ないでしょうな。ですから、出どころの欄が書けない」
「削った」
「削ったのでしょう」
わたくしは湯呑みを持ったまま、しばらく動きませんでした。
「先生」
「はい」
「エドモン・ヴェルニエ様は、それをなさって、何を得られましたか」
先生は、答えられませんでした。
しばらくして、こう仰いました。
「何も得ておりませんな。私の見るかぎり、この書き換えで得をした者は一人もおりません」
帰りの乗合を待つあいだ、十九年という数を考えておりました。
十九年前に、伯爵家は建国祭の献花を始めました。わたくしが伯爵家の庭に入ったのは十五年前でございます。四年ずれております。ですから献花の仕事はわたくしが入ったときにはもう回っておりました。
入って三年目に義母様が仰いました。花期を九月三日に合わせるのはあなたがやりなさい、と。十二年前でございます。義母様が亡くなられた年でございます。
義母様が最後の四年、何をお考えだったかは存じません。ただ、あの方はご自分でお作りになった技を、十六の平民の娘に渡されました。渡した先を選んでおられます。
灰坂へ戻ったのは、五時でございます。十月の五時は、もう坂の下が暗うございます。門を入るときに、地の列の白がまだ見えました。竹でございます。株を抜いたところに立てたままの支柱が、五十一本ございます。抜けば片づきますが、抜きますと穴が残ります。
ノラが鋏を研いでおられました。研ぎ方は七月に教えました。刃を寝かせて、押すときだけ力を入れます。
「奥様」
「はい」
「分かりましたか」
「名前が分かりました」
「誰ですか」
「ヴェルニエでございます」
ノラは、鋏を持ち上げられました。
「それ、あの人ですよね」
「あの方の、お父様でございます」
ノラは、しばらく刃を見ておられました。
「お父さんが削ったのを、息子が守ってるんですか」
「まだ、分かりません」
「守ってなかったら、なんで見せないんですか」
わたくしは、桶に水を汲みました。十月の鉢は、五日に一度でございます。研ぎに使う水は別に汲みます。刃を当てた水は鉄の粉が混じりますので、株にはやりません。
「知らない、ということもございます」
「奥様、それ、本気で言ってます?」
「いいえ」
【今日の花暦】
鋏は、刃を寝かせて、押すときだけ研ぎます。引くときに力を入れると、刃先が丸くなります。丸い鋏で切った枝は、切り口が潰れます。潰れた切り口は乾きません。乾かない切り口から、枝は傷みます。研ぎ方で、翌年の枝の数が変わります。
書き換えで得をした人は、一人もいません。弁護士がそう言いました。それでも二十四年前に誰かが紙を削って、その息子が十一年、系統帳を開かせずにおります。
次回、ベルタ様の庭でございます。去年の七月に、二年かかると申し上げました。十月でございます。




